第36話



 気がつけば、日が暮れはじめていた。冷たい風が吹き、シファは立ちあがった。

「それにしても、どうしてあんなところにいたんです? 止められたことをわざわざやるほど、あなたもおろかではないでしょうに」

 わたしは思わず声をあげた。

「そうそう、それよ、忘れるところだったわ! 犬を追いかけてたのよ――黒い。つかまえなきゃ、あなたに殺されちゃうと思ったんだもの」

「犬?」

「そう。ちょっと頭がわるそうな、真っ黒な子よ。もし見つけても、殺さないでね――わたしの知り合いなの」

 小さく耳をふったあと、なら、気をつけておきますよ、とシファは約束してくれた。そのまま、先に立って、急な斜面をおりていく。

 わたしもあとにつづいた。まだ明るい空と、闇にしずむ地上。その境界に立つ、山々の黒い影。もう一月もすれば、あの頂は雪で凍てつく。羊たちも下りてきて、冬ごもりがはじまるのだ。

 前をいく白い背中に、わたしは聞いた。

「レイスが前に、天狼は絶対に、石をくわえたりしないんだっていってたわ。あれは、あなたたちにとって、地面の下が死後の世界だからなのね」

 シファはうなずいた。

「そうです。生きている狼は、空と風とに属する。死んだ狼だけが、地に帰るのです。ホローの狼の契約の場が、地面の下に設けられた意味がわかるでしょう? われわれ天狼は、あの扉の下で、一度死ぬことを要求されるんですよ。わたしとレイスも、一度、あの地下へおくられたのです」

「……おそろしいわ」

 つま先からぞっとふるえながら、わたしはつぶやいた。それから、聞いた。

「そのとき、レイスはまだ子供だったのね?」

「ええ。――彼は、子供のときから頑固でしたね。けれど、それで、わたしは救われた」

 ちらりとこちらをふりかえり、シファはつづけた。

「わたしが契約の場に引き出されたのは、彼が六歳のときでした。鎖につながれ、地下に引きずりこまれて、とうとう来るべきときが来たと思いましたよ。けれど、どれだけ儀式をせまられても、レイスはそれをこばんだ。おかげでわたしは、助かったのです。でも、彼の父親は怒りましたよ――一族の前で、血が飛び、気を失うまで、彼をなぐった。臆病もの、おまえはそれでも、ホローの男かと言ってね――」

 狼の声に、一瞬、皮肉で残忍な響きがよぎった。けれど、シファはそれを、一息の吐息で吹きはらった。

「それから、レイスとわたしは二人きりでしたよ。まともに話ができるような、正気の仲間は、わたしにはいませんでしたし。彼の身内も、似たりよったりでしたからね」

「――って、人間のほうも、おかしくなってたってこと? 呪いのせいで?」

「だと思いますよ。ああいう術は、やはり、かけた方も無事ではすまないんでしょうね。みな、何かにおびえ、いらだっていた――」

 そこで、シファは声をとぎらせた。小さくつづける。

「……時おり、思うことがあるのです。われわれ獣のもつ力は、人間のたましいにとって、毒なのではないかと。そして、逆も言えます。人間の血に流れる知恵や欲は、われわれ獣にとって、毒なのではないかと……」

 そのとき、思いがけない声が、横から飛びこんできた。

「で? それはいいが、聞いてもいいか? ――今まで何をやっていた?」

 見ると、庭の入り口の木立ちの下に、レイスが立っていた。いつのまにか、小屋に帰りついていたのだ。

 シファはもちろん、気づいていたのだろう。落ち着きはらって答えた。

「別に大したことではありませんよ。少し、話をしていただけです」

「あるじの許しもなく、昔語りか。――聞いてもいいか? お前の主人は誰だ」

「もちろん、あなたですよ。二度も命を救われた恩を、忘れるものではありません」

 いうなり、翼を大きくひろげて、シファはそのまま飛びたった。去りぎわ、ちらりとわたしに微笑んでいく。

 深いため息をついたものの、レイスは何も言わなかった。そこで――しばしの葛藤のあと――わたしは、自分から、折れることにした。淑女に手をあげたのは許しがたいが、だからといって、意地をはるのも大人げない。

「ええと、さっきはごめんなさい。わるかったわ……」

 あやまるわたしに背をむけて、レイスは小屋に入っていった。

 と、思ったら、ランプに火をともしてもどってくる。

「で? あいつに何を聞かされた」

 口調には、もう、怒りは感じられなかった。なので、こちらも素直に答えることにする。

「ええと……昔の話とか。十年前に、なにがあったのか、とか」

 ふん、と鼻で息をつき、レイスは戸口に腰をおろした。そしてもう一度、深いため息をつき、そのまま、ランプの灯に見入る。それきり、何も言わない。

 ――って、なんなのよ? あなた、わたしに話があるから、ここにいるのではないの?

 ……やれやれ。まったく、もう。仕方なく、こちらから切り出すことにする。

「――でも、シファに聞いたけれど、あなた、たった六歳で、シファを契約から守ったんですって? わたし、あなたの性格も態度も、尊敬できないと思っていたけれど、でも、そのことだけは尊敬するわ。わたしだったら、できたかどうかわからない」

 レイスはにこりともしなかった。

「たいしたことじゃない。契約を結ぶ方が、俺には怖かっただけだ」

 なによ、せっかく持ちあげてあげたのに。と、いらっとしそうになったけれど、ここは我慢だ――この人は、狼とばかりいたせいで、人間らしい会話の機微というものを学ぶ機会もなかった、可哀そうな人なんだから。

「でも、わたし、わからなかったのはね。どうしてホローの人たちが、呪いに手を染めたのかっていうことよ。そりゃ、いちど始めたら、やめられなくなってしまうのはわかるわ。でも、そもそもの始まりは、いったいどうして? ろくなことにならないって、わかっていたでしょうに」

 その言葉に、レイスは顔をあげた。何かをはかるように、こちらを見つめる。暗いその目は、こうたずねていた。――本当にわからないのか?

 わたしは思わず、首をかしげた。本当にわからない。

「狼に人を殺させるため」

 簡潔に言い、レイスは立ちあがった。こちらを見おろし、低くつづける。

「もし、あんたが、獣には人殺しができないと思っているなら、それはまちがいだ。人を殺させることができないなら、それをできるようにする方法を見つけ出すのが、人間だ」

 低い声。その響きにこもるのは、怒り。それとも恨みだろうか。

「ホローにだって、呪われた技と縁を切ろうとした者はいた。禁じられた技は、いくども封印され、けれど、そのたびに開かれてきたんだ。それを望む者が、命じる者がいたから。――ひとたび事がおこれば、雷を吐く白い狼を、自軍に望まない王などいない。平時には、呪われた獣使いなどとは、無縁のふりをしていてもな」

 ただ、レイスを見つめたまま、わたしはなにも言わなかった。……言えなかった。

 聞いてしまえば、そのとおりだ。他にどんな理由があるだろう。戦いに獣をつかうことを、一度も考えたことがなかったとは、やはり、わたしは世間知らずなのだ。

 やがて、レイスが言った。

「……で? あんたはどうするんだ。ここがどんな場所か、少しはわかっただろう」

 わたしはその言葉に苦笑いした。

「シファにも同じことを聞かれたわ。でも、わたし、まだ決めていないの。ここにいたらいたで、あなたたちに迷惑をかけるんだろうけど、でも、だからって家に帰っても、きっと、なんにも変わらないんだもの。家出なんて馬鹿な真似をしでかしたからには、もう、このままずっと家にいるしかないんだろうけど、でも、それでどうなるかって言ったらね――結局、わたしは退屈し、父さまは困り果てる。それしかないというわけよ」

 わたしの言葉に、レイスはしばらく考えこんだ。そして、ふいに言った。

「俺は、ディースは悪くないと思う」

 わたしは面食らった。

「――え? ええ?」

「ドラゴンは、面白味はないが、賢明な連中だ。人に飼われていても、人とまじわることはない。あんたの親父も同様だ――獣使いとしての仕事のしかたは、粗野でも堅実だ」

「でも、そんな。だって、父さまったら、竜をトカゲの大きいのぐらいにしか、考えていないのよ――」

「――と、あんたは言いたいんだろうが、でも、それが賢いやり方じゃないと、どうして言える?」

 口をあけたまま反論もできず、わたしは言葉をのみこんだ。……そうか。そういう考え方もあるのか。

「だから、あんたがディースに帰るというなら、俺はそれが賢明だと思う。――あんたがそれじゃ辛抱できないというなら、もう、知ったことじゃないけどな」

 そのまま、地面に手をのばし、ランプを拾いあげると、レイスは牛の世話をしにいってしまった。

 あとにのこされたわたしは、考えこまずにはいられなかった。暗闇のなか、星の下で。

 ずっと、レイスには嫌われていると思っていた。たぶん、それはまちがっていない。彼からすれば、わたしなど、見ているだけでいらいらする、どうしようもない人間だろう。

 でも――きっと。レイスについて、わたしにはわかっていなかったことが、もう一つあるのだ。

 何を言うにしろ、するにしろ、レイスは自分の好き嫌いなど、たいして考慮に入れていない。彼が考えるのは、いつも考えているのは、もう、ホローから、不幸な獣や人を出さないこと、それだけだ。だから、自分にも、ホローにも人を寄せつけないし、わたしのことも、遠ざけようとした。

 でも、だとすると。彼に帰れと言われなくなったわたしは、認められたのだろうか。まともな獣使いになるのは、無理だとしても――少なくとも、獣に害はなさない人間として。

 それは――もしかすると、案外、誇れることなのではないだろうか。

 やがて、レイスが帰ってきた。食事の支度をするには、もう遅いから、新鮮な牛乳とパンで、夕食をすませることにする。どちらからともなく庭に出て、手を洗い、パンをかじる。虫の音と、湿った空気。カラマツとモミが、強く香る。ミルクを飲みほして息をつき、山々の静けさに耳をかたむけていると――

 暗い夜空に、狼の声がひびいた。わたしには、どこから聞こえてきたのかわからなかったけれど、レイスは迷いなく、空の一点を見あげた。

 彼の見る方を見あげると、遠く、夜の鳥のように飛ぶシファの姿があった。翼を広げた、その姿。暗い雲をかすめ、時おり月光をうけて、あわく輝く。そうして、何かを呼ぶように吠える。一度。それから、もう一度。

 狼の声。人の言葉ではあらわすことのできない、獣の声。――そうか、今夜は満月だ。

「二度、か」

 ふと、レイスがつぶやいた。わたしは聞きかえした。

「何?」

「――いや。シファが、ときどき言うんだ。俺に二度、命を救われたと。でも俺は、一度しか助けた覚えはないんだ――あいつと契約しなかったことを、命を助けた、というならばだが」

 黄色いランプの明かりのなか、わたしは思わず、レイスを見つめた。

 そういえば、シファが言っていた。レイスは知らないのだと。あの日、シファが、炎のなかで死にゆくさだめだったことを、にもかかわらず、レイスの言葉にすがって生きのびたことを。そのためにおのれの血が曇ったと、もうまともな天狼ではなくなってしまったと、そう、シファ自身、信じていることを。

 わたしはレイスを見つめた。大きく一度、息を吸って、吐くあいだ。

 それから、言った。

「わたし、知ってるわよ、なぜなのか」

 おどろいた顔で、レイスがわたしを見た。

「本当よ。シファが話してくれたの」

 ランプの光のなか、わたしを見つめる暗い色の瞳を、まっすぐに見返す。

「でも、あなたには教えない。あなた、知りすぎているもの、獣のこと。ひとつくらいわからないことがあっても、いいと思うわ」

 レイスは何も言わなかった。ただ、わたしの顔を見つづけていた。

 それから、言った。

「……そうか」

 そして、それきり、どちらも口をきかなかった。

 けれど、暗闇のなか、わたしは強く両手を握りしめていた。どうしてか、ふいに、思えてきたのだ――もしかすると、わたしでも、ホローの役に立つのかもしれないと。畑仕事一つ、満足にできなくても、獣使いとして、使いものにならなくても、もしかすると、役に立つのかもしれないと。

 それは、訳などない予感だった。自分でも理由はわからない、けれど、たしかな手ごたえだった。あたらしい扉が、きゅうに、目の前で開いたような気がするほどに。

 なぜか体があたたかくなり、胸がどきどきするのを感じながら、わたしはじっと、暗闇のなかにすわっていた。

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