第35話

 狼のあとについて、のろのろと、来た道をもどる。石段をのぼり、くずれた城跡と焼け跡をとおり、松林をこえて、谷を見下ろす崖の上に立つと、眼下の谷底、ふもとの小屋の前に、もう、動きまわる人影があった。

 レイスだ。鶏小屋の掃除をしている。どんなときでも、動物たちのことは忘れないのだ。

「あの人、意固地なのは人間にたいしてだけよね」

 ぼそりというと、シファが苦笑いした。

「許してやってください。意固地には、意固地なりの理由があるんですよ」

「それはわかってるわ。よくは知らないけど、今まで大変だったんだろうと思うもの。でも、それとこれとは別よ。自分が人より苦労したからって、人に冷たくあたっていいという理由にはならないわ」

 いいながら、ふもとを見ると、レイスは今度は、柵ごしにアレクを呼びよせて、足と蹄を見てやっていた。たまに明るいうちにもどってきたものだから、点検しているのだろう。

 ――やれやれ。わたしはため息をついた。本当に、獣にはよく気をつかう。

 すると、となりでシファが言った。

「聞きたいですか? 十年前のことを」

 その言葉に、わたしは思わずふりかえった。狼の顔を見あげる。

 狼はいつもと変わらない金色の瞳で、わたしを見おろしていた。思いきって、その目を見返したあとで、わたしはうなずいた。

 ――十年前に起きた、ホローの惨事。あの焼けた城や砦を見たあとで、その詳しいようすを聞くのは、怖いような気もする。

 でも、たぶん、知らないよりは、知っておいた方がいいのだ。ここまで深く、ホローに関わったからには。シファや竜たちのことを、大事に思うのならば。あの扉を見たあと、目をつぶったままでいるのは――やはり、いけないことのような気がする。

 崖のふちの高台に、シファとならんで腰をおろした。膝まである草に埋もれると、見えるのは、谷の対岸の緑の山と、澄んだ秋空ばかりだ。陽をうけた枯草が香り、虫の羽音がひびく。美しく、あたたかい初秋の谷は、ひどくおだやかだ。

 けれど、わたしたちの後ろには、今も、あの城が建っている。人の死と獣の死を、内に秘めたまま。

 狼は話しはじめた。

「事件のきっかけが、何だったのかは知りません。わたしとレイスは、あの晩、あの城にはいませんでしたから」

 目を伏せてつづける。

「知らせを受け、もどったときには、城は燃え、使用人もみな逃げたあとでした。残っていたのは、炎のなかで、血の泡をふいて転がりまわる十六頭の狼――それで、わたしたちは、何が起きたのか、すぐに悟ったのです」

 わたしは狼を見あげた。白い毛皮におおわれた横顔に、表情はない。

「狼たちは、呪いにかかわった人間をすべて殺し、そして、はねかえった呪いの効力によって、みずからも死にゆこうとしていた。ですが、天狼は強い種族ですからね――そのままでは、何日も苦しみ続けることになるのはあきらかでした。わたしとレイスは炎の中にはいり、一頭一頭にとどめをさしてまわったのです」

 わたしは思わず息をのんだ。ゆらぐ炎のなか、のたうちまわる狼を殺してまわる、一人と一頭の姿が見えたような気がした。

「……さっき、あなたがいた、あの場所。地面を固い石におおわれたあの場所は、十年前のあの日、最初の炎があがった場所、長いあいだ、ホローの技の中心が置かれてきた場所なのです。地面に埋めこまれた、大きな扉を見たでしょう。かつて、ホローの獣使いは、あの扉の奥で、おのれの狼に呪いをかけた。何百という狼が、あの下で絶望を味わってきたのです」

 ふと、表情をやわらげ、シファはわたしを見おろした。

「――だから、レイスは怒ったんですよ。ただびとならともかく、あなたは獣使いだ。少なくとも、その血をひいている。ホローの過去は、あなたにとって、忌まわしいのみならず、危険でもある――さっきのあれは、あなたに怒ったというよりは、むしろ、あなたを心配したともいえるのです。あの場所は、おぞましい場所ですから」

 わたしは黙ったまま、膝のうえに組んだ腕に、頬をうずめた。

 たしかに、そうだ。あそこは、恐ろしいところだった。この世にあってはならない場所、何かをねじ曲げたような呪いの力が、石の一つ一つにまで染みこんだ場所だった。――わたしのような半端者にすら、その恐ろしさが、おぼろげに感じとれるほどに。

 しばらく黙りこんだあとで、わたしは言った。

「それならそうと、言ってくれればいいのよ。ばしんと引っぱたいて終わりじゃ、たたかれた方は何もわからないわ」

「わかってもらおうという気が、ないのでしょう。彼は他人を信用しないし、ホローの遺産を、このさきもずっと、一人で背負っていくつもりでいる」

 そこで、シファはゆっくりと目を細めた。低く言う。

「……でも、わたしには、そうすることが彼のためになるとは思えない。むしろ、危険だと思えてならない」

「危険?」

 思わず聞きかえす。

 すると、シファが目を閉じた。そして、そのまま、しばらく黙っていた。

 やがて、狼は目をあけると、口をひらいた。

「……こんな話を、ご存知ですか?」

 秋の陽にかがやきながら広がる谷を見おろし、シファはかすかな笑みを浮かべた。

「"昔、人と獣は一つだった。けれどあるとき、世界の創り手は言った――こどもたち、わたしはお前たちに、四つの宝を贈ろうとおもう。その四つとは、言葉、力、知恵、野生だ。だが、お前たちはこのうちの半分、二つずつしか取ってはならない。それ以上は、分を超えたことだから"」

 ――子供でも知っている、昔話だ。わけがわからないまま、わたしはあとをつづけた。

「"そして、四つの宝のうち、言葉と知恵をえらんだものが人になり、野生と力をえらんだものが獣になった。"――そうよね?」

「そうです。ですが、あなたはこの話の本当の意味をしっていますか?」

「本当の意味?」

 聞きかえすと、シファはうなずいた。金の目をゆっくりと閉じ、ふたたび開く。

「……ええ。この話は、警告なんですよ。獣と人とにたいし、分をわきまえよ、と言う――。もっとも、わたしも、それに気づいたのは、道をはずれたあとでしたが」

 それからしばらくのあいだ、シファは何も言わずにだまっていた。だまって、しずかに、秋の谷を見おろしていた。

 けれど、やがて、にぶく光る瞳が、わたしをとらえた。

「……これから話すことは、レイスですら知らないことです。知ってどうするかは、あなたしだいですが――できればこの先、物わかりの悪い者たちには、他言しないでいただけるとありがたいのです」

 わたしはひそかに、息をとめた。どうしてだろう。おだやかに告げられたその言葉は、暗い水中に沈んでいくおもりのように、わたしの中に深く、深く沈みこんでいった。わたしは思わず、よろめいた――受けとった言葉の重みに、耐えかねるように。

 それから、うなずいた。

「……わかったわ」

 そして、シファは語りだした。


『われわれ天狼のあいだには、古い言い伝えがあります。狼が死をむかえるとき、そのたましいを地底に迎えいれるため、母なる大地が歌を歌うというのです』

 ――それは、狼に死を告げる歌。死にゆく狼にだけ、聞こえる歌。耳にした狼は、必ず命を落とすという。

『でも、もちろん、わたしはそんな話、信じてはいませんでした。地面が歌うなど、年寄り狼の世迷い言だと……そう、思っていたのです』

 それなのに。

『――なのに、あの夜、わたしはたしかに聞いた。炎のなか、のたうちまわる仲間たちのうえに、流れる歌を』

 信じてなどいなかったのに、たしかに聞こえた。

 狼の耳にしか聞こえない歌。

 はるか遠い昔から、彼ら、天狼を呼びつづけてきた歌が。

『大地の歌――それはとても、冥い響き、このうえなく恐ろしく、それでいて美しく、どうしようもなく逆らいがたく、惹きつけられるものでした。わたしは恐ろしかった。自分が呼ばれていると、はっきりと感じたのです』

 けれど――。

『けれど、そのとき。同時にわたしを呼ぶ、もう一つの声がありました。来い、とわたしに命じるレイスの声です。レイスはわたしに言いました。来いと。来て、自分とともに、仲間たちを殺せと。殺してやれと』

 シファの声が、そこで、はっきりとふるえた。

『そして――わたしは、誘惑に負けたのです』

 体の外からも、内からも聞こえる、母なる大地の呼び声に耳をふさいで。

 天と地に根ざす、狼であることを捨てて。

『わたしはレイスの声にしたがった。定められた死に背をむけて、おのれの運命に背をむけて、レイスが跳べと言えば跳び、噛めといえば血を分けた兄弟を噛んで――』

 母なる大地の声に逆らい、おのれの身に流れる血を裏切って、人とのきずなにすがった。

 それによって死をまぬがれ、けれど、死ぬほどおびえていた。

 自分が何より大きな裏切りを働いていると、知っていた。


 しばらく黙ったのち、シファは言った。

「あの日から、わたしの血は濁ってしまった。もう、天狼とは呼べないものになってしまいました。わたしが死すべき時が来ても、大地はわたしを呼んではくれないでしょう」

「でも、それは――」

 あげかけた声をさえぎるように、狼がまっすぐにわたしを見た。

「そして、わたしだけではないのです。わたしが、獣としてあるべき姿を見失ったということは、同時にレイスが、人としてのあり方を、踏みはずしたということでもある。誰かの命を背負うということは、その相手の命の幾分かを、自らも生きるということです。人と人とのあいだでは、それもまた良いのでしょうが、人と獣のあいだでは、それは、ことわりに反するのです。――彼は、狼に、わたしに、深くかかわりすぎた。獣と、強く結びつきすぎた。世の始まりからこっち、そういう人間に、ろくな運命が待っていたことはありません」

 狼は、しずかにつづけた。

「わたしがなぜ、あなたをここにとどめようとしたか、これでわかるでしょう。人と獣は、離れていればいるほどよい。互いに分を超えたものである、相手の力をもとめてはならない。それゆえ、わたしたちにはあなたが必要なのです。人は人と、獣は獣と生きる――かなうならば、それこそが、もっとも正しく、安全な道なのですから」

 狼はそこで、口をつぐんだ。

 かわいた崖の斜面に、沈黙がひろがる。

 言葉をさがそうとして見つからず、結局、わたしは思ったままを聞いた。

「それはつまり――ようするに――あなたたち二人のつながりが深すぎるから、その毒消しに、わたしを使おうっていうこと?」

 シファは口の形だけで微笑んだ。

「毒消しですか。おもしろいことをいいますね。でも、そうでしょうね……わたしたちはもう、ずいぶん長いあいだ、二人だけですごしてきました。少し、長すぎたぐらいです。そろそろ、こんな危うい橋をわたるのはやめるべきだ。……あなたのようなひとがいれば、レイスも、少しは人間らしい生き方を取りもどすでしょうし」

 腹が立つことに、この最後の一言で、わたしの頬が、勝手に熱くなった。わたしは言いかえした。

「どうかしら。少なくともレイスは、わたしにいてほしいなんて、これっぽっちも思ってないわよ。わたしの顔を見れば腹が立つらしいし――顔を見なくても腹が立つらしいし。そりゃあ、こんな、仕事の一つもできない甘ったれじゃなくて、もっといろいろ役に立つ人が来たんだったら、少しはちがうかもしれないけど――」

「腹立ちも、人間らしい気持ちの一つでしょう。いいじゃないですか。レイスにしたところで、あなたのような人が相手だからこそ、いやいやながらも、口をきかざるをえないんですから」

 からかうように言い、けれど、真面目につけくわえる。

「ですが、選択はあなた次第です。ここにとどまるか、出ていくか――。われわれは逃れられませんが、あなたには自由があるのですからね」

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