B-第02話:闇の向こうに

 窓の外から聞こえる車の走行音、時計の秒針が進む音。そんな時の回廊は、蛍光灯の光で満たされている。僕の心という例外を除いて、その光は部屋を明るく照らす。


 僕のぽかりと空いた心の穴から大切な何かがこぼれ落ちていく。砂時計の砂が上から下に落ちるかのように、心を満たしていた大切ななにかが、少しずつ、確実にこぼれ落ちていく……。僕は、そんな何かに必死に耐えなければならなかった。時刻は深夜三時、万物が寝静まる、虚無が世界を支配するそんな時間。そして、僕が自分の心に住まう死神を意識できる唯一の時間。


 昨日も多くの人の命が失われた。ニュースはその事実を伝えていたし、それは人間である以上、寿命という業をもつ以上、避けられない運命なのであろう。たとえそれが交通事故であろうと、殺人事件であろうと、病気であろうと、本質が変わることはない。死という運命が変わることはない。誰もが不平等な条件で生を受ける。しかしそれとは裏腹に、すべてが虚無に帰る死は平等に訪れる。そんな死という当たり前のモノが僕の隣に寄り添い続けている。


 もちろん僕は、それを忘れて生きることができる。その横にあるそれを感じずに生きることも不可能ではない。でも、それでも、この時間だけ、いくら頑張ってもこの時間だけ、どうしようもない感情が僕の心を暗く満たす。どす黒く、死という恐怖が僕の心をただ静かに満たす。


 そして、僕は、日々の学校生活の中で、忘れているはずのその生活のなかで、それに寄り添いたいと思う時が確かにある。友達と喧嘩けんかした時、好きな女の子に冷たくされた時、先生に叱られた時、テストの点が悪かった時、それは唐突に僕の心の扉をノックする。何度も何度もノックする。そして僕は、その恐怖と、なぜか甘美なその感覚に寄り添いたくもなる。何度も何度も死に寄り添いたくもなる。


 確かにそれは、その気になれば、いつでも僕は実現することができる。いつでも死ぬことはできる。でも僕は死ぬことができない。この窓をあけ、13階のこの窓をあけ、そこから飛び降りることさえできれば、いつでもその願いはかなう。でも、僕はそれをすることができない。なぜなら僕の心は死に対し強烈な否定の感情をもっているのだから……。


 ほんとにこれは、笑うしかないパラドックスだ。僕は、一日に何度も何度も死を受け入れたくなる、よりそいたくもなる。でも僕の心は、僕の気持ちは決して揺らがない。いつでも死ぬことができるはずなのに、僕は死ぬことができない。僕の心はそれを受けいれることができないのだ。


 目の前にがけがあり、そこから飛び降りることさえできれば、いつでもその願いはかなう。しかし、僕はそのがけの下をのぞくことができない。怖くてのぞくことさえできないのだ。いつもそのがけの下に飛び降りたいと願っている僕の心は、そのがけの下をのぞくことさえ許さないのだ。


 死というものは、いつも僕のそばに寄り添っている。漠然とそれを感じながら僕は生きている。そして、深夜のこの時間に至っては、僕はその死という死神といつも視線を合わせている。そして、将来きたるべき死に、明日くるかもしれない身近にたたずむ死に、僕は親近感さえ覚えている。にもかかわらず、それ以上の嫌悪感が僕の心を支配する。気軽に死にたい、死にたいと願いながら、心の奥底では、生きたい、生きたいと叫び続けている。死という恐怖に向かいあっているはずなのに、僕は、いつの間にか、それ以上の生を願うようになっている。そんな矛盾を抱えながら、時は常に前に進み続けている。死を願う強い気持ちと、生を願う強い意志の狭間に僕はただ生きている。ただ、それだけなのに……。

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