─37─異変
「何……?」
違和感を覚えたのか、シエルは何故か視線をめぐらせる。
ほぼ同時に、両軍から停戦を告げる角笛が鳴り響いていた。
「……どうして?」
突然のことに、疑問の色を隠せないシエル。
その思考をさえぎったのは、ロンドベルトの叫び声だった。
「副官⁉」
見ると、先刻まで恐怖と戦いながらシエルと対峙していたヘラが、糸の切れた人形のように大地へと崩れ落ちるところだった。
かたわらにひざまずき、珍しく色を失うロンドベルト。
シエルはそんな両者をしばし眺めていたが、何を思ったか剣を鞘に収め、ゆっくりと歩み寄る。
そして、ロンドベルトの正面に膝を付き、ヘラの額に手をかざす。
その口からは、何時しか静かな祈りの言葉が紡がれていた。
「……汝に平安あれ」
祈りが終わると同時に、ヘラのまぶたがぴくりと動く。
それを確認すると、シエルは無言のまま立ち上がり、振り向きざまに言った
「……達成率が低いから時間はかかるけど、いずれ目が覚める」
そして、何かを言いたげなロンドベルトから逃れるようにその場を足早に立ち去った。
※
本陣に戻ると、そこは異様な雰囲気に包まれていた。
一体何があったのか。
状況がつかめずにいるシエルを出迎えたミレダは、開口一番こう言った。
「……大丈夫なのか? お前、血まみれじゃないか。まさか、どこかに怪我を……?」
不安げに向けられる眼差しに、シエルは首を左右に振る。
ミレダは安堵の表情を浮かべるも、今度はユノーが問いかける。
「とりあえずご無事で何よりです。それで……その、大変失礼ですが、トーループ将軍は……?」
再びシエルは首を左右に振り、小さな声で撃ちもらした、とつぶやく。
と、ミレダとユノーは、ほぼ同時に心底ほっとしたように吐息をもらした。
「……俺がしくじったのが、そんなに嬉しいのか? それよりも……」
あの急な停戦命令は何なんだ。
そう尋ねるシエルの前に、戦場にはいささか不似合いな文官が姿を現した。
わずかに驚きの表情を浮かべるシエルに、文官は生真面目に深々と一礼する。
「失礼致しました。フリッツ公爵閣下のご命令でございます。皇帝の命令を破棄し、エドナと和平を結ぶべし、と。ついては、速やかに停戦せよとの仰せです」
けれど、未だシエルの顔からは疑問の色は消えない。
むしろその色は、更に深くなったようだった。
「……フリッツ公? それって、確か……」
もちろんシエルもその人がどういう立場の人かは知っているし、不名誉な二つ名も知っている。
どうしてこんな重要な命令を、宰相ではなく、今まで政に関わって来なかったフリッツ公爵が下したのか。
思わずシエルはミレダをかえりみる。
やや疲れの見える美しいその顔には、何とも言い難い表情が浮かんでいる。
シエルの内心の混乱を察してか、文官は皇都で起きた事の顛末を簡潔に告げた。
「メアリ陛下は先帝陛下暗殺の
そう告げられても、シエルはまだ実感がわかないようだった。
呆然として立ち尽くすシエルに向かい、文官はフリッツ公直筆の停戦命令書を示す。
暗愚とは無縁の流麗な筆致で書かれたその文末には、皇帝代理人フリッツ公イディオットとの署名と、見慣れぬ印が捺されていた。
これは、とでも言うように見つめてくるシエルの視線の先で、ミレダはわずかに頭を揺らした。
「紛れもなく、皇帝の印璽だ。これが捺されている以上、理由はどうあれ私は従わざるを得ない」
しかし、従兄が実の姉の罪を暴き、その地位から追い落としたのだ。
ミレダの内心は穏やかではないだろう。
「……従兄殿は政務で皇都を離れられないから、私に講和を結ぶ全権を委ねる、と言うわけなんだが……」
「勝手なことを言うよな。戦をおっ始めたのは、他ならない自分達じゃないか。都合が良いにも程がある」
困ったようなミレダと、怒りを抑えきれないシグマ、そして間に挟まれているユノー。
そんな三者に無感動な視線を向けてから、シエルは皆に背を向けておもむろに歩き出した。
「ま……待て。どこへ行くんだ? 」
あわてて声をかけるミレダをつまらなそうに
「戦が終わったなら、俺がここでできることは無い。邪魔者は消える。それだけだ」
言い終えると、シエルは振り返ることなく歩み去る。
不安げなミレダの視線を受けて、ペドロは一つうなずきその後を追う。
しばし流れた重い沈黙を破ったのは、皇都から訪れた文官だった。
「恐れながら殿下、先方へもすでに使者を送っておりますが、そろそろ戻ってくる頃合いです。和議を進める運びとなりますが、よろしいでしょうか」
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