─31─静かな反乱
ランスグレンで戦端が開かれる数時間前に話はさかのぼる。
フリッツ公イディオットは、ある知らせを受け取っていた。
それは言うまでもない、オトラベスのジョセからのもので、無事『待ち人』と出会うことができたという内容だった。
安堵の息をつくと、イディオットは執事に向かい馬車を出すよう命じる。
車止に廻された馬車に乗りこむ刹那、イディオットは見送りに出ていた執事や家人に告げた。
もし夕刻までに自分が戻らなければ、ためらうことなく屋敷から逃げるように、と。
そして、最後まで至らぬ主ですまない、と詫びた。
こうしてイディオットは、自らの戦場へと踏み出した。
※
たどり着いた議場では、既に会議が始まっていた。
突然現れたイディオットに、居並ぶ人びとの視線が集中する。
無理もない、彼は成人してから今までただの一度も政に関わろうとしなかったからだ。
好奇の目にさらされつつも、イディオットは人々の顔を見やる。
どうやら皇帝は欠席のようで玉座は空席、当然のごとく妹姫は出陣で不在。
ただ一人マリス侯のみが上座に着いていた。
「これは……。どういった風の吹き回しでしょう。今日の議題には、芸術関連のものはございませんが」
嫌味の込められたマリス侯の言葉に、議場内のあちこちから失笑が漏れる。
が、イディオットは一つ息をつくと、静かに語り始めた。
「無論それは承知の上。ですが、ひいては文化と芸術を守るために参りました」
「……ほう。それは一体、どのような?」
わずかに眉根を寄せるマリス侯を、イディオットは臆することなく見据えた。
そのいつにない圧力に、議場内はしんと静まり返る。
それらの人々をぐるりと見回してから、イディオットは切り出した。
「国体がしっかりしていなければ、文化は廃れる。今、この国の現状はいかがでしょう」
「我が国はメアリ陛下の統治の元、すべての国民は幸せに暮らしている。違いますか?」
「……本当に、そうでしょうか」
僅かに目を細めるマリス侯が何かを言おうとする前に、イディオットは言葉を継いだ。
「時に宰相閣下、メアリ陛下は御即位以来勅命にご署名はされていらっしゃいますが、玉璽を捺されておられないようですが」
瞬間、マリス侯は居住まいを正す。
一方、出席者一同は固唾をのんで両者のやり取りを見つめている。
「……陛下は生来ご病弱。執務のご負担を多少なりとも減らすため、やむを得ず……」
「でしたら玉璽を捺される方が遥かに軽減になるのではありませんか?」
確かにその通りではある。
議場内はわずかにざわめく。
鋭い光を放つ青緑色の双眸でマリス侯を睨みつけながら、イディオットはさらに続ける。
「では、申し上げましょう。……陛下は玉璽の指輪をお持ちではない。違いますか?」
さして大きな声では無かったが、その言葉は一同に衝撃を与えるには充分だった。
無理もない、皆玉璽は皇帝と共にあると信じて疑っていなかったからだ。
滅多に表情を動かさないはずのマリス侯が、この時わずかに青ざめたようである。
「そ……そのようなことが、あるはずが……」
絞り出すようなその言葉は、だがどこか苦しげだった。
波立つようなざわめきが、議場のそこかしこで起こる。
そこへイディオットは決定的な一言を投げ込んだ。
「玉璽とはすなわち、皇帝の象徴にして分身。それを持たずして陛下が即位したとあらば、
どよめきが、大きくなる。
その時だった。
マリス侯は、卓の天板を平手で叩きつけると同時に立ち上がり、珍しく激高したような口調で切り出した。
「失礼ながら公爵閣下、そのお言葉は不敬に当たられますぞ。このような場所で口走るなど、遂に気がふれられましたか?」
しばしの沈黙。
が、不意にイディオットは寂しげな表情を浮かべ、こう切り出した。
「……汝善き為政者であれ。ゆめ忘れ得ぬよう我と共にあれ」
刹那、マリス侯は糸の切れた人形のように椅子に座り込む。
その瞳はこれ以上ないくらい見開かれ、イディオットを凝視している。
「なぜ……どうして公爵閣下がその言葉をご存知なのです?」
「逆におうかがいいたします。陛下はこの言葉を直接見たことがおありですか?」
イディオットの言葉にマリス侯はがっくりと首を折り、力なくつぶやいた。
「ご拝察の通りです……。陛下のお手元に、玉璽は不在。無論その言葉を知る由もありませぬ」
と同時に、議場はマリス侯を糾弾する怒声に包まれる。
が、イディオットはそれらを鋭く一喝した。
「今すべきことは、政を正道に戻すこと。偽りの皇帝の誤った勅命を廃し、和議を……」
その言葉は、突然途切れた。
最奥の扉が前触れもなく開き渦中の人物、つまりは皇帝が姿を現したからである。
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