─25─ささやかな反撃
日はすでに西へ傾き、夕闇はすぐそこまで迫っていた。
そんな中、シエルはただひたすら旧道を走り続けていた。
時折すれ違う人の顔には、等しく疲れた表情が浮かんでいる。
間に合ってくれ。
そう思いながらふと、彼の脳裏をある疑問がかすめた。
果たして自分はどうしようというのだろう。
見捨てる訳にはいかない、そう啖呵を切って走り出した自分に一体何ができるのだろう。
迫り来る敵軍を前に、自分一人ではさしたる戦力にならないのは、火を見るよりも明らかだ。
けれど……。
その時、風向きが変わった。
向かい風に乗って運ばれてきたのは、彼の体に染み付いて離れない匂いだった。
そう、土埃と鉄臭さが入り混じったあの匂い。
シエルの足が早くなる。
生い茂る木々の中を抜け開けた視界の先に広がったのは、変わり果てた村の姿。
それは戦場と言う名の地獄絵図だった。
崩れた家。
燃え盛る畑。
そして、倒れ伏す人々の群。
上空には、猛禽が何かを狙うかのようにぐるぐると飛び回っている。
日が完全に沈む頃には、夜行性の肉食獣がやって来るのだろう。
今まで自分が築き上げ、長らくその身を置いてきた場所。
にも関わらずそれを目の前にして、彼は震えていた。
立つこともおぼつかず思わずその場に膝をつく。
虚ろに見開かれた瞳から光る物が流れ落ち、その口からはかすれた声が漏れた。
「そんな……馬鹿な……」
伝え聞くところ、ロンドベルト・トーループは根っからの武人。
その人が、武器を取ったことの無い村人達をここまで叩き潰すとは一体どういうことか。
そこまで考えを巡らせた時、シエルは我に返った。
背後から人の気配がする。
腰の短剣に手をかけつつ振り返ると、そこには黒衣に身を固めた二人の人影があった。
「き……貴様何者だ! こんな所で何をしている?」
全く予想のつかなかった来訪者に、驚いたような敵兵。
そんな彼らにをぎっと睨みつけながらシエルは言った。
「何が……何が軍神だ! お前ら、自分達が一体何をしたのかわかっているのか?」
その声はさして大きくはなかったが、戦勝に酔った彼らの感情に水をさすには充分なものだった。
「何者だ! 巡礼者……神官には関係無いことだろう!」
ゆらり、とシエルは足を踏み出した。
ただならぬ威圧感を感じたのだろう。彼らはさっと後ずさった。
彼らが武器を取るよりも早く、シエルは短剣を抜きその手を一閃させる。
銀色の光が弧を描く。
同時に鮮やかな朱が空中に舞った。
残されたのは、反撃の機会すら与えられず首筋から血を吹き上げ草むらに沈む二つの死体。
その時、異変を察知した黒衣の集団がわらわらと姿を現した。
無意識のうちにシエルは、死体の脇に転がる長剣を拾い上げると、流れるような所作でそれを構える。
その身から立ち上るのは、幾度も死線を越えてきた者だけが持つ殺意。
思わずひるんだところに、一瞬の隙が生じる。
それをシエルは見逃さなかった。
すい、と踏み出すなり構えた長剣を水平になぐ。
同時に低い姿勢を保ったまま大地を蹴った。
一つ、二つ、三つ。
すれ違うたび返り血を浴び、両脇に屍の山を築いていくシエル。
その姿は文字通り鬼神のようだった。
接近戦ではかなわない。
そう理解した黒衣の集団は、その周囲を取り囲みながら手を出しあぐねていた。
槍を構えた一団がじりじりとその包囲網を狭めていく。
その切っ先がシエルの喉元に届こうとした、まさにその時だった。
肩口に、激痛が走った。
見ると衣服は紅に染まり、黒い羽根の矢がそこに突き立っていた。
同時に冷たい声が響く。
「援軍か。ずいぶんと遅い到着だな」
その声に、緊張が走った。
何事かとシエルは痛みに耐えながら剣を引く。
漆黒の中から現れたのは、さらに深い闇だった。
黒い髪に黒い瞳を持つ長身の男。
言われなくともそれが誰かわかる。
エドナの軍神、またの名を黒衣の死神。
そう、ロンドベルト・トーループその人だ。
自分を見つめてくるその瞳に、シエルは何か違和感を覚えた。
冷たい光をたたえたその瞳は確かにこちらに向けられているのだが、どこかその焦点が合っていないのだ。
もしかしたら、この人の目は……。
ふとそんなことを思った時、低い声が沈黙を揺らした。
「援軍ではなくて神官か。ルウツは早々に敗戦を認め、弔いの祈りを捧げようという訳か」
その言葉に、シエルの中で何かが切れた。
藍色の瞳で死神をぎっと睨み返す。
と、黒玻璃の瞳に戸惑いの色が浮かんで消えた。
「何が……何が軍神だ! ここで死んだのは戦と無関係な農民だ! お前は軍神なんかじゃない。血まみれの死神だ!」
まさに掴みかからんとするシエルの勢いに、一斉に槍の穂先が突き付けられ、再び張り詰めた空気が場を支配する。
が、それを破ったのはやはりロンドベルトだった。
「なるほど。確かにその通りかもしれないな。が、悲しいかなエドナには誰一人真実を口にする者はいない」
はっとシエルは息を飲んだ。
ロンドベルトの顔には苦笑いが浮かんでいる。
何か言い返そうとした時、ロンドベルトはすでに踵を返し命令を下していた。
「なかなか面白いことを言われる御仁だ。ぜひともゆっくりと話しがしたい。……この方をアレンタにお連れしろ。くれぐれも丁重にな」
「まて! 俺は……!」
シエルは歩み出そうとするが、押し寄せる人垣と矢傷という二重の枷の前には無力だった。
気が付けば彼は大地に組み伏され、乱暴に猿ぐつわを咬ませられ、鈍い痛みと共に後ろ手に縛り上げられていた。
何が無紋の勇者だ。
その思考を最後に、シエルの意識は遠のいていった。
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