─3─死神の微笑
窓の外には『平和な日常』がある。
朝目覚め、昼働き、夜眠るという、戦いとは縁もゆかりもない日々が。
果たしてこの大陸の片隅で、無数の人々が戦火によってその生涯を終えていることを、どれほどの人間が知っているのだろうか。
何の変哲のない、ありふれた日常を夢見て死んでゆく人々を心に留めている人間がどれだけいるのだろうか。
そんなことを考えながら、ロンドベルト・トーループは笑みを浮かべた。
皮肉に満ちた死神の笑みを。
ザハドの戦が終結してから、二週間と少し。
本来ならば本隊と共に任地アレンタへ戻っているはずの彼は、マケーネ大公直々の命令により連盟首都エドナに滞在することを余儀なくされていた。
彼にとって、エドナは最も多感な少年時代を唯一の肉親である父親と過ごした場所である。
しかし、その父は既にこの世を去り、残っているのも楽しい思い出ばかりではない。
そして今回も待っている運命は十中八九、彼にとって喜ばしいものではないだろう。
その根拠は、彼自身が一番良く知っている。
屈辱的な負け戦となったザハドの戦い。
そのきっかけを作ったのは、ロンドベルトに他ならなかったからである。
常勝軍団イング隊を率いザバドの地でシグル隊と合流し、敵蒼の隊を
それが今回彼に下された命令だった。
が、彼は意図的に南下を遅らせシグル隊を単独で敵にぶつけ、ほとぼりが冷めようといったところで行軍を再開したのである。
結果、イング隊の損害は皆無に近かったが、不幸なシグル隊は壊滅的被害を受けた。
自軍を守るために最良の方法を取った訳ではあるが、シグル隊を派兵したアルタント大公が黙っているはずがない。
今回の事情聴取という名の軟禁も、ロンドベルトの直属の主であるマケーネ大公がその意向をくんだものである。
たかが一人のお尋ね者のために敵国に追っ手をさしむける異国の皇帝。
たかが一人の軍人の聴取に無駄な時間をかける二人の大公。
権力者とは本当に暇人だ。
そう思いロンドベルトは笑った。
その時だった。
扉が叩かれる音が、薄暗い室内に響く。
笑いを収めて彼は立ち上がり、どうぞ、と声をかけた。
一瞬の静寂のあと、扉は開く。
そこに立っていたのは、一人の少年だった。
マケーネ大公の侍従だという少年の瞳は、生ける軍神を前にしてきらきらと輝いていた。
「おくつろぎのところ、失礼いたします。お時間がまいりました。お支度を……」
「いえ、万事整っております」
言いながらロンドベルトは、少年に微笑を向ける。
感動のあまり耳まで真っ赤になる少年を前に、ロンドベルトは漆黒のマントを取り上げると、剣の通用しない戦場へと向かった。
※
がらがらという耳障りな
底冷えする街には、行き来する人の姿もまばらだった。
その寂しげな街の様子に目を向けていたロンドベルトは、ふと何者かの視線を感じる。
その主は、騎馬で馬車と並走している先ほどの侍従の少年だった。
「いかがしました? 私の顔に何か付いていますか? 」
本来ならば言葉を交わすことのない憧れの人に笑いかけられ、少年は頬を赤らめる。
そして、すぐ恥ずかしそうにうつむいた。
「いいえ、そうではなくて……。ただ、将軍閣下は何を見ておられるのかと思って……」
「何を、ですか? 」
問いかけられて少年はうなずき、ややためらったあと答えた。
「はい。閣下のような方は初めてです。今までお会いした方々は、皆様目先の物をご覧になっていたようなのですが、閣下はもっと手の届かない物を見ておられるみたいで……」
言い終えて、少年は申し訳ありません、と頭を下げる。
自分にもこんな時があったのだろうか。
純真な少年の言葉に、ロンドベルトは笑みを浮かべる。
普段の彼では考えられないような、皮肉や嫌みが加味されていない穏やかな笑みを。
そして、少年の鋭さに内心感心した。
なぜならロンドベルトの瞳は光を持たず、彼は常に見えざる物を見ていたからだ。
「確かにそうかもしれませんね。私はいつも、夢物語を見ているようなものですから」
「夢物語……。それは一体、どんな夢ですか? もしよろしければ……」
「戦いの無い世界を思い描いたことはありますか?」
逆に問いかけられて、少年は戸惑いの表情を浮かべ申し訳なさそうに頭を左右に揺らした。
無理もない。
戦争ははるか昔からこの世界に根ざしていたのだから。
「それが閣下の見ていらっしゃる夢なんですか?」
少年のまっすぐな視線を、だがロンドベルトは今度は受け止めかねて、黒玻璃の
無論それは、長年積み重ねてきた演技に過ぎないのだが。
が、少年は目を輝かせながらさらに続ける。
「あの……僕にも何かできることはありませんか? 少しでもお力になりたいんです」
「では一つだけお願いできますか? このことを誰にも言わないでください。下手をすると、私の首が飛びますので」
冗談めかして言うロンドベルトに、少年は何か言い返そうとする。
と、不意に馬車はその速度を落とす。
前方にはいかめしい軍務省の建物が姿を表した。
少年は自分の仕事を思い出し、あわてて居住まいを正した。
馬車が車止めに静かに止まった時、ロンドベルトは扉を開こうとする少年に囁いた。
「約束ですよ。お忘れ無きよう」
片目をつぶって見せてから、彼は漆黒のマントを翻し建物の中に消えていく。
その後ろ姿を少年はまぶしげに見つめていた。
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