─9─間者の子
庭園を走ることしばし、突然草むらががさがさと揺れる。
剣を構え恐る恐る歩み寄るミレダであったが、ややあってその顔には安堵の表情が浮かんだ。
「師匠様、こんな所で何を?」
そう、そこに身を隠していたのは他でもなく、ミレダの師アンリ・ジョセだった。
その頬には無数のひっかき傷が赤く浮き上がり、噛みつかれたのだろうか、歯形が残る手にはマントにくるまれた何かを抱いている。
「……お陰で助かりました。侯の懐に飛び込むなど、殿下のご命令とはいえ我ながら無茶をしました」
武人らしからぬ穏やかな灰色の瞳に、苦笑に似た光を浮かべるジョセ。
慌ててミレダは駆け寄り、その腕の中に納まっている物をのぞき込む。
そして思わず手にしていた剣を取り落とした。
抱かれていたのは他でもない。
全身に傷を負った、まだ幼い少年だったのである。
そんなミレダに、ジョセは既に司祭館には沐浴と薬師の手配はしてある、と告げた。
「宰相の懐……? では、西の塔へお一人で?」
西塔は宰相府の中にある牢獄で、最も劣悪な環境と言われる所だ。
そして今目の前で苦笑を浮かべているジョセは、その中に潜り込み『その子』を助け出してきたのである。
正規に裁かれることなく捕らわれた敵国の間者の子どもを。
「よりにもよって、最下層に押し込められていました。殿下のおっしゃる通り、確かに子どもに対してこの仕打ちは……」
そう言いながらジョセはその子どもの顔を見やりながら唇を噛んだ。
乱れたセピアの髪に、涙の後が残る血の気のない白い頬。
そして身体の至る所には非公式な『尋問』によるあらゆる種類の傷が刻まれ、更に両手首と首には重い枷がはめられていた。
「師匠様、何故これを外してやらないのですか? こんなに血が滲んでいるではありませんか」
「そうですね……頭の固い彼らがこのような『呪術』を信じるとは思いませんでしたが」
その言葉の意味が分からず、改めてミレダはおずおずと師の腕の中に納まっている少年を見やる。
その時初めて、固く冷たい金属で作られた枷には、びっしりと古代文字が刻まれているのに気が付いた。
「『力封じ』の呪符です。これほどまでに厳重な物は、私も初めて見ました」
ぴくりとも動かない死んだようなその顔を、ミレダは同情とも哀れみとも言い難い複雑な思いを抱いて見つめる。
その時少年の唇が、許して、と言うように微かに動いた。
涙を堪えるためミレダが顔を逸らしたその視線の先に、下級の神官が走り寄ってくるのが見えた。
「ジョセ卿! 薬師の準備が整いました! 猊下もご助力下さるそうです!」
わかった、と答えるジョセに、ミレダは首を傾げる。
何故神官の本分である『癒し』の言葉を使わないのか、という疑問をすぐさま師にぶつけた。
すると、ジョセは苦悩の表情を浮かべる。
「我々の力で治すには、残念ながら衰弱が激しすぎます。かくなる上は、すべてを見えざるものの意思にゆだねるしかありません。後はこの子次第です」
そう言い残し一礼すると、ジョセは下級神官を伴い司祭館へと消えていく。
ミレダはその後ろ姿を見送るしかできなかった。
※
「あの後もね、実は一騒動あったのよ。水をかけられた子猫みたいに暴れてしまって、ジョセの傷も増える一方で」
「では、あのひっかき傷や噛まれた跡は、あいつがやったのですか?」
知らないとはいえ、泣く子も黙る最強の神官騎士に対してそんなことをしたとは初耳だった。
呆れたようにミレダは目を丸くする。
その様子に大司祭は、あの時のことを思い出すように哀しげに微笑んだ。
その視線から逃れるように、妹姫はつぶやいた。
「私は、間違ったことをしたのでしょうか。私は奴の考えなど省みず、自分が何より正しいと我を通して……」
「それを決めるのは私ではないわね。あの子がどう思っているかは、本人以外には解らないことでしょう?」
優しく言う大司祭に、だがミレダは目を伏せる。
「確かに……確かにそうかもしれません。でも、私は奴の『命』を助けることには間に合いましたが……」
一端言葉を切り、ミレダは目を伏せ頭を揺らす。
結い上げられていない、緩く波打つ
「一番大切な拠り所……『心』を、助けることが出来ませんでした……」
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