─10─皇女と少年

 数日後、意識を取り戻した少年は司祭館に孤児として引き取られた。

 だが、その様子は生きているだけの人形の様だった。

 寝台に横たわったまま、身動きすることなく虚ろな瞳で天井を見つめている。

 口許まで食事を近づけられても全く反応を示さない。

 命を繋ぐため、看護役の神官が無理矢理に飲み込ませるという状態だった。

 傷が治って、ようやく自力で起きあがれるようになってからも、他の子ども達の遊びの輪に入っていくこともない。

 『殺意の暴走』という同じ過ちを繰り返さないようにとの配慮で、首から下げられた『まじない』の呪符を常に握りしめ、笑うこともなければ、泣くこともない。

 日々言葉無く虚ろな視線をくうに向けるだけだった。

 そして、彼は未だ、自分の名前を尋ねられても答えようとはしなかった。

 全ての拠り所が、突然否定されたのだ。

 何の前触れもなく、しかも目の前で。

 当然と言えば当然のことなのかもしれない。

 だが師との約束を守るため、ミレダはそんな彼をどうにか現実世界へ引き戻そうと頻繁に足を運んで様々なことを話しかけた。

 けれど彼は、やはり何の反応も見せなかった。

 ある日のことである。

 ミレダはいつものように少年の所へ向かう途中、最も会いたくない人物と鉢合わせしてしまった。

 そう、宰相マリス侯と、その取り巻き達だ。


「これは殿下、ご機嫌麗しく拝見し喜ばしい限りです」


 うわべだけの礼儀正しい言葉に、ミレダは無言で頷く。

 そのころ、父である皇帝は病の床にあった。

 摂政として立つべき皇弟フリッツ公は、愚昧ぐまい公とあだ名されるような人物で、芸術にうつつを抜かし国政には全く興味を示さない。

 結果、ルウツの実権は完全に宰相のマリス侯の手に落ちていたのである。

 慇懃いんぎんな態度とは対照的な勝ち誇ったような視線から逃げるように、ミレダはそのまま目を伏せる。

 けれど唐突にミレダはある事を思った。


 ここで飲まれてはいけない。

 立ち向かわなければ、あの少年を助けることができようはずもない、と。


 ミレダは、思い切ってマリス侯を見上げる。

 そして、大きく息を吸い込んでから、一気にこう言った。


「侯の陛下に対する忠義、父上に変わって礼を言う。今後も皇帝陛下のため、尽力してほしい」


 強がっているのは誰の目にも明らかだった。

 けれどこれがミレダに出来る精一杯の抵抗だった。

 生意気ともとれる幼い少女の言葉に、マリス侯の顔に僅かながら皮肉な笑みが浮かぶ。


「ご心配には及びません。この国の繁栄こそが臣の望みですので……では」


 再び形ばかりの礼を返し、宰相達はミレダの横を通り過ぎようとした。

 だが、何を思ったのかマリス侯は一人足を止め振り返り、懐から布にくるまれた細長い物を差し出した。


「そうそう、殿下は最近面白い玩具を手に入れられたようで。さしたる物ではありませんが、これはその玩具に似合いかと」


 何を言われているかわからず首をかしげながらも、その包みを受け取った。

 刹那、マリス侯の顔には忌々しげな表情が浮かぶ。

 取り巻きに促され、マリス侯は今度こそその場を離れた。

 彼らの聞こえよがしな嘲笑が完全に聞こえなくなってから、ミレダは恐る恐るその包みを開く。

 中から出てきたのは、どこにでもある古ぼけた短剣だった。

 一体マリス侯は、何故こんな物を渡してきたのだろう。

 訳もわからず、彼女はその足で少年を尋ねた。


 孤児院に着いてみると、相変わらず少年は寝台の上である

 虚ろな表情で空を見つめているのも、いつも通りだった。


「具合はどうだ? 少しは食べられているのか?」


 ミレダの問いかけにも、やはり何も反応は示さない。

 やはり自分は何もできないのか。

 そう思い、打ちひしがれて引き返そうとした時だった。

 少年が、こちらを見ている。

 いや、正確に言えば先程マリス侯から押し付けられた短剣を凝視しているのである。


「……どうした? これは、もしかしてお前の物なのか?」


 あわててミレダは短剣を少年に差し出す。

 まだ震えが残る手でそれを受け取ると、少年は小さく、けれどはっきりと、初めて意味のある言葉を口にした。


 ありがとう、と。


 ようやくその瞬間、ミレダはあの時師と交わした約束を果たすことが出来たと思った。

 が、それはあくまでも彼女の思いこみに過ぎなかった。

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