─5─告白
立ち尽くす殿下。
表情を崩さない彼。
その間でうろうろするボク。
「どうした? 本当の事を言っただけじゃないか」
言いながら、彼は笑う。
視線同様、おぼつかない足取りで、彼はこちらに歩み寄る。
言葉を失う殿下とボクの前を素通りして、彼は扉に手をかけた。
「お前……酔っているのか?」
殿下の言葉に、ボクはあらためて彼を見つめる。
確かにその右手には、中身が半分程になった緑色の瓶が握られていた。
それをテーブルの上に置くと、彼は崩れるように寝台に座り込んだ。
あわててボクも、その隣に飛び乗る。
「すまなかったと思っている。けれど……」
言いさした殿下の言葉が途切れたのは、彼が身に着けていたマントを殿下へ向けて放り投げたからだ。
「……持って行け。深窓のお姫様がずぶ濡れになる訳にもいかないだろ? ……多少血の匂いが染み付いているけど、我慢しろ」
「そうじゃなくて、私は……」
「良いから、早く行け! ……これしか生きる道が無い事は、俺自身が一番知ってるさ。だから……」
あなたが気にする事は、何もない。
囁くような小さい声で、彼は言った。
彼の隣にいたボクの耳に辛うじて入る大きさだったので、それが殿下に届いていたかは、定かでは無い。
マントとボクら。
しばらく交互に見つめていた殿下は、また来る、とだけ言い残して家を出て行った。
二度と来ない方が、あなたのためだ。
そう小さくつぶやくと、彼はふらりと立ち上がり、甲冑を乱暴に外し始めた。
一つ、また一つと、まるで恨みがあるかのように、彼はそれを床へ投げつける。
そのたび、がちゃがちゃと派手な音が鳴り響いた。
やがてそれをすべて脱ぎ捨てた彼は、家の奥へと姿を消した。
程なくして、浴室から盛大に水の流れ落ちる音が響いてきた。
身体中に染み付いた戦場の匂いを洗い流すかのように。
そして、滝のような音がついにやんだ。
代わりに水のしたたり落ちる音が近付いてくる。
そして再び現れた彼を見て、ボクは思わず後ずさった。
濡れたセピアの髪は、顔や首にまつわりついている。
そこからしたたり落ちる水は、均整の取れた上半身をこぼれ落ちていく。
その上半身には無数の傷が刻みこまれていた。
……だから彼は、いつも暗い中で着替えていたんだ……。
納得するボクの目の前で、彼は乱暴に椅子をひきテーブルにつくと、放置していた瓶に手を伸ばした。
コルクの栓を抜き、グラスに移すことなく、それこそ一気に残っていた中身を飲み干した。
何をしているんだよ! そんな飲み方したら、本当におかしくなっちゃうよ!
ボクは寝台を飛び降り、テーブルの上に飛び乗った。
瓶を転がし突っ伏す彼の指先を、ボクはなめた。
赤く染まった指先は、甘くて苦いお酒の味がした。
その時ボクは、自分の耳を疑った。
彼のかすかなすすり泣く声が、聞こえてきたからだ。
「……血の味がするんじゃないか?」
その声に顔を上げたボクの視線と、彼のそれとがぶつかった。
深い夜の色をした彼の瞳は、涙に濡れていた。
「酷いなんて物じゃない……。それこそ目の前でばたばたと人が死んでいくんだ。それをやっているのは、誰でもない俺自身……。でも……生き残るために……一人でも多く生き延びられるように……。それは自分を正当化する言い訳だと解っているさ……でも……」
言いながら彼は、ボクに向けて手を伸ばす。
ボクはとてとてと彼に歩みより、涙に濡れた彼の頬をなめた。
瞬間、彼の顔に驚いたような表情が浮かぶ。
「……怖くないのか? 俺は、虐殺者だぞ?」
でも、君はあの時、雨の街でボクを拾ってくれたじゃないか。
小さく鳴くボクの頭を、彼はいつものようにくしゃくしゃとかき回す。
「さっき、殿下に言ったことも本当だ。いつものように家に帰って来たら、父さんと母さんが真っ赤な中に倒れていて、たくさんの大人が俺に向けて剣を……。でも、気が付いた時は皆死んでいて……」
ふっ、と彼の表情が緩む。
一瞬、間をおいてから、彼は半身を起こし、頬杖を付いてボクを見つめる。
どうやらだいぶ、落ち着いてきたようだった。
「皇都を守る精鋭部隊が、ガキ一人に全滅させられたなんて不祥事は揉み消された。結果、これさ。俺は連行されて、命と引き換えにおそれ多くも宰相閣下直々の私兵になれ、と……」
たかだか子ども一人にごたいそうなものだよな。
泣き笑いのような顔で、彼は言う。
「本当なら、俺は、あの時地下牢で人知れず死んでいた。けれど……何故か殿下に救われた」
後は、お前が知っている通りだ。
言いながら彼はふらふらと立ち上がり、寝台へと向かう。
濡れた髪を拭くことなく、彼は布団の中へと潜り込む。
今のボクにできること。
それは、彼の側にいること。
寝台に飛び乗ったボクは、彼の足元で丸くなった。
その夜、ボクは何度となく彼の呻き声で目が覚めた。
子どもの頃の記憶が、戦場での体験と共鳴して揺り動かされたのだろうか。
そのたび、ボクは彼の枕元へと走り、不安げに彼を見つめた。
目覚めた彼はボクの顔を認めると、苦笑いを浮かべボクをなでる。
そして決まり悪そうに布団を頭から被る。
そんなことを繰り返し、夜は過ぎていった。
※
その日から、彼は変わった。
まず、部屋の片隅にある暖炉の上に香炉という物が置かれ、昼夜関係なく邪気避けのお香が焚かれた。
もうもうと室内に漂う煙にくしゃみするボクの頭を彼はくしゃくしゃとかき回したけれど、その顔に笑みはなかった。
そして彼自身はと言うと、あれだけ似合わないと自負していた神官の長衣を身にまとい、ミミズが這いずったような文字が延々と続くあの分厚い本を書き写し始めた。
日に三度、食堂に立つ時と眠る時以外はそれこそ脇目もふらず、と言うように。
いや、もしもボクがいなければ、彼は食事すらとらないんじゃないかと言うくらいの勢いだった。
何故なら彼が何かを持ってきてくれなければ、ボクは飢え死にしてしまうから。
そして、数ヵ月後、彼は再び戦場へ出ることになった。
淡々と準備を整える彼は、以前とは異なり震えてはいなかった。
曰く、今度は間抜けな指揮官に振り回される事がないから、遥かに安全だ、って。
出発当日、ボクを外に出し扉を閉めると、今度は一月もかからないだろう、と彼は言い、ひっそりと去っていった。
孤児院とご近所さんにお世話になること半月、言葉通りに彼は戻って来た。
わずかに青ざめた顔をしていたけれど、前回とは違って酔っぱらってはいなかった。
ボクを中に招き入れ、乱暴に甲冑を脱ぎ捨てると、彼はしばし浴室にこもる。
ひとしきり戦場の匂いを洗い流すと、彼は神官の服を着て、真っ先に香を焚く。
不思議な香りが部屋に充満する頃には、彼は分厚い本を書き写す作業を始めていた。
かりかりというペンの音は、深夜まで続いていた。
早く寝なくて良いの? 帰って来たばかりで疲れているんじゃない? これじゃ病気になっちゃうよ。
足元で声を上げるボクを彼は抱き上げ、テーブルの上にのせる。
そしてボクの頭をかき回しながら言った。
「悪いな。面倒見切れなくて……。導師さまに合わせる顔が無い」
そんなことじゃないよ。ボクは君を心配しているんだから。
ボクは彼の顔を見上げた。
その思いが通じたのだろうか。
ふっと彼の表情がゆるんだ。
久しぶりの笑顔は、寂しげな苦笑いだった。
「もうすぐ冬が来る。雪が積もれば、しばらく休戦だ。少しは落ち着けると思う。……お偉いさんが冬季奇襲なんて馬鹿な作戦をたてなければの話だがな」
そんなことじゃなくて、今君に重要なのは寝ることだろ?
ボクは彼の服の袖に噛みつき引っ張った。
軽く手を上げてそれを振りほどくと、彼は頬杖をつきながらボクを見つめた。
「……ごめん。俺は自分勝手にお前から自由を奪ってしまった、な」
そんなこと、ないよ。もし、嫌だったら、いつでも逃げ出す機会があったじゃないか。
と言うより、どこか危なっかしくて、心配なんだよね。
大丈夫。ボクが君を待ってる。
……これから先、ずっと、待っていたかった。
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