─4─初陣
数日後、ボクらは孤児院を出た。
子どもたちは口々にまた来てね、と言いながら、いつものごとくボクをもみくちゃにする。
少々乱暴な送別会が終わると、ボクは彼の後を追った。
引っ越し、なんていっても荷物なんてたいしたことはなかった。
僅かな着替えと、古ぼけた剣が一本。
それをまとめて背負った彼は、迷うことなく歩みを進める。
いつも練兵場へ行くのとは正反対の方へ向かっているのは、ボクにも解った。
この方向に、何があるんだろう。
そんなボクの疑問に答えるかのように、周囲の空気はがらりと一変した。
道ばたを走り回る子ども達。
窓から翻る洗濯物。
まるで街みたいだ。
「ここは、『兵舎地区』。近衛兵みたいな、陛下の御身辺を常にお守りする兵と、その家族が住む所」
言いながら、彼は最も奥まった所にある家に歩み寄り、扉に鍵を差し入れた。
かちゃり、という音の後、扉はぎしぎしと開いた。
さっそく駆け込んだボクは、屋内に入るなり、盛大にくしゃみをした。
床には一面、ホコリが積もっていたのだから。
「どうやら、ずいぶん長いこと、使われてなかったみたいだな」
言いながら、彼は荷物を寝台の上に放り投げた。
すると盛大にホコリが舞った。
「今からでも、戻っていいんだぞ。いや、帰った方が良いかもしれない」
大きなお世話だよ。
ボクはぽん、と跳ね上がって寝台の上に着地する。
そして、その上に放置された物を見つめた。
ふとその視界に、鈍く光る剣が入ってきた。
それは、いつも殿下との稽古で使っていたそれじゃない。
「これは、『宝剣』。勇者の称号を持つ人間に与えられる物」
言いながら彼は剣を手に取った。
ボクはそれを良く見ようと、彼の膝の上に無理矢理潜り込む。
「皇帝陛下への絶対の忠誠と、それを示す戦を行う者に与えられる力の象徴、だとさ」
なんだよ、それ?
わけが解らず瞬くボクに、彼は苦笑を浮かべて言った。
「良く解らないだろ? 俺にもまったく意味不明だ。……でも」
剣の柄を撫でながら、彼は低く呟く。
「行く限りは、勝つ。そして、生き延びてみせる」
その彼の手を見て、ボクは息を飲んだ。
彼の手が、僅かに震えている。
あわてて彼の顔をボクは見上げる。
凍りついたような夜空の色をした瞳が、ボクを見下ろしていた。
「今までは、猊下や殿下のご厚意で生かされていた。今度はそれをお返しする番だ。だから……必ず帰ってくる。これから先、ずっと……」
ボクも待っているのを、忘れないで。
一声鳴くボクの頭を、彼は優しく撫でてくれた。
※
そして、ついにその日はやってきた。
彼は、無言で旅装を整えている。
ボクは、淡々と作業を続ける彼をただ見つめることしかできなかった。
「だいたい、一ヶ月くらいかかるかな。何事もなく終われば」
そんなボクの視線に気がついたのか、彼はボクに向かって苦笑を浮かべた。
「……もっとも、俺が戻って来ない事を期待している奴らの方が多いけど、な」
そんなこと、言わないでよ。
ボクだって、殿下だって、猊下だって、君が戻って来るのを待っているんだから。
寝台から飛び降りたボクは、小さく鳴きながら彼の足元にじゃれついた。
そんなボクの頭を、彼はいつものようにくしゃくしゃとかき回す。
「心配するな。……俺は、これで終わりにするつもりはない」
けれど、彼の手はやっぱり震えている。
本当に、戻って来てね。
もう一度、ボクは小さく鳴く。
その夜、いつもより早く寝台に潜り込んだ彼は、何度も寝返りをうっていた。
翌朝、ボクが目を覚ました時、彼は甲冑という物を着込み、マントを羽織っていた。
その姿に驚くボクを彼は抱き上げると、彼は家を出、ボクを下ろしてから扉を閉めた。
追い出すつもりなの?
抗議の声を上げるボクに、彼は言った。
「……俺がいない間、この家の中でどうやって食っていくんだ?」
確かにその通りだ。
ボクでは、この扉を開け閉めすることはできない。
食事を持って来てくれる彼がいなくなれば、ボクは飢え死にしてしまう。
「孤児院に顔を出せば、たぶん大丈夫だろう。何ならそのままそっちに居座ってもかまわない」
……やっぱり、ボクを追い出すつもりなの?
見上げるボクに、彼は困ったように笑う。
「お前は、俺と違って自由なんだ。だから……」
それでも、ボクは君を待っているよ。だから、帰って来てね。
「……じゃ、行ってくる」
そんなボクの視線から逃れるように、彼は足を踏み出した。
だんだんと小さくなっていくその後ろ姿を、ボクはいつまでも見つめていた。
※
それから、ボクの野良生活が始まった。
いや、毎晩彼の家の軒先で夜を過ごすので、完全な野良という訳ではない。
昼間は孤児院に顔を出したり、近所の家のお世話になったりしたので、街にいた頃よりは遥かに幸せだった。
けれど、どこか寂しさと不安があった。
言うまでもない。彼が心配だったから。
そんなこんなで、約束の一ヶ月が過ぎようとしていた。
夕方から広がり出した雲は、低くたれ込め今にも泣き出しそうに見える。
「お前、まだ奴の所にいたのか?」
いつものように軒先で丸まっていたボクの耳に、懐かしい声が飛び込んできた。
間違いようもない、あのお転婆殿下がそこに立っていた。
「……とんでもない状況だったらしい」
ボクを軽く撫でてから扉に寄りかかると、殿下は重い口を開いた。
「戦闘なんて統率の取れた物じゃない。敵味方入り交じっての殺し合いだ。……運良く相手が浮き足立ったのと、こちらの指令部が壊滅しなければ、負けていただろうな」
指令部が壊滅したのに?
首をかしげるボクに、殿下は苦笑を浮かべてみせた。
「指令部なんて言っても、名ばかりの馬鹿共だ。戦いのことなんか、何も知っちゃいない。負けるのを見越して、そんな所に奴を放りこんだんだ」
そして、殿下は悔しそうに唇を噛む。
自分にもっと力があれば、こんなことにはさせなかったのに、と。
でも、どうしてそんな所に?
さらに首をかしげるボクに、殿下はかがみこみ、ボクと目線を合わせた。
これって、『恐れ多いこと』なんだろうな。
そんな事をぼんやりと考えるボクの頭を、殿下は優しくなでた。
どこかの誰かとは大違いだ。
「どうやら、降ってきそうだな」
言いながら、殿下はボクを抱き上げた。
青緑色の瞳は、上空を見つめていた。
「自己顕示欲に取りつかれた指令部は、現状を無視して突撃命令を繰り返したそうだ。自分たちは安全な場所に陣取って……。敵の別動隊が指令部を急襲してくれなければ、今ごろ……」
でも、指令部がなくなったら、終わりじゃないの?
まだ納得がいかないボクの耳に、殿下の声が流れこんでくる。
「戦場を渡り歩いてきた奴らは、自分たちがどうすれば生き延びられるか、本能的に知っている。……つまりあいつは、烏合の衆になりかけた奴らを、実力でまとめあげ、自らを司令官として認めさせたんだ」
これで名実共に『蒼の隊』の奴らは、あいつにたいして絶対の忠誠を誓うだろうな。
そう言いながら、殿下は寂しげに笑った。
でも、最初からそうしていれば、もっと犠牲者は少なくてすんだんでしょ? だから殿下も辛く感じているんじゃないの?
声を上げるボクを、殿下は静かにおろした。
「できれば、そうしてやりたかった。けれど、初陣で司令官待遇なんて過去に前例がない。頭の固い着飾った奴らが首を縦に振る訳がない。何よりあいつは家柄も無い孤児で、しかも……」
不意に、殿下の言葉が途切れた。
ぽつぽつと雨が大地を打つ音が、代わりに聞こえてくる。
けれど、殿下が口を閉ざしたのは、それが理由じゃなかった。
なぜなら、その視線の先には……。
「親は敵国の間者。本人はその取り締まり部隊を一人残らず惨殺した大罪人、だったからさ……」
降りだした雨を気にも止めず、どこか焦点の定まらない目をこちらに向けた彼が、そこに立っていた。
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