─3─殿下
突然のすごい音に、ボクは跳び跳ねた。
そして、ぼさっと柔らかい寝台に落ちる。
鐘の音がこんなに大きく聞こえるなんて……そうか、ここはいつもの街じゃなかったんだっけ。
気が付いて、ボクは周囲を見回した。
その耳に、彼の声が飛び込んできた。
「目が覚めたのか?」
見ると、テーブルの脇に座り頬杖をついている彼がいた。
『似合わない』と自分でも言っていた神官の服を着て。
そして、テーブルの上には、何だか良く解らない分厚い本が開いた状態で置いてあった。
寝ていたとはいえ、彼が起きたのに気がつかなかったなんて。
こいつ、一体何なんだ?
驚くボクに、彼は微笑を浮かべながら床を指差した。
そこには昨日同様、彼が残してきたとおぼしき食事が置いてある。
すとん、と寝台から降り立ち、ボクはそれを食べ始める。
彼はしばらくそんなボクを見ていたが、やがてあの分厚い本を読み始めた。
すっかり食べ終わってボクが毛繕いを始めると、彼は静かに立ち上がる。
食べ物が置かれていた布を拾い上げ、丁寧に折り畳むとそれを懐へしまいこんだ。
でも、いつも残してくるなら、君の分が足りなくなるんじゃないの?
鳴きながら見上げるボクの頭を、彼はくしゃくしゃとかき回した。
せっかくきれいにしたのに、台無しじゃないか。
抗議の声を上げるボクに、彼は笑った。
「本当によく食べるな」
大きなお世話だよ。
再び鳴くボクに背を向けて、彼はテーブルに戻ると、分厚い本を読み始める。
一体何を読んでいるのかな。
興味を覚えて、ボクは使われていない椅子の上にに飛び乗り、そこからテーブルの上に飛び移る。
「これは、『祈りの書』。一応、修行しないといけないから」
ボクの視線に気が付いた彼は、本から目を離すことなく言った。
恐る恐る、ボクも眺めてみる。
見開きのページにはびっしりと蛇かミミズがのったくったような模様が印刷されている。
いや、模様じゃなくて文字かな?
どちらにしても、ボクには意味が解らないから同じことだ。
テーブルの上で伸びをして、そのまま丸くなる。
静かな室内には、彼がページをめくる音だけが響く。
どのくらい時間が経っただろうか。
あまりの静かさに、ボクが眠ってしまいそうになった頃、不意に扉を叩く音がした。
何事か?
あわててボクは顔を上げて、そちらを見やる。
一方彼は、読みさしのページにしおりを挟んで本を閉じると、扉の方へ歩みよった。
彼は短く返事をして扉を開ける。
そこに立っていたのは、『導師さま』だった。
「殿下のお使いがお見えよ。すぐにお行きなさい」
「解りました」
やはり短く返事をすると、彼は後ろ手で扉を閉めた。
そのままボクの前を素通りし、奥の部屋へと消える。
再び現れた彼は昨日街で着ていたような腰丈の上衣を着て、左肩には長い剣を背負っていた。
君、神官じゃなかったの? それに、殿下って、偉い人なんじゃないの?
瞬くボクに向かって、彼は少し複雑な表情を浮かべていた。
「……一緒にくるか?」
もちろん、行くに決まってるさ。
ボクはテーブルの上からすとん、と飛び降りた。
そして、とてとてと彼の足元にじゃれついた。
「解った。じゃ、迷子になるなよ」
言いながら彼は扉を開ける。
同時にまぶしい光が目に入ってきた。
昨日の雨が嘘のような良い天気だった。
『孤児院』から出ると、彼はすたすたと歩き出す。
聖堂の前を横切り、緑の庭を通り抜ける。
一体どこへ向かっているんだろう。
でも、周囲を見回していると本当に迷子になりそうなので、ボクは必死に彼の後を追った。
そして、急に視界が開けた。
しっとりと濡れた土の広場が広がっている。
「あそこにいるのが、『殿下』。俺の恩人。一応」
彼の指差した先には、一人の少女が立っていた。
「遅いじゃないか! 何をしていたんだ?」
ボクらの姿を認めると、『殿下』は機嫌悪そうにそう言った。
回りにいるお着きの大人達はみんなその声に小さくなっているのに、彼はまったく動じない。
「遅いもなにも……。今日は師匠は来ないんだろ? 準備していなかったから仕方ない」
……ちょっと待ってよ。
『殿下』でしかも『恩人』でしょ? そんな言葉使いでいいの?
驚いて顔を上げるボクの視線と、殿下のそれとがぶつかった。
赤茶色の髪と、澄んだ青緑色の瞳を持った、なかなかの美少女だ。
その殿下は、大きな目でボクを見つめながら言った。
「何だ、これは?」
「何って……見れば解るだろ? どこからどう見ても、猫」
「いや、そうじゃなくて」
言いながら殿下は、ボクと彼とをまじまじと見比べた。
「……お前、こんな趣味、あったのか?」
「さあ、な」
ぶっきらぼうに言い放つと、彼は背負っていた剣を下ろした。
がちゃり、と、重い音が響く。
「時間が無いんだろ? 早く剣を抜いたらどうだ?」
その言葉に殿下は納得がいかないようだったが、深々とため息をつくと、ボクに向かってこう言った。
「お前も大変な奴に拾われたな。苦労するぞ」
そしてボクの頭を一撫ですると、殿下はおもむろに剣を抜いた。
剣と剣とがぶつかるのを、ボクは初めて見た。
街の子どものチャンバラごっこ程度の物かと思っていたのだけれど、大違いだった。
鉄と鉄とがぶつかる激しい音。
そして飛び散る火花。
その激しさに、ボクは何度か思わず飛び上がりそうになった。
お着きの人達の噂話を引っくるめて解ったことは、ここは『練兵場』という所であること。
殿下は先帝の第二皇女で、かなり跳ね返りのお転婆姫だということ。
二人の剣の先生は同じ人であること。
そして、剣を習い始めたのは、彼の方が後であること。
けれど、端から見ても剣の腕は殿下よりも彼の方が上のように見える。
がちん。
鈍い音がした。
彼が殿下の剣をなぎ払ったのだ。
取り落とした剣を拾おうとする殿下の背に、彼の無感動な声が投げ掛けられる。
「……いい加減、これくらいで良いだろ? 今日はもう……」
「嫌だ! お前から一本取るまで……」
「……師匠から怒鳴られるのは、俺なんだぞ」
あきらめろ、とでも言うように彼は剣をひく。
一方殿下はその場に座り込み、泣きじゃくり始めた。
困ったように立ち尽くす彼と、お着きの大人達。
どうやら、ボクの出番らしい。
引き上げてくる彼と入れ違いに、ボクはとてとてと殿下に歩みよる。
そして、涙に濡れたその頬をぺろり、となめる。
同時に正午を告げる聖堂の鐘が、高々と鳴り響いた。
そんなこんなあるけど、孤児院での生活はおおむね平和だった。
『祈りの書』を黙読する彼の足元で丸まっていたり、子ども達にもみくちゃにされたり、彼の剣の稽古を遠巻きに眺めたり……。
そして、彼はいつしか少年から青年へと成長していた。
小柄だった身長もいつしか殿下よりも頭一つ半くらい高くなった。
そんなある日、彼の部屋を一人の女性が訪ねてきた。
穏やかな微笑みを浮かべたその人を見るなり、彼の表情が一瞬強ばった。
殿下に怒鳴られても眉一つ動かさないのに。
いつものごとく部屋の片隅に丸まって、ボクは耳をそばだてる。
が、彼はつかつかとボクに歩みより抱き上げると、有無を言わさず部屋の外へ放り出し、荒々しく扉を閉めた。
一体どういうことなのだろう。
後ろ足で立ち上がり、ボクはかりかりと扉に爪をたてる。
室内からは二人が何か話している声が聞こえるのだが、その内容までは解らない。
やがて、静かに扉が開いた。
出てきた女性は、わずかに腰をかがめボクの頭を優しく撫でながら言った。
「あの子は大変な選択をしてしまったけれど……。あなたもあの子を支えてあげてちょうだいね」
支える? どういうこと?
疑問を抱きながら、ボクは室内に滑り込む。
テーブルに腰をかけた彼は、いつになく厳しい表情を浮かべていた。
そして一言、言った。
ここを出ていく、と。
「俺は、もう子どもじゃないから、孤児院にはいられない。どうやら神官の適正も無いみたいだから、ここを出ていく」
出ていくって……。でも、一体どこへ行くのさ?
そう一声鳴くボクの目の前に、彼はひざまずく。
夜空の色をした瞳は、やっぱりどこか涙をこらえているようだった。
「猊下のお名前を頂いたんだ。……武官として、殿下の恩に報いる」
猊下って、さっきの女の人?
首をかしげるボクに、彼は柔らかく笑った。
こんな彼の表情を見るのは、初めてだった。
彼はボクの背を撫でながら、さらに続ける。
「大司祭猊下の『息子』として一軍を率いる将になる。前線に引っ張られることになるけれど、これ以外に仕方ないんだ」
前線ってことは、戦場に出るってことじゃないか! それじゃあ……。
「大丈夫。そう簡単には死なない。でも、お前はどうする?」
このまま孤児院に残ってもいいんだぞ。
言いながら彼は立ち上がる。
その後ろ姿は、あまりにも孤独で寂しげだった。
一緒に行くよ。だって、猊下に頼まれたんだから。
思わずボクは駆け寄り、彼の足元にじゃれついた。
しばらく、彼はボクを見つめていたけれど、すい、とボクを抱き上げる。
そして、ボクの目を見ながら、言った。
「……面倒見るって、約束したんだっけ……」
泣き笑いのような表情を浮かべ、彼はボクの頭を少し乱暴にかき回した。
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