第6話 過去/『賢者』と『天の恩寵』
「――おや、何かに呼ばれる感覚がするなと思ってきてみれば、こんなところに子どもが落ちている」
何かに導かれるようにして『賢者』が降り立った森の中。
季節関係なしに花々が咲き乱れ、緑は青々とし、美しい木漏れ日に彩られたそこに、まるで祝福を受けるようにしてその子どもはいた。
「…………」
明らかな戸惑いと、警戒に揺れるその瞳の色は、黒。木漏れ日に照らされ光の輪が浮き上がるその髪も、黒。
「『至上の黒』……まれびとか。もう随分と与えられなくなった『天の恩寵』が、今になって落ちてくるとは。――うん? なんだか器と中身が合っていないね。界を超えさせられるときに存在を圧縮されたのかな」
身の丈に合わない大きさの服をまとっているのに目をとめて、『賢者』は自分の推測が大方間違っていないだろうことを確信した。
「異世界からのまれびとは、この世界に落とされるときにあらかたの知識を詰め込まれるという。ということは、状況は理解しているはずだね。――この世界の君は、何ものにも勝る至上の宝だ。望めば叶わないことの方がない。……さて、君は何を望む?」
「わたし……私、は」
どこかたどたどしく――まだこの身体に慣れていないのだというような風情で、黒を持つ少女は言った。
「私は――かえりたい」
「それは、元の世界に?」
「そこ以外なんてない」
切り捨てるように断じる少女に、『賢者』は笑いを堪えきれなかった。
「あっははは! 久方ぶりの――本当に久方ぶりの『天の恩寵』は、ただ帰郷を……元の世界への帰還を望むと!」
「……何が、おかしいの」
「いや、君がおかしいんじゃないよ。君という『天の恩寵』が、真っ先に望むのがそれだという事実がおかしくてね」
「それは、私が言ったことがおかしいということ?」
「それは事実と似て非なる。――とうとうこの世界の歪みもここまできたかと、それがおかしくてさ」
「…………」
理解できない、という顔で少女が黙りこくったので、『賢者』は笑いをおさめた。
「――君にはとても残念なお知らせだけれど、これまで『天の恩寵』が元の世界にかえったという事例はない。『天の恩寵』が望めど叶わないことのひとつが、元の世界への帰還だ」
「…………」
「だけれど、この世界はずいぶん壊れかけている。本来ならばこの世界で生きることに前向きになるはずの――そういうふうに思考を誘導されるはずのまれびとが帰郷を望むなんてかつてないことが起こっているんだ、かえる方法だって見つかるかもしれないね?」
「あなたは、知らないの……」
「きっと、君が探すしかない――これはたぶん、そういう物語だよ」
『賢者』の言葉に、少女は覚悟を決めたようだった。キッと、まるで睨むかのような意思のこもった瞳で、『賢者』を射貫く。
「私は、かえりたい。お父さんと、お母さんと、お兄ちゃんがいるところに。――あなたはその、手助けをしてくれるの?」
「僕だけが知覚したらしい、君の出現――それを紐解くのなら、僕は君の導き手に選ばれたということだろうからね。もちろんいいよ」
快諾して、『賢者』は大仰に腰を折って、座り込む少女に手を差し出した。
「さあ、この世界での初めの一歩を補助する役目をもらっても?」
「……その前に。あなたは、『賢者』?」
「ご名答。それも与えられた知識の中にあったのかな?」
「……そう。ああ、情報がごちゃごちゃで頭が痛い……」
「それを適切に処理する方法も、おいおい教えてあげよう。僕が『賢者』になったときと似たようなものだろうから。――さて、お手をどうぞ」
『賢者』が促すと、少女は恐る恐るといったていで、差し出された手の上にその小さな手を置いた。それを慎重に――まるで久しぶりに人間の幼子の手に触れるかのように慎重に、しかししっかりとつかんで、『賢者』は彼女を立ち上がらせる。
「『至上の黒』を持つ、もしかしたらこの世界最後の『天の恩寵』になるかもしれない君。名前を聞かせてもらってもいいかな」
「……『
「ふうん、なるほど。古代語で『天の音』を意味する名だね。うつくしい響きだ」
「あなたには、名前はないの?」
「その知識は与えられていないのかな? 『賢者』は『賢者』になったときから世界に少しずつ忘却され続ける。僕の名前はもうすり切れて、無くなってしまった」
『賢者』が告げた内容に、少女は――天音はどこか痛そうな顔をした。『賢者』はおや、と眉尻を上げる。
「今の話のどこに、君がそんな顔をする理由があったかな?」
「……それを当たり前として受容して、当たり前として語れること、そのもの。……これは私の、勝手な感傷だとは思うけど」
「つまり君は、『賢者』に同情した、というわけか。ふふ、ふふふ……あっはははは!」
「今のどこに、そんなふうに笑う理由が?」
先の『賢者』の問いをなぞるかのようなその問いかけに、『賢者』は腹を抱えて笑いたい衝動を堪えて言った。
「――君は、どこまでも『異物』なんだなと思って」
「……褒めて、ないよね?」
「いいや、褒めている。賞賛しているよ。まさか、『賢者』になったのに――もう人間からは外されたのに、人間のように扱ってもらえるとは思わなくてさ」
「…………」
また天音が痛そうな顔をしたので、今度こそ『賢者』は爆笑したのだった。
そうして、名前を無くした『賢者』と、幼子の姿をした『天の恩寵』の、騒がし――くはないどこか淡々とした、けれどあたたかな日々は始まったのだった。
賢者の弟子はかえらない 賢者代理の彼女が王都に留まるたったひとつの理由 空月 @soratuki
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