窓の外

多田いづみ

窓の外

 深く切り立った渓谷の腹を、列車が走っている。


 山肌いちめんが、うっそうとした緑に覆われている。それらはいきおいよく谷にむかって伸び出していて、谷底はほとんど見えなかった。ただ木の枝々が重なった奥の方に、もやもやした灰色の帯のようなものがあったが、それが川なのか何なのか分からない。


 こんな山奥にもかかわらず、列車にはかなりの人が乗っていて、二両編成の座席は半分ほど埋まっている。乗客は連れ合いが多いらしく、車内はにぎやかだった。


 わたしは向かい合った二人掛けの窓側の席にすわって、ぼんやりと外に流れる景色をながめていた。

 向かい側に見える山の斜面は、何もかもが緑だった。濃い緑から淡い緑まで、さまざまなグラデーションの緑が山肌を埋め尽くしていた。そうして列車の走る速度に合わせて、緑の濃淡が混じり合ったり、分かれたりした。


 線路は山肌に沿ってうねうねと延びている。その線路をささえている鉄骨が、いかにも細く、頼りない。またときどき大きく揺れたりもするので、列車がカーブに差し掛かってぐらりと傾いた瞬間、わたしは思わず「わっ」と叫び声をあげた。


 すると向かいに座っている派手な化粧をした茶髪の女生徒が、

「だいじょうぶだよ。あたしは毎日これに乗ってるけど、まだ一度も落ちたことがないから」

 と大きな声で言うと、まわりの乗客たちがどっと笑った。


 それに乗じてほかの乗客も「そりゃあそうだ」などと相づちをうつので、わたしは一瞬、ばかにされたような気がして腹が立った。が、緊張がほどけて気分が楽になったからだろうか、しまいには一緒になって笑っていた。

 車内には都会の列車にはない、奇妙な連帯のようなものがあった。もしかしたらこの人たちは、みんな顔見知りなのかもしれないと思った。


 そしてほっとしたのもつかの間、列車のゆれはますます激しくなった。どうやら渓谷の難所に差し掛かってきたらしい。

 わたしはまた、だんだん気分が悪くなってきた。しかしほかの乗客たちは慣れているのか、まったく平気な様子だった。


 わたしは外の空気を吸おうと窓の取っ手に手をかけた。すると、

「おいおい、あんた。いったい何をする気だね?」

 と乗客の誰かが言った。

「ちょっと外の空気を入れようと思いまして――」

 と答えながら、わたしがまた窓に手をかけようとすると、

「やめたほうがいい」とか「とんでもない」とか「そんなことしちゃいけない」とか、まわりの乗客たちは口々に言い立てて、わたしが窓を開けるのを阻もうとした。


 わたしは人びとがどうしてそんな事を言うのか、さっぱり分からなかった。

 おせっかいなのか嫌がらせなのか、ともかく、さきほど感じた奇妙な連帯が、ふたたび車内にぬっと現れたようだった。しかしそれは、わたしにとっては連帯というより、もはや同調圧力と言えるものだった。


 だが、わたしは連中のいいなりになるわけにはいかなかった。

 なぜなら、このままではどんどん気分が悪くなるばかりだったから、どうしても新鮮な山の空気が吸いたかったのだ。弁当でも食べている人がいるのか、どこからか食べ物の匂いがしてくるのもいけなかった。こうしている間にも、車内の空気はますますよどんでくるようだった。


 わたしは思い切って窓に手をかけると、ぐいとそれを引き上げた。すると今度は反対に、向かいの女生徒が「あっ」と大きな叫び声をあげた。


 奇妙にも、外の空気はぜんぜん入ってこなかった。列車はかなりの速度で走っているから、風が激しく吹き込んできてもよさそうなのに、なぜかそよとも吹いてこなかった。


 そしてもっと奇妙なことに、窓を開けた外には、景色がなかった。

 まったくの『無』だった。

 それをよく見極めようとじっと見ていると、目と目の間がつーんとして頭が痛くなった。

 光すらなかったので暗くて何も見えなかったが、それはまた夜の暗さとも違っていた。色も、音も、温度も、匂いもない、無の風景だった。暗黒の宇宙ですら、これに比べたらはるかに豊かだろうと思われた。


 窓ガラス越しには、依然として満々と緑をたたえた景色が映し出されているのが、いっそう不気味だった。しかし窓を開けた先に、無の世界が広がっているのを知ってしまった今では、それはただの幻影としか考えられなかった。

 窓を開けている部分が、黒い穴のようにぽっかりと四角く抜けている。そしてその無が、じわじわと車内に浸透してくるように思えて、わたしはあわてて窓を閉めた。


 窓を閉めたとたん、車内は急に静かになった。さっきまでのにぎやかな人声はぱったり止んで、やけにしんとしていた。

 といっても列車は走りつづけているから、まったくの無音というわけではない。ただ通夜の席のようにしんみりとした、おごそかな雰囲気が車内に満ちていた。

 あれほどさわがしかった人びとも、しおれた朝顔のようにしょんぼりと押し黙っている。


 快活そうにみえた女生徒も一転して、困惑し、沈んだ顔を見せていた。口を真一文字に結んで、眉尻を下げ、両手を前で組んだまま、指をもじもじさせている。それはたぶんわたしへの、ほんのすこしの怒りと、たくさんの同情。


 その表情を、わたしは以前にも見たことがある。それはわたしがまだ子供だった時分、前もって注意されていたにもかかわらず何かへまをやらかして、「だから言ったのに……」と怒られるときの母親の顔だ。


 連れ合った人びとは無言のまま、慰め合うように身を寄せている。その輪のなかに、わたしもどうにかして加わりたかったが、車内に流れるよそよそしい空気がそれを阻んだ。

 同じように、向かいの女生徒も、見えない壁でわたしを拒絶しているようだった。

 わたしは、ほかの乗客の言うことをきいて窓を開けなければよかったと思ったが、いまさら後悔しても手遅れだった。


 それからずっと永い時がたって、連れ合いたちはまたぼそぼそと、静かに話しはじめた。女生徒も、長い髪の毛をくるくると指で巻いたりほどいたりして、くつろいだ様子をみせた。


 わたしはといえば、下を向いて、ずっと床の模様をながめていた。なぜなら、外の景色にはもう興味がなかったし、誰とも目を合わせたくなかったからだ。


 渓谷はどこまでもつづいていた。列車がどこかの駅に停まるのは、まだまだ先のようだった。

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