転がるリップ
明日飛鳥
転がるリップ
「あっ」
もう二週間ほど、トートバックの底でふたがとれたリップを飼っている。ふたがとれていることに気付いてすぐに直さなかったのは、そのふたもバックの底のどこかに行ってしまったからだけど。電車でバックを漁っていると妙なものが出てくる。止まった時計とか、三十ページしか読んでいない小説、不穏に絡まった有線のイヤホン、人に渡そうと思って諦めてしまったメモとかそういうものが、バックの底につまっていて、必要な荷物がうまく入らないからイライラしてしまう。整理しようとして、私はずっと引きこもっていたふたのとれたリップを取り落とした。サーモンピンク。久しぶりの日光はどうだい?
ころころとリップが転がっていく。人々の足元を縫っていく。ガタゴト電車が揺れている。リップの先は暑さで溶けて、ごみがどんどんついていく。汚い。左に流れていく景色。山が一つ去っていった。空だけがどこまでも青くてそこにある。快晴だった。
視界の端でサーモンピンクが止まった。斜め向かいのシートに座っている人の足に引っかかっている。その人の白いスニーカーにサーモンピンクがついていなくて幸いだった。おもむろにリップを拾いあげる。私の方を見た。青年だった。彼はにこっと笑って席を立ち、こちらへ歩いてきた。私立高校の制服を着ていた。とても背が高かった。顔が一般より小さいせいもあるだろうが、首が顔と同じくらい太い。私は首の太い男性が好みだった。そのリップにふたがついてさえいればな。
「どうぞ、お兄さん」
「ありがとう」
「ごみがついちゃいましたね」
青年は自然な様子で私の横に腰かけた。私の手元のリップを覗き込む。
「しょうがない。溶けちゃってるし、新しいの買うから」
しょうがない。ことはないのだ。しょうがないけれど自分のせいだ。バックの底に不用品がつまっていて、それをどうにかしない私が悪いわけだ。
「サーモンピンクって素敵な色ですね」
「そうでしょう、好きなんだよね」
「友達も同じの使ってましたよ。でも今度は赤色にするみたいですけどね」
「リップを決める気分って秋の空みたいなもんだからな」
「秋の空」
「ころころ変わるわけだよ」
「女心は秋の空ってやつですか」
だれが言っていたんだっけ。と私も青年も考えた。でも分からなくて、名言だよなあと一緒に笑った。
「リップの色でその日の気分が分かったりする」
「じゃあ、友達のリップが赤になった、その心は?」
「うーん、好きな人ができた」
「なんてこったい」
青年は天を仰いだ。車窓から差し込む光が車内で眩しく明滅を繰り返している。乗客はほとんど眠っているか、スマホをじっと見つめているか、私たちの話と電車の振動に聞き耳を立てているか、していた。それくらい静かな車内に私たちの声は響いていた。
「じゃあー、お兄さんのサーモンピンクの心はなに?」
「意中はいないが相手募集中」
「なんてこったい!」
「今のうちに恋しとくんだな、青年よ」
青年はにこっと笑った。少しだけ頬が紅潮している。
電車はまだ止まらない。私たちはくだらない話を続けた。
転がるリップ 明日飛鳥 @tell_suzuS
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