前哨戦:脱出ゲーム①
「先ほどみなさんに記入いただいた同意書の通り、この船は明日の朝までかけてゆっくりと東京湾を周ります。そこは同意いただけていますね」
天月さんの口調は明るく、抑揚のある聞き取りやすいものだった。
場の空気が弛緩する。
それは、およそ自分の欲望を賭けたギャンブルが開催される場とは程遠いものだった。
「しかし!」
彼はスピーカーが軽くハウリングするような勢いで言葉を続けた。
思わずびくりと肩を震わせる。
「聡明な方々はお気づきになられたかもしれませんが、この同意書って実はあんまり意味のあるものじゃないんですよね」
その言い回しに会場がざわつく。
それもそのはず、同意書の最後の項目は守られないと困るからだ。
「・両者の所有するアイが納得した場合は必ず「アイの所有権の譲渡」をベッドすること。」
ここの取り決めが守られないと、面白みのない運ゲーを押し付けられる可能性があるし、圧倒的に不利な状況でアイを賭けずに一晩を越す、という作戦が取れてしまう。
「もう少し詳しく説明しましょう。今回のように双方合意を交わした書面は、強制力の違いこそありますが、公的なものでなくても法的な効力を持ちます。まあ、アイなんて非現実的なものを槍玉にあげて裁判を起こすかどうかはさておきましょう」
同意書の話はなんとなく聞いたことがあったので、あまり驚きはなかった。
そこでぼくはようやく天月さんの言いたいことに追いついた。
そうか。双方合意というところがネックになるんだ。
この契約書はあくまで、ぼくと天月さんの双方でしか結ばれていない。
「この同意書、私とみなさんの間では有効ですが、みなさん同士の間では全く効力を持たないんです。例えば私が志半ばで負けたとしましょう。そうなった時、みなさんの間ではアイをベッドする、という取り決めが有効にはなっておりません」
だんだんと理解が追い付いてきた参加者たちの顔にも驚きの色が浮かんできた。
「そしてそれは、私の本意ではない。アイ争奪戦に負けてしまったとしても、私にはこの場を設定した責任がある。そう思っているんです」
すごく志の高い発言だったけれど、ぼくは彼の表情から別のことを読み取った。
この人は、自分が負けるだなんて微塵も思っていないんだ。
参加者の一人が大声をあげた。
「だったら横横でも有効な同意書を書けばいいんだな!」
「そうですね。そういう方法もありますが、でももっといい方法がありますよ」
天月さんが人差し指を建てた瞬間、隣にいたさっちゃんが「チッ」と舌打ちをした。
驚いて彼女の方を見ると、珍しくその表情には焦りが浮かんでいた。
「どうしたの、さっちゃ――――」
ぼくが聞こうとした瞬間、天月さんが『もっといい方法』を発表した。
「アイを使用するんです」
会場がどよめく。
アイを使用する。つまり、アイの賭け事を絶対にする絶対誓約の力を使うということ。
「でも、アイの絶対誓約の能力が掛けられるのって、敗北者だけですよね。一体どうやって誓約に使うんですか?」
「簡単ですよ。今からみなさんですごくシンプルなゲームをするんです。ゲームの名前は」
天月さんはにこやかな笑みを絶やさないまま手を広げた。
「『脱出ゲーム』」
それは最近よく耳にするジャンルのゲームだった。
ぼくの知っている脱出ゲームは、室内にちりばめられた数々の暗号を解いていくことで、だんだんと部屋の脱出方法がわかっていく、と言った内容だ。
ゲームによって出される暗号の難易度や種類が大きく変わる、いわば製作者対プレイヤーと言った形式のゲームである。
天月さんがざわついた会場を両手で鎮め、説明を続けた。
「とはいえこれは誓約を結ぶためだけのゲーム、言わば前哨戦ですので、大掛かりな暗号や装置はありません。また、このゲームにはアイの所有権をベッドしなくていいです」
それを聞いて参加者の中の緊張がふっと解ける。
「勝利条件は、この船から降りること。豪華客船からの脱出、と言ったところでしょうか」
「もしかしてまだこの船は出発していないんですか?」
「ええ。まだ今なら歩いていくだけで簡単に港に戻れますよ。そして、もちろん敗北条件はこの船から脱出できない、ということです。制限時間は五分としましょう」
参加者の一人が手を挙げた。
「あんまり意図がわかっていないんですが、船から降りるということがそんなに難しいんでしょうか」
天月さんはゆっくり首を振る。
「船から降りるのは本当に簡単です。誰も邪魔しません。五分という制限時間も本当は二分程度でいいくらいです」
それを聞いた質問をした人は納得していないような表情のまま手を下ろした。
「で、私を含めたみなさんはあるものを賭けるんです」
「……あるもの?」
「このゲームに敗北したとき、同意書に書かれた内容を、相手を問わず守ること。こうすれば、船から降りた人は勝利となりますが、同時に今晩の戦いから降りたことになります。船に残った人は敗北という扱いになり、アイの絶対誓約の強制力により、誓約を守るしかなくなる、ということです」
数名から「わあ」と歓声が上がった。
「確かにその方法なら、法的に使えるか怪しい同意書を書くよりも確実だ!」
しかしさっちゃんは険しい顔をしていた。
そこでぼくは、さっちゃんのほかにもう一人、険しい顔をしている存在に気が付いた。
腕を組んで端っこに立っていた、背の高い女性。
腰まで届きそうな黒い髪の毛が特徴的だ。年齢はぼくたちより上だろうが詳しいところはわからない。美人のお姉さんと言ったタイプだった。
あと胸が大きい。胸元の開いたドレスを着ているというせいもあるかもしれないけれど、ゼロコンマ数秒だけぼくの目はそこへくぎ付けになった。
「すずくーん。隣に彼女がいるのに別の女に見惚れてない?」
「いえ、滅相もございません」
目ざといな、さっちゃん。
ぼくは妙にその女性が気になったけれど一旦無視をして天月さんの話を聞いた。
「もう一度だけおさらいしましょう」
今からやる脱出ゲーム、制限時間は五分間。
五分以内にこの船を出ることができれば勝利。できなければ敗北となる。
ただそれだけだ。
そして、敗北した場合は「同意書の内容を参加者全員に対しても遵守する」ことが約束される。
「なにか質問はありませんか?」
ゲームの内容はこれ以上ないくらいシンプルなものだった上に、このゲームの目的は勝ち負けではなく誓約を交わすことだったので、誰からも質問が出なかった。
ぼくたちは各々のアイを提示し、指示されたとおりにベッドを行う。
さっちゃんと、黒髪の女性だけはかなり渋い顔をしていたけれど、最終的には言われたとおりに従っていた。
「それでは」
天月さんが右手をあげて高らかに宣言する。
「脱出ゲーム、スタートです」
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