第2ゲーム:寿司ゲーム④

 集会も終わりに差し掛かったタイミングで、ぼくはもう一度だけヒナミの爺さんに話しかけに行った。

「さっきの寿司ゲーム、ぼくの一番悪かったところはどこだと思う?」

 そう聞くと爺さんは少しだけ顎を引いて、そうだなあ、と言った。

「なあ、すずよ。一戦目がはじまるタイミングで、お前はどんな心構えだったか思い出せるかな?」

 暖かいお茶の入った茶碗を左手でゆらゆらと揺らしながら、爺さんはぼくにそう問いかけた。

 どう答えたらいいかわからず押し黙ったぼくを見て、彼の目元が優しく歪む。

「最悪負けても、後攻で勝てば引き分けだ。伝説の勝負師に引き分けなら、十分すごいんじゃないか。ゲームが始まる前、こう思ったんじゃないか」

「……うん。一字一句たがわずそう思ったよ」

 心を読まれたぼくは驚きつつも、でも、と言葉を続ける。

「それが駄目だったって言うの? そういう、負けてもいいという心構えが駄目だったとか、そういう話?」

「そう言うことじゃない。いいか、すず。これはギャンブルだけじゃなく、大抵の勝負事に当てはまることなんだが」

 そこで言葉を切り、お茶を一口啜る。


「心構えだとか心意気だって言うのは、正直どうでもいいんだ」


「どうでもいい?」

「ああ。

「……」

 言葉の真意を測りかねて、ぼくは思わず首を傾げた。

「フフ……あんまりぴんと来ないか。もっとかみ砕いていうと、オレがどう思おうが、すずがどう思って勝負に挑もうが、勝敗にはさほど関係ないんだよ」

 乱暴な理論だと思った。

 だって、学校の先生やテレビ番組、漫画やプロスポーツ選手のインタビュー、多岐にわたる媒体で、「気持ちの強さが大切」という話を聞く。

 かくいう僕も、最後まであきらめなかったから試合に勝った、という経験は何度もあった。


 そう主張すると爺さんは首を振って言った。

「実力が拮抗している状況なら、気持ちの差が勝敗を分けることもあるかもしれない。でも、基本的には勝つやつが勝つようにできている。強い方が勝つんじゃない、勝った方が強いんだっていうセリフはよく聞くが、オレはそう思わない。やっぱり、

「それはつまり、生まれた時から勝敗は決まっていて、強いやつにはどうあがいても勝てないから諦めろっていうことなの?」

「あー、それは違うな。全然違う」

「違うって」

「勝負事って言うのは、何も今までの人生の合計点数で勝負するわけじゃねえ。だけ相手を上回ればいいんだ。強者に人生の合計点数で勝つのは難しいかもしれない。でも、その一瞬だけ、勝敗を分ける瞬間だけなら、いくらでも勝ちようはある。そしてそれを決めるのは気持なんかじゃねえんだ」

「……」


「準備だよ。お前が勝てなかったのは、ひとえに準備不足だ」

 だんだんと、爺さんの言わんとすることがわかってきた。

 気持ちの強さがどうでもいいわけじゃなく。

 気持ちの強さごときで勝敗が揺らがないくらい、準備するべきだと言いたいんだ。

「ああ、もちろん今日の寿司ゲームは親戚の戯れだからそんなに真剣に準備されても困るんだが、もし本気でオレに勝ちに来るなら、もう少し作戦を練ってから挑むべきだった」

「たとえば?」

「なんでもいい。監視カメラを仕込んでいてもいいし、他の人に見てもらうよう頼むような手もあった。例えばオレはすずに新品の箸を渡しただろう?」

 そう言えば渡された気がする。

「あれも、すずの食い差しの箸が使いたくなかったわけではなくて、オレの作戦の一つだったりする」

「……」

「マグロってのは赤身魚だ。もし新品の箸でマグロだけ触っていたら、当然その箸には

 その言葉を聞いてぼくははっとした。

 もしかして爺さんが、醤油差しのカマかけをマグロに対して行ったのは……

「その通り。オレはあの時点で、十中八九マグロにわさびが仕込まれていると思っていたよ」

「くっ……」

 爺さんがゆっくりと息を吐く。


「準備をして、準備をして、準備をして、あとは最後、自分を信じてオールインするだけだ。それ以上のことは必要ない」


 ぼくは爺さんがそう断言するのを聞いて、少し掘り下げたくなった。

 だって、自分を信じるって相当難しいように思えたから。

「でも……いくら準備しても足りないことだってあるよね? 自分を信じ切れないときはないの? 例えば、ばかばかしい仮定だけど自分の命がかかっているような状況、負けたら死ぬような状況でも、同じように自分を信じてオールインできる?」

「フフ……ばかばかしい仮定か」

 爺さんは遠くを見つめるような顔で、言葉を続ける。


「その仮定にしても、同じこと」


「同じこと……って。でも、負けたら死ぬんだよ? 不安にならないの」

「逆に問うが、すずにとって死ぬっていうのはなんだ?」

 質問の意図がよくわからなかったので、ぼくは首を傾げる。

 爺さんは言葉を選び、簡単にかみ砕いてくれた。

「死ぬことの、何が嫌なんだ?」

「……」

 死ぬことの何が嫌か。

 最近夜中に死ぬことについて考えてしまい、眠れなくなることが多々あったぼくにはかなりタイムリーな問いかけだった。

 死んだら自分が消える。

 それが怖いという自分すら消える。

 完全な無。

 それが怖い。

「フフ……そうだな。確かに自分が消えてなくなってしまうのは怖い。他には?」

「他は……ううん、もう家族とか友達と会えなくなってしまうこと、かなあ」

「それもあるかもな」

「もちろん、美味しいご飯を食べて、綺麗な景色を見に行けなくなることもちょっと嫌だ」

 まだ中学生のぼくは、この世界について知らないことが多すぎる。それを知らずに塵になってしまうことが、嫌だった。

「すずの考えはよくわかる。だが、やっぱりそれは同じことなんだよ」

「……何が?」

「自分を信じられなくなったとき、オレはオレじゃなくなってしまう。そんな風に思うんだ」

「……」

「一度でも自分を裏切れば、オレはオレではなくなってしまう。そんな確信がある。それは、死ぬのと同義だ」

 ふと周りを見ると、食事の片づけや麻雀会も終わったようで、残った人たちはうだうだとどうやって帰ろうなどのやり取りをしている。


 ぼくはそれらを意識の外に追いやって、爺さんの話の続きを促した。

「そして、そんな死人同然のオレは、家族や友人に会いたくないし、美味しいごはんも景色も十全に楽しめないだろうよ」

「ちょっと待って、今のは論理が飛躍したと思う。どういうこと?」

「フフ……すず、お前朝起きてすごい寝癖がついていたことはあるか?」

「……うん。あるけど」

「その寝癖のまま友達に会いたいと思うか?」

「いや。できれば会いたくないね」

「例えば、洗濯の関係でダサいシャツを着るしかない状況があったとして、そんな服を着て綺麗な景色を見たとしよう。どれだけ綺麗な景色だったとしても、お前の頭の片隅には常に、『でも今、ダサい格好をしているんだよな』という思念がいる。これって、百パーセント楽しめていると思うか?」

 ぼくは首を横に振る。

 確かにダサい服を着ている状況では、なにをやっても集中できない気がした。

「それと同じなんだ。オレは、自分を信じ切れずに裏切った面で、友人には会いたくない。家族に顔向けはできない。そんな心情で美味い飯を食ったって、味なんてわかりゃしねぇんだ」

「……」


 全くもって理解不能、という話ではなかった。

 親に叱られた日の晩御飯は美味しくないし、友達と喧嘩した後の夕焼けはなんだか気まずい。

 ヒナミの爺さんにとって、自分を信じ切らないというのは、自分への最大限の侮辱なんだろう。


「つまり、オレにとって、オレがオレを信じられなくなるというのは、死ぬことと同義なんだ。だから、例え命がかかった状況だろうと、オレはオレを信じるだけよ」

 爺さんはそう言って、ぼくに右手を差し出してきた。

「今日は楽しかったぜ、すず。お前はいい勝負師になるだろうが、お前の生き方はお前が決めろ。今日話したことはきっと、ギャンブル以外の全てにも応用が利くだろう」

 ぼくはその言葉に胸を打たれながら、右手を差し出して、ガッチリと握手をした。


 それ以来、親戚会にヒナミの爺さんが顔を出すことはなかった。




 第2ゲーム 『寿司ゲーム』


 勝者・樋波尊

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