絶対絶命

文野麗

絶対絶命

本作はハロルド・アーレン作曲、テッド・ケーラー作詞の「Between The Devil And Deep Blue Sea」(邦題「絶体絶命」)を聞いて思いついたものです。歌詞の直接引用はありませんが、内容のモチーフとなっております。

素晴らしい曲へ敬意を表し、最初に紹介しました。



「いい加減にしろよ」


 ケビンが拳でテーブルを叩いた。載っているグラスや皿が不穏な音を立てる。


「いつまで愚図々々と出発を延ばしゃあ気が済むんだ。もう二ヶ月だ。何週間こんなところで遊んでろって言うんだ」


 筋骨隆々なケビンが発する怒鳴り声は部屋中に響くどころか宿屋全体を揺らすようであった。他の客に文句を言われたらどうしようか、面倒だ。そんな考えが浮かぶくらいには、俺は反省していない。


 彼の他は誰も何も言わず、顔をしかめて目を逸らしている。


 ケビンを制止しないのは、暗に彼の言うことに同意しているからに違いない。ミーナも、エーリヒも、アンナも、俺に対して愛想を尽かしかけているのだ。


 無理もない。俺は勇者としての役割を怠っているのだから。完全に俺が悪い。それはよく自覚している。


 だが一応言い訳らしいことを口にすることにした。


「今月は泉の悪竜退治で忙しかったから、仕方ないじゃないか」


「はっ。何が忙しかっただ。アンタはなにもせず、荒野の荒れくれどもに代わりに退治させて、その成果を横取りしたんじゃねえか」


「金は払ったし、奴らはそれで納得した。ああいうのは『横取り』と言うんじゃない、『下請けに出した』と言うんだ」


「勇者さまの言うことはさっぱり分からねえ。だがな、これだけは分かるぜ。いつまでもこんな場所でのんべんだらりと逗留を続けてりゃ、時間の問題で国王さまの怒りを買って、俺たち全員牢につながれるぜ。全部アンタのせいだ」


「そのあたりはなんとかするから、心配しなくていい。いつもそう言ってるだろ?」


「残念だな。俺はとっくにアンタのことなんか信用しちゃいねえ。勇者さまよ、仲間を失いたくなかったら、心を入れ替えて魔王討伐に向かうんだ。もう猶予なんてねえんだからな」


 すると、今まで黙っていたミーナが、意を決した様子で口を開いた。


「そうだよ。早いところ出発することにしようよ、ね、ショー。そうすればこんな喧嘩しなくて済むじゃない」


「明日まで考えさせてくれ。俺は用足しに出かけてくるから」


 言いながら、立ち上がった。もう出かけなくては約束に遅れる。それに、とてもこの針の筵のような部屋に居続ける気にはなれない。


 仲間たちの冷たい視線が背中に突き刺さる。


「なんでそこで出発すると言わねえんだ、この弱虫! あーあ、どこへ行くんだか知らねえが、どうせろくな用事じゃねえだろう」


「情報収集だ」


 上着を羽織って、ドアを開け、廊下に出た。ケビンがケーブルを蹴り飛ばす音を背中に聞きながら、宿屋を出た。夜になって、肌寒い。風が俺の頬に吹き付けた。


 俺は生まれながらの勇者ではない。


 元々は別の世界に生まれて、二十年以上その世界で生きていた。


 だがどういう摂理か分からないが、本棚にあった一冊の本を開いた途端に、吸い込まれるように時空のひずみに連れて行かれて、気がついたら、この世界にいた。


 俺は子どもの頃、ゲームをするよりも図鑑なんかを眺めている方が好きだったから、あまり馴染みはなかったが、友だちの家で何度か冒険系のゲームをプレイしたことはあったから、なんとなく分かる。


 ここはRPGの世界、もしくはそれとよく似た世界だ。


 この世界で目が覚めたとき、俺は祭壇の上に仰向けになっていた。


 周りには大勢の神官がいて、俺が目を開けた途端、大騒ぎし始めた。


 彼ら曰く、俺は古くから予言されていた伝説の勇者なのだそうだ。予言だと、俺は数千年に渡ってこの国に害を及ぼしている魔王を退治できる唯一の存在とのことだった。


 俺に選択の余地はなく、すぐに上等の着物と武器を与えられ、国王に魔王討伐の命を下され、旅に出ることになった。


 最初に国防軍から命じられて俺の手下になった戦士ケビン、神官アンナと、途中で知り合った魔法使いのミーナ、易者のエーリヒを仲間にして、俺は五人のパーティーを結成した。


 最初の頃は楽しかった。どうやら俺は二つチート能力を得ているらしい。一つは戦闘時はどんな相手でも絶対に勝てるというものだ。


 戦いのときは、飛び上がれば好きなだけ高くジャンプできるし、身体は自由自在に動く。運動神経的な限界がない。物理法則にも縛られない。


 俺は景気よく魔物や怪物を倒していった。敵を倒せば国王から余計に資金が与えられる。


 仲間たちと協力して、俺は魔王の手下も、魔王とは直接関係ないが地域の人間を害する怪物も、みんな倒して魔王の城を目指し、前進してた。


 だが俺は徐々にやる気を失っていった。


 力を振るうのが嫌になってきたのだ。


 敵の血には、俺の力を奪う効力がある。


 俺は何十もの大物の敵を倒し、何百ものその手下どもを殺した。


 そのことが俺の心を暗くし始めたのだ。


 敵を倒した瞬間、本当に「息を引き取る」という表現そのままに、奴らは静かに息を吐いて死ぬ。

 俺がこの手で殺している。首から力が抜け、敵たちが死骸に変わる度に、それの事実を目の当たりにする。


 悪い敵から人々を守るためだ、と何度も自分に言い聞かせた。だが俺は本当に割り切ることなんて決してできない。


 確かに生物はみんな他の生物を殺して生きている。俺が「前世」と呼んでいる、この世界に来る前の俺も、毎日殺された他の生物の身体を食べていたし、現在も、獣の肉や刈り取られた穀物を口にしている。


 だがそういう理屈は、俺の罪悪感を減らすことはない。


 他の誰かが知らないところで殺した生物の身体を食べるのと、自分で命を奪うのは感覚として全く違う。


 朝目覚めると、昨日殺したあの敵は、もう二度とこんな風に目覚めることができなかったのだ、なんて考えてしまう。するともう自分の手が、何度も入念に洗ったにもかかわらず、血まみれにしか見えなくなる。


 そもそも人に害する怪物だって、悪意を持って人を傷つけているわけではない。この間の悪竜だって、人間が勝手に森を切り開いて、彼のものだった泉を侵すようになったから、自分のテリトリーを守ろうとして怒っただけだ。


 そんな彼を悪竜と呼んで退治するなんて、人間は勝手すぎる。


 だが誰もその理屈を理解しない。


 問題はここからだ。俺は殺すのが嫌になった。だがだからといって、魔王討伐をやめたらどうなるだろう。ケビンの言うとおり、国王の命令に背いた罪で捕らえられるに違いないし、勇者さまと持ち上げられて、多額の物資を受け取っていた俺は決して許されないだろう。即日処刑される。


 だから俺は、前進することもなく安全な宿屋にいつまでも逗留して、地域の怪物を倒してそれを報告し、お茶を濁している。


 この頃はその仕事も、「下請け」に出す始末だ。


 その上、いよいよ何もかも嫌になった俺は、事もあろうに魔王のとある手下と懇意になり、身分を隠して一緒に酒を飲むことを繰り返している。





「今夜もひどい顔をしておいでだ」


「怒鳴り声を散々浴びせられたら、こんな顔にもなるさ」


「またケビンさんですか」


「あいつはもう、俺のパーティーを抜けるかもしれない」


 俺が深刻に打ち明けても、男は表情一つ変えない。そういう男だ。


 男は極端に表情に乏しく、感情もほとんど表に出さない。常に余裕そうな雰囲気を漂わせている


 顔は陶器のように白く、整っている。


「ケビンさん以外は大丈夫なんですか?」


「エーリヒは気が弱いから、とても抜けるなんて言い出せないだろう。ミーナとアンナは、ただ俺に惚れているから、もうすっかり呆れているのに、結局離れられないようだ」


 これが俺の二つ目のチート能力だ。どんな女も、俺が欲しいと思えばすっかり俺に惚れてしまう。


 ミーナもアンナもこの能力で愛人にした。どちらとも、ときどき他の連中に隠れてベッドをともにしている。


 旅の途中で色々な女と出会ったが、この能力で片っ端からものにしていった。試しに、ある村で一番貞淑で敬虔と褒めそやされている女将さんにこのいたずらを働いてみたら、夜、化粧して俺の部屋に忍び込んできたから笑ってしまった。


「こんなダメ勇者のことを、まだ好きというとは思えないが、失うのは嫌なんだと思う」


「絶体絶命ですね」


 男は珍しく、微かにだが笑って、気になることを言い始めた。


「あなたのことは好きではないが、あなたのことを失うのは嫌だ、というわけですよね」


 そしてある歌のメロディーをを口ずさんだ。


 俺は驚いて息をするのを忘れた。その曲は、俺が「前世」で、論文を書きながら好んで聞いた、ジャズナンバーのうちの一つだ。


「お前、どうしてその曲を知っているんだ。その曲は……」


「ほう。『前世』ですか」


「その通りだ」


「前から考えていたのですが、どうやら私とあなたは元々同じ世界にいたようですね。そしてどういうわけか、この世界に来てしまった」


「何者なんだ、お前は。以前の世界では、どこの地域にいたんだ」


「地域、国、そんなものは、私からしたらどうでもよいものでした。私は私で、楽しく生きていたのです。しかし突然意思とは関係なく別の世界へ辿り着いてしまって、元々備わっていたほとんどの能力を失ってしまって、もう、死んだも同然と思っていたのです」


 男はそう言いながらも相変わらずの無表情で、男にとってそのことがどれくらいの悲しみなのか、分かりかねた。


 男は、多くの秘密をもっている。名前すら未だに教えてくれない。魔王の手下であることは確実だが、どれくらいの階級なのか、魔王とどれくらい近い存在なのか、分からない。


 身体は華奢で、左足が不自由らしく、いつも引きずって歩いている。杖を手放さない。


 黒くて長い髪を背中で結っていて、たくさん髪飾りをつけていて、それがとても目につく。


 俺は涙ぐんだ。男に全ての望みを掛けて、聞いてみた。


「お前、元の世界に戻る方法を知らないか? 俺は『前世』に戻りたい。いくら戦いで見事に勝てても、いくら女にモテても、最初から与えられたチートのせいじゃ全然嬉しくないし、もう、もう二度とこの手で殺しをやりたくないんだ。何でもするから、知っているなら、元の世界に戻る方法を、教えてくれ。知らないなら、一緒に考えてくれ」


「方法はないわけではないのですよ」


「おお」


 俺は感激のあまり声を漏らした。


「どうしたらいいんだ? どうしたら、元の世界に戻れるんだ」


「あなたがやる気になるかどうか、分かりませんが」


「何を言うんだ。俺は戻るためならなんでもやる。どんなことでもやってみせる。だから、教えてくれ」


「分かりますか? 我々がこの数奇な運命を辿ることになったのは、神々の力が働いたからです。神々ならば、ある個体を別世界に放り込むなど容易いこと。意思を持っていたらなおさらですが、もしほんの手違いだとしても、何の造作もなくできることです」


「ふむ」


「ですが、我々、あなたや、この世界に来てしまって以後、元々の能力を失った私は、そんな巨大な力はもたないのです。摂理をねじ曲げるのは不可能ではないかもしれないけれど、莫大なエネルギーを費やす必要があります。そんなエネルギー、どこにあると思います?」


 俺は口をつぐんだ。人力で生み出すエネルギーでは話にならないだろう。


 俺の沈黙を見て取ったらしい男は、続けた。


「摂理をねじ曲げられるエネルギー、やはり思いつかないようですね」


「残念ながら、そんなエネルギーはどこにもない」


「ですが、方法はあると言ったでしょう」


「どんな方法だ」


「一つだけあります。つまり」


 男は微かに表情を変えた。顔を歪めて、邪悪な笑みとでも言うべき笑顔をほんのりと浮かべている。


「この世界全体を燃やして、燃料にしてしまうとか、ね」


 男はそう言ってしまってから、酒を一気に飲み干した。





 俺は深刻な葛藤を抱くことになった。


 今のままでは自分は時間の問題で破滅する。殺すか、殺されるかしなくてはならない。


 彼の言うとおりにすれば、その運命から逃れられる上、念願だった「前世」への帰還を果たせる。

 だがそのために、何千人もの人を犠牲に出来るだろうか。そんなことが許されるのだろうか。


 俺を信じて、金も物も惜しみなく与えてくれた国王、無事を祈って最大限の祈りを捧げてくれた神官たち、俺を歓迎して、勇者さまと慕ってくれる町の人々、そして、今は仲違いしているが、これまで一緒に命をかけて戦ってくれたパーティーの仲間たち。彼らをみんなみんな死なせてしまう。


 自分の利益のために、数え切れない人々を、俺は殺すのだろうか。


 散々迷った末、何日もの暗い夜の後、俺は、みんなを殺して、「前世」に帰ることに決めた。


 男に、そう告げた。




 俺たちはある日の明け方、駆け落ちを決行した。  


 宿屋には「魔王が怪しい動きをしているのを察知したから偵察してくる」と書き置きを残した。少しでも時間を稼ぎたかった。


 俺と男は、男が用意した、商人風の服に着替えてから、先を目指した。


 ずっと身につけていた金の甲冑と兜は、山道を歩いたとき、谷底に投げ捨てた。


 国王から賜ったそれらを投げ捨てたとき、それまで一応は残っていた生きる保証を、完全に失ったのだと実感し、足下が震えた。


 山の中の誰もいないところで、男は地図を見せてくれた。


「我々はこの、東の果ての教会を目指しています。教会はこの深くて青い海に面しています」


「行き止まりじゃないか」


「だからこそ、です。この地図では行き止まりのこの深くて青い海の果てが、隣の世界と接しているんです。ここを抜ければ、我々は元の世界に戻れるのです」


「具体的に、どうするんだ」


「この教会は、典型的な教会の造りをしています。入り口から入ると信徒席が左右に並んでいます。中央の道をまっすぐ進むと、真っ正面に聖壇があるのです」


「だいたい分かるな」


「その聖壇を後方から前方へ動かすと、地下に通じる隠し階段があるのです。そこを降りていくと、地下で洞窟に繋がっています。穴に沿ってずっと進むと、海に面する船着き場に出ます」


「そこが、深く青い海なんだな」


「そうです。そこにはおそらく小舟がいくつか繋がれています。なければ、あなたのスキルで、木々から木の船を作れるでしょう?」


 男の言うとおりだった。俺は木材や石材に手を触れれば、道具を作り出すスキルをもっている。


 それはチートではなく、少しずつ上達していくものだった。今の俺なら、木の船くらい問題なく作れる。


「木の船に乗って、そうですね、『前世』の基準で言えば、三百メートルくらい漕ぎ出します。そこで、この瓶の中の液体を海に垂らすのです」


「なんだその液体は」


 男が懐から取り出した瓶の中には、とても形容できないような、見たこともない色の液体が揺蕩っている。


「これは魔王の金庫からくすねてきた、終末の液です。これを地面か、海に一垂らしすれば、この世界のあちこちで爆発が起こり、炎に包まれて燃え尽きるのです。魔王が、もし自分が自決するようなことがあればこの世界ごと道連れにしようと考えて所持していたものです」


 俺は自らがやろうとしていることを思い出して、顔を背けた。


「なくしてしまったときのために、二人でそれぞれ持っていることにしましょう」


 男はそう言うと、同じ色の液体が入った小さな瓶を俺に渡してきた。


「この液を垂らすと、海の色が変わって、元いた世界は爆発するはずです」


「どんな色に変わるんだ?」


「それは分かりません。やってみないことには。とにかく、その衝撃波に乗って、海の向こうにある世界の境界を越えれば、作戦成功です。あちらについてしまえば、元の居場所に戻ることなど造作もないことでしょう。ここを脱出する難しさに比べればなおさら」


 俺はこれから乗り越えなければならない困難と、その後一生続くに違いない大きな罪悪感を思って、大きなため息をついた。


 それから俺たちは、昼も夜も歩き通しでその教会を目指した。男の方は全然疲れを見せなかった。俺は体力の限界を迎える度に、アンナから以前預かっておいた体力回復効果のある薬草を食べた。


 馬車に乗りたかったが、足がつくといけないから、と男に止められた。疲れて仕方なかったが、ずっと徒歩で目指した。


 あと一つの町を越えれば目的地に着くという段階になって、男がある提案をした。


「あなたの体力も限界なようですし、今夜はこの町で宿に泊まり、明日の朝再び出発するというのはどうでしょう」


 薬草も底をつきかけていたので、俺は賛成し、料金が足りる安宿に泊まった。


 そして部屋で、明日には大罪を犯すに違いない俺たちは、咎人として、罪ある身体を重ねた。情事によって、罪の名の下に結ばれた。


 もう後戻りはできない。


 男は身体の他のところはみんな見せてくれたのに、包帯が巻かれた不自由な左脚だけは、どうしても見せてくれなかった。心に氷を押しつけられたかのように悲しかった。


 激しく貪りあってから、欲望を叶えきった俺たちは、ベッドの中で向かい合った。



 男が口を開いた。


「私、あなたが捕まるか何かして、連れて逃げられなくなったら、あなたを見捨てて一人で脱出するんで、あなたもそうしたらいいと思いますよ」


「つれないな。今言うことか? それ」


 男の冷めた言葉も、先ほど脚を隠されたのも、寂しくてたまらなかった。


 駆け落ちしても、身体を重ねても、男は俺を愛してはくれないのだろうか。


「私はもう少し見張りをしていますから、眠ってください」


 彼はそう言うとベッドを抜け出た。服も着ないまま、窓際に置いてある椅子に腰掛け、窓の外を眺めている。


 月の光に照らされて、男の身体がよく見えた。先ほどまで抱き合っていた身体は汗をかいている。肌は顔と同じく陶器のように白い。筋肉は最小限しかついていなくて、腕も脚も細い。身体の均衡が絶妙に整っている。本当に美しい身体だ。


 男は相変わらず無表情だったが、どことなく寂しそうに見えた。俺の気のせいかもしれないが。


 翌朝、起きると朝日が燦々と窓から差し込んでいた。男は俺が眠る前と同じく窓の外を眺めていた。しかしもう服は着ていた。


 この期に及んで、前の晩に肌を重ねた者と話すのを気まずく思った俺だが、男は平気そうだった。朝食を食べながら、今日やるべき大仕事を確認した。


 町を抜けて、しばらく歩くと、本当に教会が見えてきた。俺は緊張と感激とで泣き出しそうになり、呼吸が苦しくなった。


 だが、ここへ来て恐れていた事態が起きた。追っ手が俺たちに追いついたのだ。


「勇者さまとやら、仕事をほっぽって、こんなところで何をしている」


「見ろ、魔王の裏切り者らしい野郎と仲睦まじく歩いてやがる。敵と恋仲に陥るたあ、勇者の名前も形無しだな」


 嘲笑の声が辺りに響いた。


 俺は敵の軍勢を見回した。ざっと数十人はいる。

 さすがにこの数は、倒せないんじゃないか。


 俺はなんとなく気づいていた。駆け落ちをしてから、身体がなんだか重くなった。武器の剣も思うように動かせない。魔王討伐の旅から離脱した俺は、もはやチート能力を失ったのだろう。


 考えに窮したとき、隣の男が俺に言った。


「ここはひとまず私が食い止めますから、あなたは先に行って、脱出口を確保してきてください」


 そういうと彼は持っていた杖を振り上げた。木の杖だったそれは真っ黒な棍棒に変わった。途端にどこからともなく音が流れ始めた。笛と太鼓を伴奏にしたメロディーのようでありながら、もっと邪悪な、聞く人の耳を不快にする、忌々しい雑音だった。


「私結構強いんです」


 男は無表情のまま言った。そして叫んだ。


「早く行ってください。あなたにゃ、この姿、見られたくねえんです!」


 男の裏返った声で気持ちを察した俺は、後ろ髪引かれる思いで教会の中に入り込んだ。教会の中は彼の言うとおりの構造だった。聖壇に駆け寄り、作戦の通り後方から前方へ動かそうとした。


 聖壇は重く、本当に動くか疑われた。大罪人の俺はもはや何に祈ればいいか分からなかったが、必死に「お願いだ、お願いだ」と念じながら、全力で聖壇を押した。すると少しずつ動いた。

 重い聖壇を無茶苦茶な力で押しきると、その下には、果たして隠し階段があった。


 見つけたと思った途端、薄汚い叫び声が耳に入った。


「この墜ちた勇者め、逃がさねえぞ! 野郎ども、かかれ!」


 かけ声とともに軍勢が教会になだれ込んできた。俺は絶望した。このままでは殺されてしまう。


 せめて全員、転んでしまえばいいのに。


 そう考えた途端、思わぬ事が起きた。軍勢が全員本当に転んだのだ。


 まさかと思った俺は、試しに再度こう念じた。


 全員、両足骨折しろ!


 するとやはり、軍勢は再び一人残らず崩れ落ち、「足が、足が」と苦しみ始めた。


 その瞬間、俺は全てを悟った。ずっと一緒にいたあの男は、悪魔だったんだ。


 手を触れずに何かを動かす、何でも念じたとおりになるというのは、間違いなく魔法だ。一度ならず二度までもその通りになったのだから、もう疑いようがない。


 この世界でも、人間は基本的に魔法を使えない。ミーナやアンナが使う魔法は、精霊の力を借りた術だ。精霊と契約していない俺に魔法が使えるわけがない。


 だが人間が直接魔力を得る方法は一つだけある。それは悪魔と性行することだ。


 俺は昨日まで、魔法は使えなかった。それが今日になって急に使えるようになった。昨夜性行したのはあの男だ。すなわちあの男は悪魔ということだ。


 だが大問題がある。悪魔は教会には入れない。


 男は最初から、俺のことだけ逃がすつもりだったんだ。自分も犠牲になると決めて、俺に脱出方法をあんなに事細かに教えたんだ。


 肌を重ねた後のあの台詞も嘘だった。俺が男を見捨てて逃げるように、あんなことを言ったんだ。

 嗚呼、なんてことを。


 そう考える間にも、倒れた連中を踏み越えて、外にいた軍勢がなだれ込んできた。


 このままではすぐ殺される。


――僕は君を憎むべきなんだろう。だが推測するに、僕は君を愛している――


 愛する相手を見殺しにして自分だけ逃げるか、ここで死ぬか、二つに一つ。


 絶体絶命。





***

「なんで戻ってくるんですか! 私があそこまでお膳立てしてあげたのに、それを無にする奴がありますか! あなた、『前世』に戻るチャンスを永久に失ったんですよ! 私、今猛烈に怒ってますよ」


 男に与えられた魔法の力で、怪我を負いながらも敵の軍勢をなんとかなぎ払った俺は、もうすっかり元の姿に戻った情人のわめき声を聞きながら、ポケットに残っていた薬草の残りかすを噛んで、落ちのびる先を必死に考えた。

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絶対絶命 文野麗 @lei_fumi_zb8

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