第12話 月の下
魔法使いに出会ったら願い事を託す――。誰が言い始めたかもわからない、お伽噺の登場人物に乞うような祈りを、一番最初に口にしたのは誰だったろう。
月の下、深い空に影色の雲が漂う中で、狼は姿を人間へと変える。
「
黒い毛並みが風を纏って、ロウという青年を作り出す。仄かな光が身体を形成する頃に、ロウは静かに瞼を上げる。唇から漏れる息が、溜まった不満のようなものを含んでいた。
魔法使いが唱えた声は、彼女の耳に届く。
「あなた、メルトの家にいた……!」
ロウが月の光を背に現れたのは、ベルの部屋。魔法使いを招き入れるかのように開かれたベランダの窓から侵入したロウは、黒い髪の下からベルを覗く。その瞳の冷たさを彼が隠す理由なんてない。
(呑気にしやがって。メルトは、牢獄にいんのに)
ベッドに腰掛けて月でも眺めていたのだろう。風に揺れる女の髪すら、ロウの心を傷つけていく。
「お前、魔法切れてんの?」
「え?」
「友達だったんじゃないの? 騙されたって何?」
結論を急ぐようにロウはベルに問い掛ける。メルトが捕らえられたのは、彼女のせい。ロウの世界における最も必要な存在はメルトで、それを奪ったのは目の前に居るこの女なのだ。
だが、メルトから託された願いは『ベルに会ってきて欲しい』というものだった。そうでないと、ロウが此処に居る理由がない。
「違うの!」
ぼさぼさの髪を揺らしてベルは首を振った。知らねえとばかりに、ロウはベルを追い立てていく。
「町で言ってたぞ。お前は、騙されて可哀相って」
「誤解なの! 惚れ薬の、ことで、私焦って、メルトのことを……」
(言えよ。お前の体裁ほど、どうでもいい物はない)
震えながら意味の繋がらない単語だけを残して口を噤む女に、ロウは苛立った。
月が陰るのか、部屋が一層暗くなる。風が吹き込んで、カーテンがぶわりと膨らむ。
何をどう伝えても、この女にロウの痛みは分からないだろう。ロウは分かってほしいとも思っていない。どんな言い訳を渡されても許してやる気もない。だから、メルトに願われなければ、こんなところには来ない。
彼は最初から彼女が嫌いで、向かい合う理由なんてなかった。
「……私のせいだわ」
「ああ。お前のせいだ」
「今更、お前が何をしたかなんて、俺にはどうでもいい。俺は、お前がまだメルトの友達なのか確認に来ただけだ。仕方なく、だ。すぐに答えろ」
「い、言える立場じゃない、けれど。私は、お友達だと思ってるわ。本当に、酷いことをしてしまっているけれど、友達でいたいと思ってる」
(魔法の効果は切れてないのか)
「そうか」
答えを得たロウは、立ち去ろうと窓へ向かう。ベルが何をしたか、なんてロウにとっては興味のないことだ。きっと、メルトは全てを知っている。
「待って! あなたも、魔法使いなの?」
ベランダの手すりに足をかけようとしたとき、ベルはロウの動きを止めた。
背中から聞こえる声に立ち止まり、ロウは小さな溜息を吐く。ベルを視認できる程度に振り向いて「だったら、何?」と答えると彼女は立ち上がってロウに告げた。
「お願い、メルトを。メルトを助けて」
(こいつ、やべえな。最初から、やばかったんだっけ)
足をもう一度地に着けて、ロウは身体ごと振り向く。寝る為の服をぎゅっと掴んでロウを見つめる瞳に、彼は首を傾ける。どうにもズレている、どうして今それを、そんな思いがロウの中で発熱していく。
「お前のせいで、メルトは捕まってんだよ? 俺にお前が言うの、変じゃないの」
「わかってる! 図々しい願い事だって! それでも私は、神様より、魔法使いのメルトを信じていた、から」
ふう、と彼女が吐き出した空気が、ロウには少し熱そうに見えた。
「神様への祈りは、届かないかもしれない。でも、魔法使いは叶えてくれるんじゃないかって……!」
ロウへ必死に縋る女の言葉が、妙にスッキリと頭に入る。
「なるほどね」
(それは、俺にも共感できる。声だけで俺を動かそうとするアレよりも)
目の前に立つベルという人間を、初めて認識したかのようだった。手放しで嫌いだと思っていた女が、自分の知っている感情を吐露した姿は、少し、ロウの心を揺らがせる。
「俺も。神なんかより、――魔法使いが好きだよ」
薄く微笑んで溢した思いは、大切な誰かへ向けて。
風が吹いて、月が世界に明るさを灯す。頬に触れる外の風を感じて、ロウは自分が微笑んでいたのを実感した。ハッキリと感じるベルの視線から目を逸らして、口元を覆う。
初めて口に出したかもしれない言葉。月の光で作られた自分の影さえ、愛おしい気がした。この魔法を、ずっとずっと纏っていたい。
「……メルトを助けてくれる?」
女が言う。きっとこれは、魔法使いへの願いだろう。
じろりとベルを見た後、諦めたようにロウは柔く目を細めて返す。
「お前に願われなくても、俺はメルトを助けるよ」
堕天使と狼 椎名類 @siina_lui
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