第2話 ェリ
数瞬前までは心音など感じることもないいつも通りだった心臓が、今はドクンドクンと激しく波打っているのが分かる。
滲み出る冷たい汗が、じっとり肌にしみる。
「うっ」
状況を理解する為の意識が一向に纏まらない中、男の心臓からナイフを抜いた際に感じた柔い肉を裂く感触を思い出し、胃液が込み上げてくるのを感じて、右手で口元を押さえる。
右手に握っていたナイフは手元を離れて地に落下し、からん、と軽い音を鳴らした。
すぐにでもこの場から逃げ出したい衝動に駆られ、また一歩後退った時、それまで意識に無かった左手に、何か厚みのある物を持っている感触を覚える。
恐る恐る視線を投げると、左手には紙幣の束が握られていた。
紙幣に肖像画として描かれている男が、指の間から不気味にこちらを覗いている。
見覚えのある、最高額の紙幣に描かれている男だった。
クルトが26枚貯めるために一か月の期間を要する現金が何故か、嘘のような厚い束となってそこに在った。
「お金......?どうして......」
それを見て、心の中に生じていた混乱が、更に広がっていくのを感じた時、突然、深い水の底から浮かんでくるように、とある考えがぽっかりと浮かぶ。
この状況を、クルトではない第三者の、客観的な視点で見てみればどう認識するか。
財布にも入れずに大金を握っているみすぼらしい恰好の男と、その近くで血を流して倒れている男。
強盗と、その被害者にしか見えないだろう。
「......このお金、もしかして、この人の......でも、なんで僕が――」
「――うわー、死んでる死んでる。それ、君がやったの?」
脳の中で氾濫し、未整理のままだった思考を、声に出して少しでも纏めようとした試みは、背後から聞こえる、玩具を見つけた子供のように軽く明るい女の声によって遮られた。
不意に聞こえた声に、思わず息を呑む。
顔色が蒼くなるのを感じながらも、ゆっくりと振り返ると、そこには一人の女が、夜闇の中から這い出て、こちらに向かって歩いて来ていた。
色っぽさと妖艶さを感じる、チェリーピンクの髪。
端麗な容姿の口元には、謎の微笑を漂わせている。
手入れが行き届いた身なりは、吹けば飛ぶような生活を送っているクルトには、手の届かない清潔さを保っていた。
先程考えていた、客観的な視点を持つ第三者がその場に現れてしまったことで、クルトの焦燥感が高まる。
「あと、顔の片側凄いことになってるけど、何それ、オシャレ?」
「あ、え、えっと、その、これは違くて......僕にもよく分からなくて......この顔も、この人も、気付いたら、こうなってて......」
狼狽の色を隠せず、しどろもどろに脈絡のない言葉を並べる。
女はそれを聞きながら嬉しそうに、うんうん、と唸りながら首を縦に振ると、なにもかも把握したとでも言うかのように、ニヤリと自慢げに笑った。
「なるほどね。自分でも理解できない強烈な感情に支配されて、気付いたら相手を殺して金を奪っていたと。あ、ちなみに私はメリッサ。君は?」
「クルトです......あの、そういうわけでもなくて、本当に、小屋で眠ってたはずなのに、さっき目が覚めたらこうなってて......とにかく、僕じゃないんです!」
胸を締め付ける不安が焦燥感を煽り、必死に弁解を試みる。
この状態ですぐに保安官でも呼ばれてしまえば、クルトが何を言おうと、間違いなく取り押さえられてしまう。
そうして捕まってしまった場合、エリの医療費を払う人間はいなくなる。
生きるだけでも高額な薬剤を必要とし、その医療費を負担する者がいなくなった患者に対して、病院側がどういう対応に出るのかは、想像に難くない。
エリのいる一室を別の患者に利用してもらう為に、昏睡状態だろうが関係なく、病院から追い出される。
つまり、エリが死ぬ。
何を置いてでも、それだけは絶対に避けなくてはならない。
既に顔は見られてしまったが、今ならまだ、このメリッサという女一人。
この場から逃げ出して撒いてさえしまえば、この広い都市内からクルトを特定することはほぼ不可能に近いだろう。
混沌とした思考は未だ変わらないままだが、大切な妹の命の危機という事態が、クルトの脳内にこの状況で取るべき最善の行動を、導のように示していた。
体の中に異様な緊張が満ち溢れるのを感じながらも、体を斜めにして、逃げる準備をする。
そして、それに気付いているのかいないのか、メリッサは何故か愉快そうな顔付きで、クルトの弁明を聞いていた。
「まあまあ、落ち着いて。とりあえずお話は手錠に掛けてから聞いてあげるから。豚箱まで美女と二人でランデブーだよ。やったねクルト君」
ニコニコした表情を保ちながら、メリッサは黒いコートの内ポケットから手錠を出して、ゆっくりとクルトに近付く。
戦慄が体を突き抜ける。
服装が制服ではない為察せなかったが、その口振りと、持っている手錠からして、恐らくは警察組織の人間だろう。
狭い路地裏に、遠くもない距離で二人きり。
気付けば追い詰められてしまっている状況に、クルトの顔に怯えの影が走る。
「ま、待ってください。本当に僕は何も知らないんです。それに、明日までに病院で妹の医療費を払わないと、妹が病院を追い出されるんです。お願いします、勘弁してください!」
不安に急き立てられるように、声を震わせながらも、必死に懇願する。
それを聞いてメリッサは立ち止まり、内面に吹き荒れているであろう葛藤の嵐を感じさせる、様々な表情を見せると、やがてその眼差しに、ひとかたならぬ決意を漲らせ、手錠を持っている拳をぎゅっと握った。
「面倒くさい、連行!」
言うと同時に、両腕に手錠が嵌められる。
心が、絶望に引きずり込まれる。
諦めの感情が胸を支配する。
手錠を嵌められる前に逃げ出していたとしても、恐らく身体能力で敵わない以前に、走り出した瞬間に足を発砲される可能性すらあった。
つまり、最初にメリッサに声を掛けられた時から、既にクルトは詰んでいた。
「引き摺るのも面倒だから、ちゃんとついて来てね」
そう言うと、メリッサは、散歩でもするようなのんびりした足取りで、クルトの前を歩き始める。
その背中を、クルトは魂が抜けたような顔色で頭をうなだれて、抜け殼みたいにふらふらと付いていく。
「執行者部隊って知ってる?治安維持組織の特殊部隊。私、実はそこの一部隊の隊長なんだよね。それでさ――」
普段通り前進しているはずが、今はまるで海の底を歩いているような奇妙な感覚で、メリッサが何か話しているのは分かるが、クルトには上手く聞こえなかった。
逮捕されてしまった。
これからどう必死に弁明しようと、あの現場をメリッサに見られてしまっている以上、明日エリの医療費を払いに行くどころか、もう一生外に出れない可能性すらあり得る。
記憶を掘り起こしてみれば、エリの姿が一枚の写真のようにはっきりと浮かんでくる。
凍てついた空気が肌を刺す夜に、小さい段ボールに二人で包まって眠った記憶。
盗んだパンを一緒に食べた記憶。
エリと、何かの約束を交わした記憶。
一旦意識すると、他の記憶も連鎖的に蘇ってきた。
だが、明日にはその、クルトの人生と言っても過言ではない思い出を共有した相手は、失われてしまう。
もう、二度と話すことも、笑い合うことも出来なくなる。
そうなってしまった時の自分の心境を想像するだけで、心が不安定に崩れていく。
生気を失ったように朦朧としていると、次第に、周りの情景からスルスルと現実感が引いていき、色が失われる。
視界が霧がかかったようにぼんやりとしてくる。
前を歩くメリッサが影のように見え、次第に霧に呑まれて薄らいでいく。
煙のように取り止めのない意識は、段々と薄まっていき、急にシャッターのように眼前に降りた黒い幕が視界を閉ざすと、クルトは糸を切られた操り人形のように、ぐにゃりとその場に崩れた。
その時のクルトに、目覚めてからまだ一度もフェリの姿を見ていないという事実に気付く余裕は無かった。
◇
メリッサの後ろを歩いているクルトから聞こえていた、足を引きずっているような音が消え、路地裏が突然しんとした静寂に包まれる。
「悪いけど、トイレは待たないよ?」
メリッサは肩を回して振り向くと、そこにはボロくずのように倒れているクルトがいた。
たたたと駆け寄り、つんつんと指で体を押しても反応が無いのを確認すると、額に手をあてて、やれやれと溜め息をつく。
「あちゃー、失神しちゃってる。これ、背負ってかなくちゃ駄目かなぁ。まあ、別に引き摺ってもいいよね。ここで執行しないだけでも十分優しい方だし」
倒れているクルトの服の襟に、メリッサの真っ白な手が伸びる。
瞬間、クルトの体が、バネにはねられたように勢いよく起き上がり、空気を断ち切るような金属音を鳴らして手錠を壊し、メリッサの手を払いのけ、そのまま距離を取る。
倒れてから起き上がったクルトの姿は、先程までとはまるで別人のように雰囲気が一変していた。
周囲に揺らめいている神秘的なオーラ。
両目の中に宿っている、ガラス玉のように大きな翠色の瞳は、メリッサを路肩の小石でも見るような冷たい眼差しで見つめている。
顔や手、破れた服の隙間からは、緑色に淡く発光する線のようなものが浮かび上がっている。
メリッサはその変わり果てたクルトの姿を一瞥だけすると、先程までは手錠としての形を保っていた鉄の塊に視線を移す。
「あーあ、クルト君、じゃなくて今の君。誰だか知らないけど、これ器物破損だよ。犯罪だよ。」
壊れた手錠の破片をポケットに入れて、立ち上がる。
「察するに、さっきの人も今の君が殺したんだろうけど、他にも同じような罪を犯した経験があるなら、クルト君の方は何も知らないとしても、君とその肉体は今ここで殺さなくちゃならないんだけど、どうなの?あ、ちなみに今の君の名前は?」
ディファイラー オブ エデン 新島廉 @arajima_ren
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