ディファイラー オブ エデン

新島廉

第1話 悪夢のような現実

都市マリエナの街の一角、そこでは、多様な店舗の建物が塀のように立ち並んでいる。


歩道では賑やかな人の流れが人波を作り、そのすぐ近くでは商人や観光客の乗る馬車や、ヴィンテージカーが忙しなく行き交っている。


そんな、人がアリのようにうごめく街路を、クルトが歩いていた。


くすんだ色合いの金髪を持ち、眼の奥ではやわらかな青い瞳を覗かせている。


整髪さえすれば、たちまちその頭髪は金糸の艶やかさを取り戻し、貴族然とした優雅さを現す容貌になるだろう。


だが、その整った顔立ちとは対照的に、細く華奢な体は、貧乏くささが滲み出ているボロ布で包まれている。


「今月も一万ゼルで食い繋げたよ、フェリ」


空腹を訴える胃を抑えながら、隣を飛んでいるのサイズの少女に話しかける。


さやさやと風に揺れる、背中辺りまで伸びている雪のような銀髪。


ゆるやかな美しい翠色すいしょくの瞳。


白いワンピースに、腰元を茶色のベルトで締めている。


蝶々のような純白の羽をはためかせ、道を歩くクルトと横並びに飛んでいる。


だが、フェリは両頬に浮かべている豊かな微笑を保つだけで、クルトの言葉への反応はない。


だが、それはクルトには慣れていることだった。


物心付いた頃から、いつの間にかフェリはクルトの側にいたが、会話や行動などでフェリと意思の疎通が出来たことは今までない。


そして、クルト以外の人には何故かフェリのことが見えない。


不気味な存在ではあるが、それでも話しかけている理由は、幼い頃から一緒に過ごしている為、不思議な安心感があるからというのもある。


だがそれ以上に、人と関わることの少ないクルトにとって、孤独を紛らわすことの出来る話し相手は貴重であり、人形に語り掛けているようなものだとしても、話している際にフェリの表情に笑顔が出ているだけで、その間、心は確かに孤独を忘れられているからだ。


ちなみに、フェリに名前を付けたのは今から三年前だ。


「今月の給料が26万ゼル。病院で昏睡になってるエリの医療費が25万ゼル。残った僕の生活費が一万ゼルか。スリにだけは会いたくないね」


クルトにはエリという妹がいる。


十歳の時に突然妖精病を患い昏睡状態になってから今まで、五年間目を覚ましていない。


妖精病が具体的にどういう病なのか、原因は何なのか、現代の医学の段階ではその解析は進んでいない。


ただ、不治の病に近しい病気であることは確かだった。


クルトはその多額の医療費を払う為、毎月寝る間も惜しんで働き、何としても金を稼がなければならなかった。


そして、一か月の労働を昨日終えたクルトは、今日が給料日であり、今はその給料を受け取るため、仕事場に向かっている途中だった。


雲がちらちらと浮かんでいるものの、大半は澄んだ青色の空を見上げながら、雑踏ざっとうの中、クルトは目的地に向けて歩を進める。


                  ◇


目的地に付いたクルトは、仕事場であるはずの個性に乏しい建物の前で呆然と立ち尽くしていた。


店の看板は無くなっており、閉まったシャッターに貼られた一枚の紙には、その店の状態に納得できる言葉が記されていた。


『閉店』


その張り紙に困惑する。


普段は営業時間外でも、店主はこんな張り紙は出さない。


そして、つい昨日まで入り口の上に飾ってあったはずの看板が無くなっている。


更に、今日はクルトの給料日。


クルトは昨日、普段は頼まれないはずの荷物の運搬を店主に任されたことを思い出す。


その情報から推測し、出た結論に、クルトはしゃがみ込み、頭を抱える。


「夜逃げされた......」


恐らくクルトが運搬を任された荷物は、店主がこっそりと逃げる際に持っていく私物だったのだろう。


逃げる相手にその手伝いをさせるという店主の皮肉に、深い溜め息を吐く。


「二十五万ゼル......明日の昼までにどうやって払おう......」


先の知れない不安が、暗雲のように頭上にかぶさってくる。


心にのしかかって来る不安に押し潰され、クルトは頭を抱えてしゃがみ込んだまま、しばらく立ち上がれずにいた。


                  ◇


クルトはあの後、エリが入院している病院に来ていた。


一直線に奥までにぶく光っている廊下に、硬い靴音を響かせながら、目的の病室まで足を進める。


クルトとエリに両親はいない。


母親はクルトが生まれる前は風俗業で生計を立てており、その相手をしていた、誰とも知れない男たちの種から産まれたのが、クルトとエリだ。


当然父親が誰かなど分かるはずもなく、そのまま女手一つで二人を育てていた母は、突然患った原因不明の病で、クルトが物心付く前に他界した。


その後はまだ幼い兄妹二人で協力し合い、何とか生き延びていたが、クルトが十二歳、エリが十歳の時に、エリが妖精病を患い、入院。


それから五年が経ち、今に至る。


廊下をしばらく進んでいると、見慣れた名が刻まれている表札を見つけ、扉の前に立つ。


扉を開けると、飾りけも何もない板張りの病室が目に入る。


窓枠に躍る光が眩しい。


その窓枠の下には、クルトが生けておいたコスモスの花がゆらゆらと優しく風に揺らいでいる。


エリの意識が回復する見込みは今のところなく、花を生けておいたところで、しおれずに可憐なままの姿を見れるのはクルトや看護婦さんぐらいだろう。


それでも生け続けている理由は、もしエリが目覚めた時に何もない部屋に一人では、心細いのではないかと思ったのだ。


......いや、本当は、目覚めて欲しいという願いが無意識の内に行動に出ているだけの、ただの自己満足なのかもしれない。


窓枠の近くの寝台で、エリは首元まで布団で覆われて、横になって眠っていた。


枕に広がる銀糸の髪、閉じた長いまつ毛。


綺麗なばかりで表情に乏しい顔立ちは、眠っている姿と相まってまるで糸の切れた人形のようで、近付いてすーすーと息を立てていることに気付くと、さながら生きる屍のようにも思えた。


エリが病を患ってから五年。


その間、医療費として毎月多額の金額の請求を一人で支払い続け、耐えてこれたのは、ひとえにエリがクルトの中でかけがえのない存在だからだ。


寝台の側の椅子に座り、エリの透き通るような皮膚をした華奢な手を握ると、幸せだった過去の鮮やかな記憶が今見たように蘇り、孤独な思いが胸の中でとぐろを捲く。


意識の深層からその中のひとつの光景がはっきりと浮かび上がり、頭の中で過去の記憶が再現される。


                  ◇


八歳の頃のクルトはその日、とあるパン屋にいた。


内装にこれといった工夫やこだわりは窺えないが、店中に香ばしいパンの香りが漂い、暖かい雰囲気をそこに作りあげていた。


まだ幼い少年は、きょろきょろと落ち着きなく周囲を見回し、しばらくして眉の辺りに決意の色を浮かべると、棚に並んでいたパンを一つ掠め、袋の中に入れる。


人生で初めての盗みに対し、心苦しく思う気持ちが溢れ、頭の中で何度も謝罪の言葉を述べながら、フェリを伴って店を後にする。


心にのしかかる罪の意識が、身体を重く抑えつけるような感覚を覚え、クルトの歩調を緩めるが、その感情を振り切るように両手で頬を叩き、路地裏へと入る。


濃い日陰だけが横たわるその狭苦しい空間で、エリは待っていた。


無表情だが、それでいて上等な人形のような少女が、怪訝な面持ちを浮かべる。


エリにフェリは見えていないので、怪訝な表情を浮かべている理由はクルトに対してだろう。


「にいさん。さっきはここでまってろっていってどこかいっちゃいましたけど、なにをしていたんですか?」


近付きながら、持っていた袋からパンを取り出す。


盗んだものをエリに食べさせることを気が咎めるが、渡さなければエリは空腹に苛まれる。


エリが飢えて苦しむことと、クルトの心に残る罪悪感。


どちらを優先するかは、考えるまでもなかった。


「実は今日道に落ちてた硬貨を拾ってさ。さっきそれを使ってパンを買って来たんだ」


表情の中に苦い色を滲ませながら、ぎこちなく笑顔を作る。


エリはそのクルトの顔を翠色の瞳でじっと見つめると、パンを受け取って半分に分け、その片方を有無を言わさぬ表情でクルトに渡す。


「にいさんもおなかへってます。たべてください」


この表情になったエリは例え梃子てこでも意見を変えようとしない。


長い付き合いから、クルトにはそのことが分かっていた。


大人しくパンの片割れを受け取り、エリはそれに満足すると、二人は食事を始める。


一口噛むと案外硬くて、粉がボロボロと膝にこぼれ落ちたが、味の薄い食事しか食べた事のないクルトにとっては、文句なしに美味なものだった。


しばらくパンを味わっていると、まるで最初から知っていたかのように、唐突にエリが切り出す。


「にいさん、これ、ぬすんだパンですよね」


不意にかけられたその確信を持った物言いに、クルトは青い瞳をうろうろと動かし、図星を突かれたことを分かりやすく露わにした。


「......なんで、それを」


「にいさんがわたしにつくりいわらいするのなんて、うそをつくときくらいです」


嘘を見破れたその理由に、クルトは唖然とする。


どうやら、エリはクルトが思っていた以上にクルトに対して詳しかったようだ。


「......ごめん」


他に何を言えばいいのか分からず、消え入るような声で謝る。


「いきるためだから、しかたないです。だけど、それならひとりでせおいこもうとせず、ちゃんとわたしにもはなしてください。にいさんだけくるしむのはダメです。にいさんがくるしいときは、それをわたしもいっしょにせおいますから。このパンをぬすんだことも、これでふたりのつみです」


そう言うと、エリは食べ掛けのパンの欠片を手に持ちながら、心の染み入るような優しい笑顔をクルトに向ける。


感情を表に出すことの少ないエリがこのように微笑むのは、エリにとってクルトがそれだけ親しく、大切な存在であることの表れなのだろう。


その気持ちが、その優しさが嬉しくて、クルトの目が涙にぬれる。


「うん......うん。分かった。ありがとう」


気付けば、今度は愛想ではなく、心の底から出た純粋な笑顔を表情に出していた。


それにエリも満足そうな笑顔で答える。


少しの間そうしていると、突然エリが何かを閃いたかのように手に拳をポンと打ち鳴らす。


「ねえ、にいさん。いつかふたりでいっしょに――」


                  ◇


結局あの後、エリが何を言ったのか、今でも思い出せない。


「......借金をするか、大金を貰えるって最近噂の人体実験を僕が受ければ、明日の昼までに二十五万ゼルは用意できる。だから、大丈夫だ」


決意を言葉に乗せる。


記憶の回想から戻り、どれくらい時間がたったのか思案するが、窓から差し込む光の濃さで、日が傾いてゆくのが分かった。


何気なくフェリの姿を探すと、窓越しに舞い込んでくる風の中で踊っている花と、フェリが稚く戯れている。


風に舞う蝶のような羽をヒラヒラとはためかせている姿をぼんやりと眺めていると、視線に気付いたフェリが、咲いた花のように華やかな微笑みをクルトに向ける。


「フェ――」


ふとその名前を呼ぼうとして、思い止める。


その三文字の名前を最後まで言い切らなかった理由は、同じ部屋にいるフェリとエリに対する後ろめたさから来ていた。


同じ銀髪と、同じ色の瞳。


そのエリと似ている容姿から、名前も似せることで、フにエリの姿を重ね、エリの代わりにクルトの孤独を癒す存在として扱ってしまっているからだった。


昔から変わっていない自分の心の弱さが情けない。


心に影が住みついたように、暗澹あんたんとした気持ちになる。


胸の中がちくちくと刺されるような痛みを感じながらも、その感情の出口にふたをする。


「......そろそろ帰ろうか」


フェリに言い、握っていたエリの手を放し、椅子から立つと、クルトは病室の出口へと向かい扉を開ける。


「――また明日」


そう言ってクルトは扉を閉め、エリの病室を後にした。


                  ◇


病院を出た後、クルトは普段寝所にしている場所への帰路を辿っていた。


点々として赤くきらめくガス灯が、道の両側を飾っている。


空を仰ぎ見ると、夕焼けに染まる空は、穏やかな薄い紫に滲み出るような僅かの金色を湛えていた。


道行く人々の中には、楽し気に笑い合う子供達や、仲睦まじく手を繋ぐ親子の姿が見える。


そんな光景に物寂しさを感じ、聞こえてくる喧噪の中に耳を傾けていると、興味のある話題が聞こえ、意識を向ける。


「今まで何度も同じことをしてるっていうのに、商人たちがまた飽きずに妖精国エデンに出向いて殺されたらしい。なんでも、妖精種は精霊術とかいう奇妙な術を使うみたいで、武装して行っても交渉の暇なく返り討ちなんだと」


「馬鹿な野郎どもだ。そりゃ連中にとっては妖精国なんて宝の山なんだろうが、妖精国に入ろうとする人間の末路を知らないわけでもないだろうに」


妖精国。


クルトの生活している都市、ここマリエナからは遠方に位置している、知性を持つ妖精の種族が生活し、仕切る国。


人類との関係は良好とは言えず、二百年前に不可侵条約を締結してからは、互いに国同士での大きな動きはない。


とはいえ時が過ぎ、当時の人間が一人もいなくなった今、妖精国から出る事のない妖精種の実態や姿は記録にしか残っておらず、ここ数年、好奇心や欲の湧いた人間が密入国を試みるが、一様に屍となって帰ってくる事態が続いている。


妖精種には羽が生えていると知った時は、まさかフェリがそうなのではないかと思ったものだが、記録に残っているということは、妖精種はクルト以外の人間にも視認が可能ということなので、クルト以外に誰も姿を見る事の出来ないフェリは、それとはまた違う存在なのだと認識した。


だが、何にせよ、今のクルトとは縁遠い話しだ。


話しに耳を傾けたのは、ほんの息抜きのようなもの。


ゆっくりと深呼吸をすると、今直面している危機について頭を巡らせる。


明日の昼までに二十五万ゼルを用意する方法。


頭の中では、既に一つの案が出ていた。


明日の朝に、面倒な手続きの必要がない闇金を借り、昼までに医療費を払う。


その後は、大金が貰えると噂の人体実験を受け、それで得た金で借金を返済する。


どこに行けばその人体実験が受けられるのかは、聞いた噂で大まかな位置は知っているので、その区画で詳しく情報収集をすれば、辿り着くことは出来るだろう。


危ない橋を渡ることになるが、考える限りではこれ以外の方法はなく、幾ら頭を捻っても、思考が行き止まりにぶつかるだけだった。


「......」


だが、その冷静な思考とは裏腹に、瞳は怯えで揺れている。


理性より先に、体が恐怖をさとっている。


希望があると分かっていても、人体実験という言葉で連想される状態からの、逃げ場を求めずにはいられなかった。


そのせいか一瞬、全てが解決できる一つの方法が脳裏をよぎるが、その内容に、それを思いついた自分に嫌悪感を覚え、その案を振り捨てる。


しばらく様々な想像をして、恐怖に晒されきった子羊のように立ち竦んでいると、動揺で視点が定まらない中、偶然向いた瞳の方向、雑踏を行き交う人の群れの中で、珍しい物が目に入る。


全身を生命力の揺れのような、鮮やかな青白い光で覆われた女性が、そこにはいた。


稀に、一か月に一回程度の頻度で、このように稀有な人を見かける。


前の仕事場で働いていた頃、客としてやってきた人物に同じように光を纏う人物がいたので、店主に聞いてみたところ。


「あの客の体の周りが光ってる?何を言ってるんだ。まさかお前、薬物とかやってないだろうな」


という反応だった。


当然だが薬物などやっていないし、そんなものを買う金も無い。


つまり、クルトに見えて、他に見えないということになる。


ではそれは一体何なのかと疑問には思うが、人見知りの傾向があるクルトが初対面の人物に話しかけにいく度胸もなく、結局一人で考えた結果、体の周囲の光だけだが、クルト以外には見えないという共通点から、フェリと似たような何かなのではないかという推測に至り、そこで思案を打ち切った。


疑問の答えが出たわけではないが、それは妖精病や、フェリの存在とて同じことだ。


クルトの人生は、考えても分からないことで埋め尽くされている。


幼い頃はその全てに答えを見出そうとしていたが、その行為に意味など無く、増え続ける虚無的な疲れに気付いた時から、クルトの心は光りを失った。


たった一つ、エリ以外のことは、何も考えずに目を背けていれば、気重かった心が妙に軽くなった。


自分の気持ちに蓋をするのは、とても楽だった。


だから、今回も同じだ。


心に残る思いを、引き離す。


体が光る人間も、どうでもいい。


人体実験に感じる恐怖も、関係ない。


エリさえ無事でいれば、それ以外はどうなってもいい。


そこにエリの身の危険が伴わない限り、運命の流れるままに、この身を任せる。


そう、クルトは自分に言い聞かせる。


再び歩き出したクルトの目に、先程まで僅かに灯っていた輝きは感じられず、そこには生気の見出せない、濁った瞳だけが宿っていた。


そんなクルトの姿を、フェリは普段の優しい笑顔ではなく、ひどく神妙な顔つきで見つめていた。


                  ◇


マリエナの郊外に位置する貧民スラム街。


荒廃した通りと、その周囲には今にも崩れそうな壊れかけの家が所狭しと立ち並んでいる。


時折顔を覗かせる住人たちの身なりは、汗や皮脂が染み付いて奇妙な色合いに変化した上着や、埃と脂の交じった薄黒い汚れを顔に付けていながら、形振りに構わないでいるところは、聞くまでもなく貧乏人だ。


クルトは仕事をしていた為、手元に残った少ない金で、失礼のないよう身なりに最低限の手入れはしているが、それでもその容姿と服装は、貧民街の人間からすれば、明確な隔たりのある人間だった。


そんな住民たちの羨望と嫉妬の交じった視線を受けながら、整備されていない土の道をしばらく歩いていると、マッチ箱のような外観の、クルトが寝所にしているうらぶれた小屋の前に付く。


錆び付いた鉄張りの扉のノブを回すと、何かに引っ掛かるように、がた、がた、とぎこちなく開いた。


中に入ると、後ろ手でドアを閉める。


小屋の中は薄暗い。


窓から忍び込んでくる仄かな明かりだけが、室内を照らしていた。


そのぼやけた光の中で、浮き上がっている段ボールの輪郭を見つけると、その上に体を投げ出すように横たわる。


「おやすみ」


目を閉じて、フェリに言う。


そうしていると、次第に頭の中が鉛か泥が詰まったようにぼんやりし始める。


気付かない内に蓄積されていた精神の疲労が、全身を薄雲のように包む。


そのまましばらく、明日のことや、次の仕事先のことなどを朧気に考えていると、思考はゆっくりとまどろんでいき、クルトは深い眠りに包み込まれた。


                  ◇


三年ほど前から、眠るといつも夢を見るようになった。


暗闇だった世界に光が、希望のように差すみたいな、そんな夢。


具体的にどういうものかは、思い出せない。


ただぼんやりと残っているのは、しばらく光が差し込んでいると、突然黒雲が覆ったみたいに遮られて、再び目の前が真っ暗になって目を覚ます。


そんな印象の、まるで蜃気楼のようにつかみ所がない、曖昧な記憶。


だけど、それは自分にとって、どこかとても大切なもののように思えた。


                  ◇


温かくやわらかい、心地良い泥のような空間で揺蕩っていると、突然、体の肉を何か硬いもので挟まれているような痛みを感じて、意識が覚醒する。


目を開けると、そこには夜の漆黒を抱え込んだ、暗い路地が広がっていた。


肌を刺すような空気の冷たさが、夜の闇に満ちている。


目の前には、一人の男が立っていた。


燃えるような赤髪に、獣のような鋭い光りを含んだ眼。


その男の心臓には、が、深々と突き刺さっていた。


その男が、クルトの右腕に噛みついており、態勢が崩れて男の口がクルトの右腕を離れると、その皮膚には狼の歯形のような痕が残った。


男の傷口から溢れる血が、水面に毛糸を浮かべたように服の上を線になって走り、石畳に血が流れだしていた。


むせるような血の臭いが、周囲に立ち込める。


「――え?」


唐突過ぎる事態に、状況が飲み込めない。


血色の失せていく青い皮膚が、男の命の灯りが糸のようにか細いことを、その身を以て示すが、それでも尚、男は凄みのある目でクルトを睨む。


その男の目に瞳の反射で映るクルトは、片目の瞳がに染まり、近くの皮膚には、透いて見える血管のようなものが走っていた。


「ひっ」


怯えが意味をなさない声となって、口から零れ出る。


男の気迫と、その瞳に映る自分の姿に、思わず一歩後退る。


その後退で体が下がったことにより、男の心臓に刺さっていたナイフが抜け、人の温かな肉が切り裂かれる感触が手に伝わり、血濡れた刃が姿を現す。


男は呻き声を上げると、膝から崩れ落ち、そのまま力なく倒れ伏す。


倒れた男の傷口から血が帯のように流れ、乾いた石畳の上を鮮血が生き物のように、一定の粘土を持って進み、広がる。


溢れ出した血液で出来上がった血の海は、路地裏の建物の影に隠れて、濁った水溜りのようだった。


「な、なに、これ......ぼ、僕......え、え?」


収拾の見込みのない思考の糸が複雑に絡み合い、クルトの気持ちを錯綜させる。


目の前に広がっている光景が、眠りに落ちる前までの世界と連続しているとは思えなくて、悪い夢にでも迷い込んだようだった。

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