サボるという選択肢を消さないで

うたた寝

第1話



 朝になり、セットしていたアラームが鳴る。アラームのセットは要らなかったかもしれない。アラームが鳴る前から目は覚めている。だけど、私はアラームを止めようとも、体を起こそうともしない。しばらくアラームだけが鳴り続ける。いつまでも鳴っているとお隣さんに迷惑かと思い、アラームはやがて止めたが、体はまだ起こさない。

 朝、体を起こせなくなってきていた。不自然なほどに体に力が入らない。昨日何時に寝たのかも曖昧で、眠れたのかも定かではないから、ひょっとしたら眠いのかもしれない。頭がぼーっとしていて、思考がロクに動かない。

 起きれない体を無理やり起こすといつも通り突然の吐き気がやってくる。朝起きて、トイレに駆け込んで、一度戻す。そんな日常とは思えない風景が私の日常になってきていた。

 就職した際にはどこか明るい社会人としての未来を描いていたような気もするが、そんな未来はどこへ行ってしまったのか。元々無かったのかもしれないし、私が知らない間に手放してしまったのかもしれない。

 毎日毎日、上司から大量の仕事を振られる。終電まで残業、どころか、終電で帰れれば早い方だ、と思ってしまうほどに感覚が麻痺し始めていた。土日も関係なく働かされ、入社してからいつ休みだったかも記憶があやふやになってきていた。私が女ということもあってなのか、目の敵にされているような気さえする。

 他の会社はもっと酷い。それが上司の口癖だった。嘘だとは思う。だけど、他の会社で働いた経験の無い新社会人にはその言葉の真偽を確かめる術が無い。たまにネットの動画にブラック企業で働いている人の日常が上がっていたりもするから、世の中には思っている以上にブラック企業が多いのかもしれない。

 まだマシな方なのかもしれない。そう自分に言い聞かせることで会社を辞めずに働き続ける自分を演出していた。初めの頃は、毎日泣いたり、行きたくないと思っていたものだが、慣れというのは怖いもので、その手の感情をいつの間にか感じなくなってきていた。

 出社前に寝癖を直したり、慣れない化粧をしたりしていたものだが、それもいつの間にか止めてしまった。社会人として身だしなみを整えるのは当然の義務だとするならば、私は社会人失格なのかもしれない。失格となることで社会からフェードアウトされ、働かなくて済むようになるのであれば、それもいいかもしれない。

 ボサボサの髪に、ボロボロの肌に、嘔吐した際に溢れたか、口の端から垂れている涎。そんな情けない自分の姿が洗面台の鏡に映る。

 これが、今の私か……。

 自虐気味に言った社会人失格という言葉が否定できそうに無かった。



 私は電車に乗っていた。家からどうやって歩いて来たのかも覚えていない。気付いたら乗っていた、という感じだった。体が会社までの道を覚えていて、無意識で動いていたのかもしれない。

 電車を降りた後、人波の中で立ち止まる。人波に逆らうように立ち止まる私を邪魔くさそうに避けていく人も居れば、ワザとぶつかっていく人も居れば、聞こえよがしに文句を言っていく人も居る。

 そうやって人波が去っていった後、私は初めて、自分が立ち止まっていたことに気付いた。あれ? と思って視線を下げると、何かが地面を濡らした。雨? と思って空を見てみるが晴れている。そこでようやく、地面を濡らしたのが自分の涙だということに気付いた。

 自分の意志とは無関係に震える膝。何かに怯えているのかもしれない。怯えるものがあるとすれば一つだ。会社に行きたくないという想いがついに露骨に態度になって現れたのだろう。泣いたことにさえ気付かずに零れ落ちた涙といい、もういい加減限界なのかもしれない。

 けど、会社に行かない、そんな選択肢が頭に浮かばなかった。選択肢に無いから選べなかった。行くしかない、そう思い込んでいた。

 行かなきゃ、そう思い嫌がる足を無理やり一歩前へと踏み出そうとした時、それを止めるように肩を掴まれた。

 えっ? と思い振り返ると、


「サボるよ」


 急に現れたその人は、私にそう言った。



 突然現れた変な男は私の袖を掴むと、会社側とは反対側の改札へと降りようとする。突然のことに放心状態だった私はロクに抵抗もできなかったが、改札に止められて慌てて定期を当てる。あっ、改札出なければ良かった、と後になって気付いたが、出てしまったものは仕方ない。私はとにかく男の手を振り払おうとする。

「ちょっ、ちょっと! どこに連れていくんですかっ!? 止めてっ! はっ、離してっ!!」

 大声を上げた私に対し、周囲の人たちは不思議そうな視線を向けるだけで助けてくれる気配は無い。痴話喧嘩、とでも思っているのかもしれない。

 痛みを感じないからそれほど強い力で握られているわけでもないだろうに、私が腕を振り回しても私の袖を掴んでいる男の手は外れなかった。

「どこに? どこに、か……。言われてみれば考えてなかったな。うーん、どこ行きたい?」

「はぁっ!?」

 あんたとなんかどこにも行きたくないわ、と思い腕を振り払おうとするが振り払えない。何なんだこの男の手は。腕を振り回しても男の手が解けないので、掴まれていない方の手を使って男の手を剥がそうとしたが、それでも剥がれない。私の腕と男の手の接地面に指を滑り込ませようとするのだが、隙間が見当たらず指が入って行かない。

 私の、この腕を解く格闘をまったく意にも介していないらしく、男はきょとんと聞いてくる。

「何? 行きたいところ無いの? あるでしょう? 一つや二つ」

「別にっ、無いですよっ!!」

 別に男の質問なんて無視しても良かったのだが、苛立ちもあって怒鳴り返したところ、男はニコッと笑い、


「会社に行きたい、とは言わないのね」


「………………」

 痛いところを突かれたような気がして、私は抵抗を止めて固まっていた。会社に行くのを邪魔されているわけだから、会社に行きたい、と答えるのがある意味では正しいのだろう。行きたいとは思っていない、というのを認めたようなものだった。

 だけど、それはそうだろう。会社は行きたいところなんかではない。行かなければいけないところなのだから。

「まーそりゃ会社なんか行きたくないよねー。働かないで食べていけるならそれが一番だー」

 何かダメ人間代表みたいなことを言っているが、それを考えたことが無いわけではない。理想論を言えば確かにそうだろう。働くのが好き、社会に貢献したい、という人も居るだろうが、私はそういうタイプではない。宝くじでも当たれば会社なんてすぐにでも辞めると思う。

「何でそんな行きたくもない会社に行くの?」

「……そうしないと生きていけないからですよ」

 生きていくためにはお金が必要で、お金を貰うためには働く必要がある。行きたくない会社にだって行かなければいけない。そういうものだ。

「そうかな?」

 当たり前だろ、と私は言い返そうとしたが、

「そんな泣いてまで行く価値のあるような場所じゃないと思うけどなぁ~」

 ズキ……ッ、と胸が痛んだ。その言葉は多分、内心ではどこかで言ってほしいと願っていた言葉だったのだろう。自分の中で泣いてまで行こうとする、自分を奮い立たせていた何かが揺らぐような気がした。

「……そりゃ貴方は他人事だからでしょ」

 論点がズレたのは自分でも分かった。だけど、男の言葉を否定する言葉も見つからず、肯定するのも嫌だった。それに間違ったことを言ったとも思っていない。私が会社に行かなくてお金が貰えなくても、この男は何も困らない。だから無責任に色んなことが言える。その結果は自分に返ってこず、責任も取らなくていいから。

「そうだね。他人事だ。うん。確かにね」

 拍子抜けするくらいあっさりと、男は『他人事』ということを認めた。認めた上で言葉を続けた。

「その他人を、もうちょっとちゃんと見た方がいいんじゃないの?」

「………………はっ?」

「キミは生きるために泣いてまで会社に行く必要があるってそう言った。けど、周り見てみ?」

 何故だか、その言葉に素直に従って、私は周りを見てみる。ランドセルを背負った男の子も居れば、ベビーカーを引いているお母さんも居れば、同じ会社員らしくスーツを着ている男性も居る。


「み~んな生きてるけど、み~んな泣いてるわけじゃなくない?」


 パリン……ッ、と何かが一枚割れたような気がした。何が割れたのかは分からない。そもそも割れたのかも分からない。ただ分かるのは、みんなが泣いて生きているわけではない。そんな当たり前のことに今の今まで気付いていなかった自分に呆然とした。

 街行く人の数だけ人生があって、それぞれが人生のお手本になる。泣かないでも生きている人生が目の前に数多く広がっていた。

 私も……、そうなれるのだろうか……?

「よーし、とりあえず何か食べに行こうぜ。いい店知ってるんだぁ~」

 そう言ってグイグイ私の手を引っ張ってどこかへと連れて行こうとする。相手の手を解けないものだから付いていくしかない。手を振り解こうとする気力など、萎えてしまっていた。

「ちゃんと食べてる顔してないぞー」

 余計なお世話だ、とは思ったが、ふと思い返してみる。そういえば、ちゃんとご飯を食べたのはいつだったろうか? 昨日何食べたっけ? というか、そもそも食べたっけ?

「ちゃんと寝て、ちゃんと食べれば、ちゃんと動くように人間はできているのだ」

「単純な……」

 せめてもの抵抗として私は手を引いていく男に文句を言ったが、

「僕が単純なのではなく、人間が単純にできてるんだ。逆に言えば、そんな単純なことができなくなっている時は相当ヤバいんだ」

「………………」

 寝た記憶も食べた記憶もおぼろげな私はそれ以上の文句は言えず、素直に手を引いていく男について行った。



 連れて来られたのはずいぶんと年季の入っていそうな喫茶店であった。

 朝早くに着て、そのままずっと会社に缶詰。そしてそのまま次の日になって、終電で帰って、みたいな日常を送っていたから、近くにこんな喫茶店があったなんて知らなかった。

 興味深げに店内を見渡していると、胸ポケットが振動した。胸への不意な振動も心臓に悪いが、振動の原因も心臓に悪い。

 胸ポケットから取り出したのは会社から支給されている携帯電話。時計を見てもまだ一応求人票に記載されている出勤時間にはまだ大分早いが、いつもであれば出社している時間だ。これくらいの時間には出社していないと怒鳴られる。

 どうしよう……、と私が青ざめて携帯を見つめていると、男が私の手から携帯をかっさらい、

「こんな物ポーイッ!」

「あぁっ、ちょっ、なんてことするんですかっ!?」

 信じられないこのジジィ。携帯をゴミ箱へと放り投げやがった。私は慌ててゴミ箱を漁って携帯を救出しようとする。

「ゴミ箱なんか漁らなくてもちゃんと出来立てのご飯出てくるよ?」

「残飯漁ってるわけじゃないわっ!!」

 無事ゴミ箱から携帯を救出できたが、少し遅かったらしい。通話が切れている。1コールで出ないだけでもうるさいのに、出なかったともなると後が怖い。

「いいじゃんか。キミが出社しなくたって会社は潰れないし、いつも通り営業するよ」

「……嫌味ですか? それは」

「ん? 何で嫌味に聞こえるのさ?」

「居ても居なくても一緒だと、そう言われた気がしました」

「そう言ったよ」

「じゃあやっぱ嫌味じゃないですか」

「違うって。キミの代わりなんていくらでも居るってことだよ。……あ、いい意味でね」

 私が睨んだせいか、語弊があると判断したのか、男は申し訳程度に言葉を付け加えた。

「その言葉のどこにいい要素があるんですか?」

「いいことだよ? 代えの居ない人なんてしんどいぞー。迂闊に会社を休めもしないし、辞めれもしない。常に誰かに必要とされ続けるなんて疲れてしょうがない」

「ネガティブにポジティブですね……」

 代えが居る、という言葉をそう受け取るのか。ものは言いようとはよく言ったものだ。代えが効かずに頼られ続ける人生。結局は無い物ねだりなのかもしれない。私がなったことが無いからそういう人生に憧れるだけ。実際にそうなってみれば、今度は代えの効く人生に憧れるのかもしれない。だけど、

「だとすると、私が生きている意味って何なんですかね……」

 代えが効く、ということは、必要とされていない、ということでもある。誰にでもできる仕事、そう言われてしまえばそうなのだろう。私が今日会社に居ない、ということに上司が怒ったとしても、それで多少なり業務が滞ったとしても、それは単純に私に振っていた仕事を私が消化しないせいだ。私にしかできない仕事だから、というわけではない。

 私にしかできない仕事。そんなものを追い求めていた時期があったような気がする。それが私がそこに居る意味だと思ってた。けど、結局私がやっていることは誰にでもできることで、代わりはいくらでも居る。そうなると、私が生きていることの意味が分からなくなる。

 そう思ったのだが、


「生きていることに意味があるんじゃないの?」


 パリン……ッ、とまた何かが割れたような気がした。さっきからこれは一体何が割れているのだろうか? ただの幻聴なのだろうか? それにしては妙にハッキリと聞こえるような気はする。

「『キミがやっている仕事』には代えが効くけど、『キミ自身』には代えが効かないよ。キミの人生はキミだけのもので、キミにしか歩めないものなんだから。だから、『代えの効くキミの仕事』じゃなくて、『代えの効かないキミ自身』を大事にするべきなんじゃないの?」

「………………」

 詭弁のようにも、どこか無責任のようにも聞こえる男の言葉だが、反論は出てこなかった。利己的、そう言ってしまうと聞こえが悪くにも聞こえるが、優先順位を間違っていただけ、そうとも取れる。

 私はいつ、自分を大事にしただろうか? いつから、大事にしなくなっただろうか?

 代えの効く私の仕事を失わないように、代えの効かない私を失おうとしていたのかもしれない。

「とりあえず何か食べなよ。おすすめはねー」

 注文を取りに来たマスターに向かって、私は男がメニューを指差すままに注文していた。

「以上でよろしいですか?」

 マスターからの確認に私は少し悩んだ後、

「あ、えっと、それを二人分でお願いします」

 男も食べるのだろう、と思い私は言葉を付け足したが、目の前の男は目を丸くしている。あれ? ひょっとして食べないの? と思いキャンセルしようかと思ったが、

「…………かしこまりました」

 キャンセルする前にマスターは厨房へと戻って行ってしまった。今なら作る前だからキャンセルもできたのだろうが、今何かちょっとマスターの返事に間があったような気がしてそっちに気を取られていたのと、

「僕食べないのにー」

「じゃあ注文時に言ってくださいっ!!」

 いけしゃあしゃあと付け足してきた男に文句を言っている間にマスターが調理を始めてしまったため、キャンセルは諦めるしかなかった。



「いっぱい食べるねー」

「貴方が食べないからでしょうがっ!!」

 注文した二人分の料理がテーブルに並び始めたが、この男、本当に口を付けようとしない。一口くらい食え、と促しもしたが、『いやいや、お気持ちだけー』と言って頑なに口を付けない。おかげで一人分でもそこそこ多い量を二人分食べることになった。これで太ったら恨んでやる。

 それはともかく、

「あっ、美味しい……」

「でしょ?」

 単純に料理が美味しい、というのもあるのだろうが、久しぶりに温かいご飯を食べた、というのも相まっているのだろう。食べる度に食べ物とは違う別の何かで体の中が満たされていくかのような感覚があった。男が言っていた、ちゃんと食べるのが大事、というのはあながち間違っていないのかもしれない。

 人間とは、思っている以上に単純な生き物なのかもしれない。美味しい料理を食べているだけで、幸せに満たされているような気さえするのだから。

 そんな私の気持ちに水を差すように、テーブルに置いていた携帯が鳴った。上司からだろう。私は携帯を取ろうとしたが、

「食事中に携帯を弄らない」

 正論、と言えば正論のような……、という微妙なラインの男の言葉に手が止まる。仕事をサボっておいて食事中、というのも図々しいような気はするが、悩んでいる間に着信が止んでしまった。度重なる着信無視。後が怖いな。

 ただでさえ憂鬱な出社がさらに憂鬱になった、と私が頭を抱えていると、

「辞めようと思ったことはないの?」

 男が素朴な質問をしてきた。出社するのが嫌で泣いているくらいなのだ。自然な質問かもしれない。辞めよう……、か。

「思ったことあった……気はしますね」

「今は思ってないの?」

「他所の会社はもっと酷い、って言われて、それで辞めるのが怖くなった……ような」

 思えば最初の頃は転職サイトなどを見ていたような気もする。けど、今の会社で通用していない自分が他所の会社に転職しても平気なものなのか、より環境が悪くなるんじゃないかと思い、具体的な行動には出れなかった。もっと力を付けたら、そんな風に考えてずっと後回しにしてきたような気がする。

「なるほど、上司に脅されたってことね」

「脅されたん……ですかね?」

「そりゃそうでしょ。一つの会社に長く働いているってことは、それだけ他の会社で働いたことないってことなんだから。他所の労働環境なんて知ってるわけなくない? 知り合いが働いている、とかはあったとしても、精々2,3社でしょ? 会社って何社あると思う? 友達100人居たとしても、全然分母の方が多いと思うけど」

 それは……、その通りかもしれない。自分より長く社会人をやっている人間だから、何となく自分よりも社会の仕組みに詳しいものだと思っていたが、当たりの話、自分が働いてもいない会社の労働環境など知っているわけもない。仮にある程度人脈があって知っていたとしても、知らない企業の数の方が圧倒的に多いだろう。

「辞めちゃえば? ……なんて言うと、また他人事のくせにって怒られちゃうから言わないけど」

 私がそう言おうと口を開いたせいか、最初から言うつもりだったのか、男は言葉を付け足してから、

「でも、キミのその『辞めたい』という想いは無視しないで大事にしてあげてほしい、とは思うけどね」

「……自分を大事にってやつですか?」

「そうそう」

「それなら会社をサボってもいいと?」

 私が冗談めかして言うと、男は笑ってから、

「もちろん、無暗にサボることを推奨はしないさ。褒められる行為ではないだろうからね。けど、死ぬくらいであれば、一日くらいサボった方がいいとは思うけどね」

「死って……」

 急に出た『死』という言葉にドキリとして、私の胸の鼓動が早まった。冗談でしょ、と笑い飛ばしたくて、私は笑顔を浮かべようとしたが、

「オーバーな、って思えてるうちは、キミはまだ大丈夫かもね」

 私が言おうとした言葉を、男は先んじて補足した。

「過酷な労働環境でさ、自殺しちゃう人って居て。そういうニュースが流れると、決まって『死ぬくらいなら会社を辞めればいいのに』って言う人が居る。うん。正しいと思うよ。死んでまで行くような所じゃないと思う。けど、同時に分かってないとも思う。まぁ、こればっかりは経験者じゃなければ分からないかもね」

 私には、少し分かるような気がした。入社直後は毎日考えていたハズの『辞めたい』って感情がいつの間にか薄れていくような感覚。慣れとも言えるし、麻痺とも言えるあの感覚。覚えがあるような気がする。

「辞めればいい、そんな当たり前の考えが頭を過らないくらいに、もう追い込まれてるんだ。頭に浮かぶのは二択だけ。このまま一生この地獄で働き続けるのか、死んでラクになるか。その二択しか選べなくなっていくんだ。そして、地獄で働き続けるうちに、どんどんどんどんラクになりたい、そこから逃げ出したいって感情が強くなっていって、最後は……」

 それも、分かるような気がした。『辞める』という選択肢が取り上げられて選べなくなると、もう耐えるしかない。それが一生続く。そんな風な考えになってしまった時、そこから逃げられるもう一つの選択肢は魅力的に映り始める。

「死ぬくらいならサボった方がいいさ。たまには立ち止まったっていいじゃない。ずっと歩き続けるなんて疲れちゃうよ。たまには公園のベンチにでも座ってさ、ボーっと空でも眺めてみれば、何で死のうなんて思ってたんだろうってきっと思えるさ。死んじゃった人も、きっと、何であんなことで死んじゃったんだろうって後悔してるんじゃないかな。……ああ、これは勝手な僕の想像だけどね」

 男はそう言って笑ってから私の方を見た。

「だから、『辞めたい』ってちゃんと思えてるうちに、一回ちゃんとその気持ちと向き合ってみてあげてほしいんだ。向かい合った結論として今の会社に居続けるって言うなら、それはそれでいいさ」

「……何でそんな話を、私に?」

 何となく理由は分かっていたが、男の口から聞いてみたいと思って、あえて聞いてみた。

「何かキミを見ていると、そう遠くない未来、その選択を選びそうに見えちゃってね。誤解だったらごめんね。ただのお節介だったかもしれない」

「………………」

 否定は、できなかった。

『辞める』という選択肢はほとんど消えかけていた。もう一つの選択肢こそまだしっかりとは見えていなかったが、薄っすらと見え始めていたのかもしれない。そして、もしその選択肢が見えてしまった時、私は、その選択肢を選ばなかった、と言えるだろうか?

 パリン……ッ、とまた何かが割れた。これは気のせいなんかではなかった。割れる度に胸が軽くなっていくような、この感覚。きっと、私が胸の奥底に無理やり閉じ込めようとしていた何かが、入れ物を壊して外に出ようとしている音だったのだろう。

 今になって、他人事であるハズのこの人の言葉が妙にすんなり胸に入って来る理由が分かった気がする。この人にとって私のことは他人事ではあるが、私にとってこの人は理解者でもあったのだろう。私のことを理解できる、ということは、この人もきっと……。

「………………遊園地」

「うん?」

「どこか行きたいところないのか、って聞きましたよね? 遊園地に行きたいです。社会人になったらお金もあっていっぱい行けると思ってましたけど、結局社会人になってから一度も行けてないので」

「それはそれは」

 行こう、と言ってくれるものかと思っていたが、意地悪なのか鈍感なのか言ってくれなかったので、

「……付き合って、くれますか?」

 私が聞くと、彼は笑って答えた。

「もちろん。喜んでお付き合いしますよ、お姫様」



 喫茶店近くの公園のベンチで膝に肘を置いて顔を覆っている、ぱっと見リストラされたサラリーマンかのようにぐったりとしている男が一人。その横で彼女は腰に手を当て呆れたように立っている。

「だらしないですねー」

 頭に降ってきた言葉に彼は文句を言う。

「あ、あんだけエンドレスで絶叫系ばっかり乗せられてたら具合の一つくらい悪くなるよ……」

「付き合うって言ったのは自分でしょー」

「………………」

 それを言われると返す言葉も無い彼は黙り込む。その姿を見て彼女は楽しそうに笑う。笑っていると、彼女の胸ポケットが今日何度目かの振動をした。しかし、彼女は出ようとはしない。

「……鳴ってるよ?」

 彼がいたずらっぽい顔で彼女に聞くと、彼女も同じような顔で彼に返した。

「こんな物ポーイッ、ですよ」

 彼と違ってゴミ箱へと投げ捨てるほど非常識ではないみたいだが、彼女は会社からの着信を無視した。彼の悪い影響を受けているようである。だが、その悪い影響のせいか、彼女には笑顔が増えたように思える。

 いや、増えた、のではなく、戻った、のか。

「では今日はこの辺で。また会いましょうね」

「うん、またねー」

 そう言って手は振りつつも、去っていく彼女の笑顔を見て彼は思った。もう会うことは無いだろうな、と。

 彼女を見送った後、未だ体調が戻らず、ぐったりとベンチに背中を預けていると、

「この辺に居るのかな?」

 喫茶店のマスターがベンチに向かって歩いて来た。いい勘してるな、と彼が思ったのも束の間、マスターが彼の座っている場所にそのまま腰を下ろそうとしてきた。訂正。全然勘良くない。彼は慌てて横へと避ける。

 彼が避けて空いたスペースに座ったマスターが、今度は缶コーヒーを彼の上に置こうとしてきたので、彼はもう少し横にずれてスペースを作る。ベンチに置かれた缶コーヒーはそのままにして、マスターがもう一本別の缶コーヒーを飲み始めたので、あ、これ僕のか、と察して缶コーヒーを受け取るフリをし、お礼を言うことにする。

「キミのことだ。きっとまたお節介を焼いているんだろうね」

 マスターの言葉に、やっぱりいい勘してるな、と彼はクスッと笑うと、

「……昔の自分を見ているようで、放っておけなくてね」

 何も掴んでいない手で、彼は缶コーヒーを飲む真似だけした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

サボるという選択肢を消さないで うたた寝 @utatanenap

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ