治部、動きます
天明三年七月八日巳の刻、浅間山でこれまでで最大の爆発が発生した。
第一報はその日の夕刻。そこから引切り無しに伝令が到着し、刻一刻と変わる現地の様子を伝えてきた。
その話によれば、予測通りというか史実と同じく、爆発によって崩壊した山肌の岩や土砂が雪崩をうって山の北側を下り、その経路上にあった鎌原という村をひと飲みにして流れ落ちていったらしい。
最初に噴火があったのがおよそ三ヶ月前の四月の初め頃。それから何度となく噴火を繰り返し、湧き出てきた溶岩などが多く堆積していたところへの爆発であるから、崩落した土砂の量は半端なものではなかったようだ。
そして麓を流れる吾妻川まで達すると、土砂雪崩は一時的に治まったが、これが結果として川の流れを堰き止めることとなってしまったためにほどなく決壊。土砂混じりの川の水が大規模な泥流となって流域の村々の田畑や家屋を襲い、それはやがて群馬郡の渋川宿で本流の利根川にまで入り込んできたという。
詳しい状況が伝わってきたのが翌九日の昼頃。とはいえそれが伝わるよりも早く、江戸でも異変が差し迫っていることが分かる事態が発生していた。
というのもこのとき既に、江戸川に泥流と共に大量の瓦礫、そして悲しいことだが、多くの遺体が流れ着いていたのだ。伝令によれば、泥流は利根川にまで流れ込んだとのことなので、増水した川の流れが流域の村や田畑を飲み込みながら利根川の本流、そして分流である江戸川を経て
「村の者たちは逃げ切れなんだか……」
「いえ、代官から各村の名主を通じて指示はされております。されど……」
「されど?」
「申し上げ
「そうか……」
伊奈殿は失態を挽回すべく、急ぎで触れを回したそうだが、村の者たちはまさかそんなことがあるかと半信半疑の者が多かったようだ。
それでも、目端の効く名主たちが取り仕切る村では全村避難とまではいかずとも、万が一のときのための山への避難経路だったり物資を確保していたそうだ。
先程、村全体が巻き込まれて全滅したという鎌原村もその一つ。異変があれば、村の中で最も高台にある観音堂に逃げようと決めていたそうで、雪崩が発生してすぐに多くの者がそこへ逃げ込んだおかげで、村の半数以上の者が命を落とさず済んだらしい。
しかし、何の対策も講じなかった川沿いの村の中には、泥流に飲まれて多くの者が亡くなった村もあるし、飛んできた噴石に当たって亡くなった者もいるという。
正直に言うと、これが呼びかけをしたおかげなのか判断がつかない。低めに見積もっても、鎌原村は三割四割の者が亡くなったわけで、史実での死者がどの程度出たかを詳しく知らないので、比較のしようが無いのだ。
もっとも、死者の数が減ったからといって、家屋や田畑の被害は大して変わっていないだろうから、喜ぶべき話ではない。
「治部、如何致す」
家基様が不安そうに聞いてきた。吾妻からの伝令のほか、川越藩前橋領や高崎藩あたりからも大きな被害が出ているという知らせが届いているから、上州全体に被害は及んでいるようだ。
そして未来知識が正しければ、この後被害は上州だけではなく日本全体に広がることになる。
「左様でございますな……」
考えることは多い。けれどもこうなることが分かっていたから、事後対応策は練ったつもりだ。復興に向けてそれを一つ一つ解決するしかないが、ここで大事なのは、それを国難であると多くの者に認識してもらうことだ。
「幕閣の皆様を集め、急ぎ評議の場を」
翌日、田沼公の声がかりで家治公に家基様、そして幕閣の主だった者たちが集められ、対応策を協議する場が設けられた。
「では主殿」
「はっ。されば既に聞き及んでいると思うが、浅間山で大きな爆発があった。これにより吾妻郡はもとより、前橋、高崎など上州各地から利根川の流域で大きな被害となっておる」
家治公に促され、田沼公が状況を説明する。
「だが、これで終わりというわけではない」
浅間山は八日の大爆発以降、未だに小さな噴火は何度か発生しているが、規模としてはかなり小さく、おそらくはこのまま落ち着いていくものと思われている。史実でもそうだったようなので、おそらく間違いはないだろう。
しかし、それに反して田沼公の口から発せられたのは、これは大災害の始まりでしかないという言葉であり、それを聞いている幕閣の面々は、どういうことだと訝しむ者も少なくない。
「御老中、噴火は治まりつつあると聞き及んでおりますが、一体これから何が起こると申されるのか」
「うむ。そのことについては藤枝治部から話してもらおう」
質問の声に呼応するように、家基様が俺に話を振ってきた。幕閣の面々からしたら、なんでおまえがここにいるんじゃい? という声も出てきそうだが、だからこそ田沼公ではなく家基様が俺の名を出したわけだ。
「されば、まず一つ目に、今年は凶作となりまする」
未だに空を覆う火山灰。これが長く空に留まることで陽の光が遮られて作物が成長せず、特に稲作は大打撃を受けることだろう。
「宝永年間の富士山の噴火でも、関東一円の田畑が降灰によって被害を受けたと記録にございますれば」
「稲穂は実らぬか」
「おそらくは」
「ならば急ぎ各地の米を江戸へ……」
「お待ちください。それはなりませぬ」
この状況であれば、米の値は間違いなく釣り上がる。そこで慌てて江戸に集積しようとすれば、何が起こるかという話だ。
「ただでさえ高値となっているものを江戸に集めれば、更に値は上がることになります」
「物が無いのだから致し方あるまい」
「私が危惧するのは、それが故に各藩が領内に残る米という米をかき集めて売り捌くのではないかということにございます。目先の高値に目がくらみ、冬を越すための食い扶持は今年の収穫で賄えばよいなどと考えては……」
「凶作が確かならば冬は越せぬな」
「御意」
俺の言葉に家治公が明確な答えを出した。今の回答を聞くに、普段の政治は田沼公にお任せだけど、それは自身で成す必要がないだけで、やろうと思えばそれくらいの才はあるんだなと思える。
まあ、上の人が正しい認識を持ってくれているのは非常に有り難い。
「では何といたす」
「されば、米の価格統制を行うこと。そして各藩にも高値での米の流通を禁じ、出来る限り藩士領民たちが食う物に困らぬよう備蓄をお命じいただきたく」
「商人どもが何と言うか」
「今は危急のとき。多少強引であっても御公儀の命として厳しく取り締まられたい。守らぬ者はお取り潰しでも結構」
「相分かった。他に何かあるか」
「第二でございますが、川底に溜まる泥を早急に掘り返さねばなりません」
今回の噴火で、関東一円に相当量の降灰があった。今でも空は陽の光を遮るばかりに灰色で覆われており、この後雨が降れば、それは泥となって地上に降り注ぐことになる。
「一昨日の泥流、さらに今後降り注ぐであろう泥雨、これらは全て川に流れ行きます。既に河床は高く積み上がっていることかと思いますので、長雨の季節になれば少しの雨でも川が再び氾濫する恐れが高いと考えます」
「なるほど、河床に泥が溜まれば水かさは自然と上がってしまうな。主殿、普請奉行に命じて早急に作業に取りかかるよう命じよ」
「御意」
「治部少輔、一つ聞いて良いか」
「何なりと」
こうして田沼公から取次に次々と指示が出される中、同じく老中の職にある下総関宿藩主の久世大和守広明殿が質問があるという。
「江戸の米は足りるのか」
「凶作の程度がはっきりとしませんが、おそらくは足りないかもしれませぬ」
「足りぬと分かっていて運び込まぬのは何故か」
「私が広めました甘藷は、特にこのような折でも変わらぬ収穫がございますれば、食うに困らぬくらいの量は確保できますし、他にも麦も粟も稗もございます。米に拘らなければいくらでも食う物はございます。されどそれを育てる百姓が飢え死にしてしまえば、来年、再来年の米を育てる者がいなくなってしまいます。江戸の町だけ助かれば良いという話にはなりませぬ」
「お主はこれを見越して甘藷の栽培を奨励したのか」
「いずれ再び飢饉が起こるとは考えておりました。さすがにこのような形で起こるとは想定しておりませなんだが」
まあ方便というやつだ。ここで「うん、知ってた」と言えば面倒なことになるのは明白なので、いつも通りの対応なんだが、いつも通り過ぎて、自分でもビックリするくらいスラスラと嘘八百が口から出てくるな。
なんとなく久世様の言い方が疑っているような感じだったので、余計にそう感じたのかもしれないが、江戸の米が足りなくなるという懸念については同意だ。だからと言って各地から運ばせるのは愚策でしかない。
それに対する策は……
「大和守様が仰せのように、米が足りぬことで江戸の町民が騒ぎ立てる懸念はございます」
「そうであろうな」
「その一番の要因は、江戸の民が外のことを知らぬが故。江戸に米を運べる状況ではないと知らしめるのが効果的かと」
「それをどのようにして成すのか」
「されば……吾妻郡の復旧、この治部少輔にお命じください」
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