大災害の幕開け

「なんと……御公儀の命をなんと心得ておられるのか」


 浅間山が噴火していたという情報に触れたのは、その規模がかなり大きくなってからとなった。


「伊奈が申すには、浅間山は古来より幾度となく噴火を繰り返す山にて、此度も同じだと考えて報告するに及ばずと考えたようだ」

「そういうことではないのに……」




 関東代官頭・伊奈家。豊臣秀吉によって徳川家が関東に移封された際、関東地方の領国支配を担当するために任命された代官頭のうちの一人、伊奈忠次の系譜である。


 ちなみにこの役職はそのとき四人が任命されたのだが、忠次殿を含めた三名が病死や失脚でその職から外れた後、最後に残った一人である大久保長安が権力を笠に私腹を肥やしたとかなんとかで、代官頭という役は老中や若年寄の支配下に入ってその裁量権をかなり縮小した形となり、以降は伊奈家のみがその職を受け継いでいる。


 とはいえ、関八州内にある幕府の直轄領は先の政変もあって、今や40万石ほどあり、この行政権・警察権などを統括する関東代官頭は、下手な大名より力があると考えていい存在だ。なので伊奈家は自身のことを「関東郡代」、つまり関東全体における代官なのだと自称している。


 そんなわけで、今回の調査は田沼公から麾下の関東代官頭を通して諸国に伝えられており、その情報は一端伊奈家に集まってから上層部に報告されるという形にしたため、信濃や上野あたりから何件か浅間山の話は上がっていたようだが、上まで伝わらなかったということだ。

 

 伊奈家の当代である忠尊ただたか殿は備中松山藩板倉家からの婿養子で、現在二十歳と俺より年下だ。彼自身の能力を否定する意図はないが、おそらく政務の多くは各地の代官を務める家臣たちが担っているのだと思われる。そして、その慣れが報告漏れを引き起こしたのだろう。


 ここ数十年は噴火らしい噴火は無かったものの、古くからの言い伝えであの山はしばしば噴火することがあると伝わっており、今回もすぐに治まるであろうと見過ごしたのかもしれない。


 だけどなあ……そういうことじゃなかったんだよ。普段と変わったことがあれば報告しろとしたのが良くなかったな。何のためにそれを知りたいのかというところの落とし込みが足りなかったのはこちらの落ち度だ……


 ああもう……今更ゴチャゴチャ喚いても時間は戻らん。切り替えていくしかないな。




「治部、今の状況をどう見る?」

「これは推測でしかございませんが、灰が江戸でも降り、幾度となく地震が起こっているのは、日に日に噴火の勢いが増しているからかと。一刻の猶予もございませぬ。山の周辺に住む者たちに逃げるよう触れを」

「山の周辺と申しても、上野から信濃にかけて村はいくつもある。全ての村に逃げよと申しても聞くかどうか分からんぞ」


 俺が避難指示を提言するも、田沼公はそれは難しいと仰せになる。


 分からなくは無い。この時代の農村の民は、土地と共に一生を生きていく存在なわけで、自身の家だったり先祖の墓だったりと守るべきものが多くある。それが一時的な避難だと言ったところで、帰れるかどうかも分からないのだから、逃げよと言うのは村を捨てろということと同義に思えるかもしれない。


「されば、現地の絵図はございますか」


 だが、状況を考えれば大噴火が起こるとすればここしかないはずだ。手をこまねいていては甚大な被害となる。であれば、未来知識をフル活用するしかないだろう。




「伝え聞くに、此度の噴火があったのはこのあたり。岩が吹き出せば、それは低き方へと流れ出てくるはず。地形を見るにそれは北側、上州吾妻郡に向かうと思われます」

「吾妻郡とな」

「ここの南は他に高き山もあります故、そちらへ流れる可能性は低いかと。されどこの北側は吾妻川の流れに沿って谷あいの地形が多うございますから、吹き出た岩などが山を下り川にまで達すれば、あとは川の水に混じり泥流となって流域の村々を襲うことになりましょう」


 俺がこの時代に転生して、どうして浅間山の噴火があることを知っていたかと言えば、前世でそれを展示する資料館に行ったことがあったからだ。


 あれは草津温泉や四万温泉など、いくつかの温泉を巡る旅に行ったときなんだが、どこかの町の資料館か何かで吾妻郡が泥流によって大被害を受けたという説明を見たんだよね。


 今思えば、詳しい日時までちゃんと記憶しておけばよかったと思っているが、そのときはまさか俺がこんなことになるなんて考えもしなかったからな。天明の浅間焼けという単語で、天明年間に噴火したんだなということを覚えていただけ褒めてもらいたい。


 だから、浅間山に異変ありと聞いた時点で、すぐにこの話をするつもりだったのだ。


 とはいえ、何の前触れもなくそれを言ったところで、何故そう考えたのか説明がつかないからこそ、各地の山の様子を探ってくれと頼んだのだ。違和感なく俺がその情報に接する機会を作り、それを基にこういう可能性があると皆に認識してもらうための方便だ。


 それが、まさか勝手な判断で情報がちゃんと上がってこなかったとは……情報伝達のミスとしては初歩中の初歩だ。


 しかし起こってしまったものは仕方ない。本当は多くある可能性の一つとして警戒してもらおうと考えていたが、悠長なことは言っていられないので、多少強引ではあるが可能性としてではなく、確実にこうなるという言い方をするしかない。


 どうしてそこまで先を見通せるのだと聞かれれば、それはこの藤枝治部の知恵によるものだと押し切るしかない。強引なのは否定しないが、結果が付いてくれば文句は無かろう。




「すぐにでも人を遣わし、吾妻の民を避難させねばなりませぬ」

「どこへ逃がすと申すか」

「差し当たっては、この吾妻川の流域から離れられれば。高崎、前橋、伊勢崎、館林などへ一時的に逃げ延びるも善し、遠くへ逃げることの叶わぬ老人や子供を多く抱えておるならば、近場の山などへ逃げる算段もするべきかと」

 

 現時点の山の様子は分からないが、その影響が江戸表にも及んでいる今、放っておけば富士山の宝永噴火以上の被害となる。そう告げると、家基様も腹を決めたようだ。


「主殿、急ぎ人を遣わし、吾妻郡の民に触れを回せ」

「ははっ、すぐに手配りいたしまするが、伊奈はどのようにいたしましょう」

「どのようにとは?」

「はっ、此度の失態は見過ごせるものではございませぬ」


 田沼公が言いたいことは良く分かる。公儀の命で受けたものを、勝手な判断で保留にし、結果必要な情報が幕閣に上がらなかったのだからな。処罰の対象となるだろう。


 ただ、今はそれをどうこうする時間は無い。


「御老中、今はそれを詮議する暇はございませぬ」

「不問にせよと申すか?」

「さにあらず。関東代官頭たる伊奈に働いてもらわねば、村々に触れを行き届かせるのも時間がかかります。今、伊奈殿を罰するは悪手かと」


 失態は間違いないから、後で責任を問われるのは仕方ないが、酌量の余地は与えるべきだろう。


「我らが動くは無論にございますが、此度の民への避難、伊奈殿に死ぬ気で働いていただきましょう」

「なるほど。その功をもって失態の代わりとさせるか」

「御意」


 伊奈殿は今頃大失態で青ざめていることだろうから、死ぬ気で功を挙げよと命じれば動くしかないだろう。


 こき使うと言うと言い方が良くないが、こき使われる理由を作ったのは自分たちだからな、それこそ馬車馬のように働いてもらいましょう。


「ではそちらは主殿に任せる。また勘定奉行には、併せて避難した民への救い米などの施しの手配をするよう伝えよ」

「然と承りました」


 こうして家基様や田沼公の差配により、吾妻郡の避難計画が急ぎ動き出した。


 それからは連日、早馬で上州の様子が伝えられ、やはりというか予想通り、浅間山の噴火は日に日に勢いを増し、爆発の頻度も増え、山頂近くは赤く燃え盛っているという。


「間に合えば良いのですが……」

「現地の者たちの働きを期待するしかあるまい。治部、我らは我らで出来る限りのことをするのみじゃ」

「御意」






――ドーン! ドドドドーン!!


「今の音は……」

「今までとは比べ物にならぬほどにて……」


 避難を指示してから十日ほど経ったある日、西の丸で家基様たちと善後策を協議していたとき、地鳴りと共に大きな爆発音が聞こえてきた。


 これまでも何度となく爆発音のようなものは江戸にまで届いていたが、今日のそれは今までとは比べ物にならぬ轟音であった。


「大きな被害が出ておらねばよいが……」


 しかしそんな願いも虚しく、午後には大量の火山灰が江戸にも降り注ぐのを見れば嫌な予感はさらに強くなり、そしてその日の夕刻に到着した上州から急使により、それは確実なものとなった。


 天明三年七月八日巳の刻10:00頃、浅間山でこれまでで最大の爆発が発生。


 遂に、最悪の事態が発生した……

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