商館長は極東の叡智を知る
〈前書き〉
引き続き、『 』はオランダ語です。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
『イギリスがこちらまで来ると?』
『一番の目的は新大陸での輸送路遮断でしょうが、アジアでオランダが持つ権益にも手を出す可能性は十分にあります』
『だが、既に戦争は始まっている。止められません』
『でしょうね』
既に交戦状態となっている以上、オランダ側から講和を持ち出せば、確実に足元は見られて何かを失う。しかも他の国が戦争を継続しているのに、単独講和は難しいだろう。
だが、オランダがイギリスを打ち破るというのは考えにくい。アメリカには独立されるかもしれないが、オランダとの戦争は別の話。実際にその陣容を目で見たわけではないが、歴史の知識を紐解けば、この時代で真っ向からイギリス海軍と戦える国があるかと言う話だ。
つまりオランダが打つ手は、如何に被害を減らすかにかかっているが、そうなればいずれアジア方面でもイギリス艦隊に拿捕されるオランダ商船……なんて画が目に浮かぶ。オランダ本国が海上封鎖されれば、遠くアジアまで援軍を送ることも叶わないだろう。
細かいところまで覚えていないが、この時代はインドでもオランダは権益を確保しているのに、それが後にインドネシアだけになったのは、イギリスに奪われたということ。そして独立戦争に絡んだこの一連の流れが、その一端であると考えて間違いはないだろう。
『その先は貴国の考えること故、私が多くは語れませんが、少なくとも我が国は貴国との友好をこれからも継続していきたいと考えております』
『そう言っていただけるとありがたい』
『だが、それも綻びが生じれば危うい』
船というものは自らの国籍を示すために国旗を掲げている。これはこの時代にあっても西洋では常識であり、当然長崎に入るオランダ船もオランダ東インド会社の旗を掲げている。
……のだが、そんなものはいくらでも偽装できるという話だ。
イギリスというと私掠船、つまり国王お墨付きの海賊船なイメージがある。
他の国でも私掠船は多くあるが、個人的にはエリザベス1世の時代のサー・フランシス・ドレイク提督の印象が強いのよね。
というわけで、海賊が正々堂々勝負なんてことはまずあり得ない。素人考えだが、どこかで入手したオランダ旗を掲げて入港し、港の奥深くまで入ってきてから本性を表す……なんて可能性もあるし、オランダ船を装って各地で海賊行為をするなんて話も否定できないよな。
もちろんこちらも防衛組織はあるけど、不意打ちを喰らえばどうなるか分からないし、長崎などの港を除けば、そもそも海の向こうから敵が攻めて来るなど考えもしていない藩も多い。仮にその攻撃が小規模のものでも、それが巡り巡って大きな騒動となる場合だってある。オランダだけの問題ではないのだ。
『もし事あらば、場合によっては貴国を含めて全ての異国船を締め出すなんて過激な意見も出るかもしれません』
『それは困りますな』
『ええ。ですから自助努力は必要でしょう』
この国には外洋で戦う艦隊は無い。だから渡航してくるオランダ船が襲われたとしてもどうにもしてやることは出来ず、自分の身は自分で守ってもらうしかない。
だが、この国に入ってくるオランダ船を保護するのは、この国、そして幕府の役割だ。
『暗号でも信号でも構いません。入港するオランダ船が、真に東インド会社の組織した船だと証明する手段を考え、それを我らが共有する形にすれば、それなりの臨検体制は取れるかと』
『ふむ、一理ありますね。だがフジーダさんはどうしてそこまで我々に助言なされるのか』
『新たな知識を得るのに、貴国の協力は不可欠ですから』
俺が何を言ったとしても、この先フランス革命の発生は防げないだろう。となれば、その混乱によって、後にオランダはナポレオンに占領される。没落不可避だな。
実際に、この後一時的に地図上からオランダという国が消滅し、世界の中で出島だけがオランダ国旗を掲げる唯一の場所となった時代もあると何かの本で見た記憶もあるからね。
だが史実では、幕府はそんなオランダを見捨てなかった。普通なら貿易の相手にもならない者を滞在させる必要は無いのだが、同情していた面もあるにせよ、日本とオランダの交流は続いた。そこに関しては、歴史をなぞる形で交流を継続すべきであろうと思う。
何でって、それは西洋の学問を導入するのに、オランダ人が来てくれなければ困るからだ。
もちろんイギリスやロシアといった国に交渉相手を変えることも出来るだろう。もしかしたらイギリスの方が、さらに最新の学問が手に入れられる可能性はある。
しかし、それ以上に新しい国と交流を始めるのはリスクが高い。正直に言って、俺が知るのは歴史の大まかな流れだけであり、ピンポイントでこの時代の各国が何を考え何を狙っているかなんてところまでは知らない。おそらく貿易相手として交流しようとはしているのだろうが、そこから発展して西洋の学問を教えてくれるかといえば分からない。
幕末、薩長にはイギリス、幕府にはフランスが肩入れし、武器やら船舶を提供していたようだが、あれだって各々が日本における影響力とか主導権といった目的があって加担していた話だし、大いに思惑あっての話だ。そう簡単にはいかないだろう。
だからこそのオランダなのだ。彼らも本質は英仏などと同じかもしれないが、西洋の動きが俺の知る歴史とほぼ同一であると言うことは、今のオランダにそこまでの力は無い。現時点で持つ権益をどれだけ維持するかで精一杯で、新たに植民地を切り取ることは出来ないはずだ。
となれば、その権益の一つである対日貿易は維持したいと考えるところだろう。相手の弱みに付け込む形になるが、今ならこちらが望むものを多く引き出せるのではないかと考える。
『たしかに長崎でも江戸でも、以前と比べて学者たちの来訪が多いと聞きます。それだけヨーロッパの学問に興味がおありなのでしょう。今回は幕府から羊の飼育と寒冷地での建築に関して照会がありましたし』
『私が頼んだんですけどね』
『推測するに、それは北方を開拓するためと考えてよろしいか』
『その通りです』
『ロシアにはどう向き合うご所存か』
当然そういう反応になるだろう。かつてフェイトさんからロシアの脅威を聞かされたことがあったが、あれも独占的な立場が脅かされることを危惧しての話だったと思うし、オランダ商館にこの依頼をかけたときから聡い人なら気づくだろうとは思っていた。
『ロシアと貿易を始めるというのならオススメはしませんぞ』
『北方開拓の意図は、我が国が我が国であるために必要なこと。ロシアとどう対するかはその先の話にて』
ロシアが北から近付いていることはフェイトさんから散々聞かされた。それは俺も承知していたからこそ蝦夷地探索を進言したわけだ。
ただ、それはロシアと関わりを持ちたいからではない。この土地は日本のものであるということをはっきりと示すためだ。向こうが本格的に乗り込んでくるよりも早くにね。
『蝦夷地を開拓するは、かの土地が我が国の領土であることを明確に示すための施策。ロシアに奪い取られ、我が国の権益が脅かされるようになっては、交易をする貴国にとってもよろしくない話でしょう』
『では交易の意思は無いと?』
『失礼ながらそれは分かりません』
無論あちらがそれで交易を求めてくるのならば、交渉するのはやぶさかではない。長い付き合いのオランダならともかく、知らない国と交流するとなると、恐らく幕府はいい顔をしないとは思うが、何が起こるかは分からないからな。
『貴国が貴国の利益のために動くように、我が国は我が国の益のために動く。利あらばこれを容れるだけのことです』
『それでは我らの立場がない』
『そのためにも我らに色々な知識を授けていただきたい』
『なるほど。それをもって、やはり交易するならオランダが一番信用に足ると思わせればよろしいのですな』
さすがはインテリ。理解が早い。
『……なんだか上手く話に乗せられてしまったようだ。いやいや、フェイト氏から聞かされてはいたが、予想以上であった』
『何と聞かされていたので?』
『外の世界も知らぬ未開の島国の者と思うと痛い目を見るかも、とな』
おやおや、そいつは随分と過大評価だね……
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