飢饉の足音

――天明二(1782)年冬


 家基様たちと話をしてから半年ほど。あのときの会談で固まった今後の方向性に沿って、事業は着々と進んでいる。


 基本的な考え方は、オランダから出来る限りの知識を導入し、まずは国内の農産事情を改善するとともに、蝦夷地の開拓を進めていく。そして然るべき後に、領海を守るための艦隊創設に向けて動き出すこと。


 そのことは以前から俺の頭の中では構想を練っていたし、家基様や田安家の皆様にも披露していたが、改めて具現化してきたと言うべきだろう。


 まあ、兎にも角にも史実とは違う動き、先取りした動きになっているのは間違いない。


 そしてそれを主導するのは今のところ老中田沼公だが、御年が御年なので、その先は早晩将軍位を継ぐであろう家基様とそれを補佐する田安の治察様、父に代わっていずれは老中の職に就くであろう田沼意知殿に白河藩主を継いだ後に幕閣に入るはずの松平定信様あたりが担うことになるはず。


 そこに藤枝治部の名は入らないのかと? 入るわけがなかろう。自分で自分のことを、「国の将来を担うメチャ優秀な人材です」とか言うか? 君たちは自分自身にそんな評価を与えられるんですかって話ですよ。(逆ギレ)


 相変わらず家基様はそのことをあまり納得していなかったようで、あのときも何やら俺の処遇に関わる話に移りそうだったので、これはマズいと話を切り替えることにした。


 それが何かと言えば、直近の課題である蝦夷地開拓における防寒着のこと。そのために羊毛を用いることにしたわけだが、実物がないと想像しにくいわけで、それを考えて俺は、あらかじめティチングさんから毛織物や毛糸をいくつか譲ってもらっており、皆にそれを披露したのである。


 するとその場に居たものがこぞってそれに興味を示し、手触り肌触りを確かめてみたり、羽織ってみてその温かさを試してみたりするうちに、羊毛の実用性を理解してもらえた。昇進話も有耶無耶になって一石二鳥さ。(ゲス顔)


 そしてオランダ商館の動きも早かった。ティチングさんは長崎に戻るやすぐに、出島で飼育していた羊を何頭か幕府に献上してきた。さらには自身がバタヴィアに戻ったらすぐに、まとまった数の羊を日本へ送るという算段もしてくれるらしい。これに関しては少し時間はかかるかもしれないが、それまでに今ある個体で飼育の基礎を固められればと考える。




 そして蝦夷地はというと、春には早速平蔵さんが松前に向かい、その一行に平賀源内さんと弟子の高宮徳内も同行した次第だ。


 平蔵さんたち蝦夷地探索隊は松前に着くと、現地で松前藩のこれまでの所業を更に追求する班と分かれると、すぐさま船で東へと向かい、アイヌの首長イコトイが治めるアッケシを基点に、未来で言う釧路や根室、その先の千島列島あたりを周りながら、現地人の暮らしぶりや生活の知恵的なものを確かめつつ、倭人が暮らすための方策を練っていたらしい。


 ここで何故アッケシを基点にしたかと言えば、イコトイさんが協力的なこともあるが、それ以上にの御意向であることは言うまでもない。


 ちなみに松前とアッケシの間はスルー? と思うかもしれないが、あのあたりの内陸部は後に言う日高山脈などの山々がそびえ立っており、そう簡単に踏み入れる土地ではない。


 アイヌの人たちも基本的に住むのは海岸沿いや川の流れる谷あいとかの平地なわけで、当面はこれまでの交易と同じく、船でそれらの古潭を巡る形になるかと思う。


 山の中にお宝がたくさん眠っているのは重々承知しているが、そこらの開発はもう少し先になるだろう。技術が追いつかないといけないからね。


 その一行が帰ってきたのはつい先日のこと。源内さんは多くのものを得てきたようで、首尾を聞けば「まあ見てのお楽しみだ」と言っていた。あの人がそう言うときは、既に頭の中で構想が練られているのだと思う。


 徳内は徳内で源内さんから教示された教えに加え、蝦夷地の風土や地理に非常に興味を示しており、引き続き探索に加わらせてもらえればと、測量や天文を今まで以上に熱心に学んでいる。


 これは大坂の麻田先生のところへ留学させるのも手かもしれないな……


 そんな感じで新事業は粛々と実現へ向けて動き出している。が、実は他に気になることがもう一つあるのよね……




「あまり稲の実りが良くなかったようですな」


 定信様から今年の白河藩の年貢のことを聞くと、やはりというか米作は不調だったようだ。


「うむ、だが今すぐ飢饉になるというほどでもないがな」


 元々東北諸藩は、宝暦年間の飢饉以来不作が続いている。年によって良し悪しは多少あるだろうが、全体的に以前より取れ高が良くないというくらいで、定信様が言うように、今すぐ危機的状況に陥るとまでは言えない。


「たしかに今年の取れ高だけを見ればそうかもしれませんが、気になることが一つ」

「聞こう」

「この冬の天候がよろしくない兆候を示しております」


 どういうことかと言えば、この冬は例年になく暖かい。各地の天候を調べても、雨が少ないせいで土地は乾き、冬だというのにしばしば南風が強く吹き、曇天が多いはずの季節なのに空は隅々まで青く晴れ渡る日々が続く。


 温かいとか天気が良いというのはその場においては結構なことだが、それがずっと続くのは異常気象と言うべきだろう。そして俺がこれを警戒するのは、先に述べた宝暦期に凶作となった年も、その前に似たような天候であったことだ。


 以前、田沼公と初めて会話をしたとき、飢饉の可能性に言及したが、天候の移り変わりを見た結果、今後も発生する危険性は高いという理由で進言したことがある。


 あのときはさすがに未来を知ってるなんてことは話せないから、信憑性を高めるためにもっともらしい理由付けとして持ち出した話であるが、以来天候の移り変わりは注視していた。


 そして今このとき、過去の凶作期と類似する天候が発生していることを見れば、未来の日本史で「天明の大飢饉」と呼ばれる凶事がすぐそこまで来ていると思わざるを得ない。


 暖冬とか冷夏の原因って……エルニーニョだかラニーニャだっけ? 太平洋のアメリカ側で水温が高いとか低いとかで、太平洋のアジア側がそれに連動する形で通常と異なる気候が発生するとかなんとか……


 そこまではっきり覚えてないが、異常気象ってそういうことなんだろうと思う。俺も原因をはっきり示せないから、だろうくらいしか言えないけど。


 そして、これもいつの話か分からないが、浅間山の噴火が天候不順を更に助長させることになるはず。




「治部は近いうちに飢饉が起きると見るか?」

「過去の事例を紐解けば、近いうちどころか来年にそうなってもおかしくありません。可能であれば来年は稲を植えず、甘藷やジャガタライモ、蕎麦や粟、稗などでしのいでいただきたいと思いますが……」

「難しいであろうな。白河ならば儂がどうにでも出来るが、値が釣り上がっている今、他の藩は少しでも多くの米を作ろうとするであろう」


 そうなのだ。これは今年に始まった話ではないが、不作に連動して米価は年々値上がりしている。となれば、借金にあえぐ各藩はそれを返済するために、高値で売れる米を可能な限り植えるという判断をするだろう。


 しかし、天候不順で米はほとんど取れず、借金を返済するどころか民が食べる食料すら事欠くことになる。この時代に生まれ変わるまで、どうしてそこまで被害が拡大したか深く考えたことはなかったが、現状を見るとそのあたりが大きな要因だったのではないかと思う。


 今のところ東北の藩で俺が繋がりを持つのは、定信様の他には米沢藩上杉家や仙台藩伊達家、庄内藩酒井左衛門尉家、出羽に所領を持つ佐倉藩堀田家や館林藩越智松平家など、南東北が多い。


 北東北だと明確に話が出来るのは秋田藩の佐竹家くらいか。同じ東北でも北の方がより危険な気はするが、そこを治める南部や津軽あたりは伝手が無いんだよな。


「そのあたりは田沼侍従から御公儀のお触れとして指示するしかあるまい。幸いにして材料は治部がこれまでに多く示しておる。やろうと思えばいくらでも出来る。やらぬは領主の責よ」

「左様ではございますが……」


 たしかに、以前から全員を救うことは難しいだろうと思っていたし、そのつもりが無い者にまで手を差し伸べることは出来ないと言っていたから、定信様はそれを踏まえて仰っているのだろう。


 まあ、出来るところからやっていくしかないな。

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