藤枝流古今伝授
再び、あの男たちが餅をつき始めた……
<治部の脳内劇場>
「結婚間近だってのに、勉強を教えるとか言って、女の子を家に連れ込もうとした男がいるらしいですよ」
「なぁにぃ~!! やっちまったなあ!!」
「男は黙って……」
「修羅場!」
「男は黙って……」
「死を覚悟!」
「全面的に君が悪いよ……」
やっちまった……これはやっちまったぞ。
いや……京都で周囲の悪意に晒されて燻り続けるのなら、いっそのこと環境を変えてみてはと思っての発言なんだけど、言われてみればそうとしか受け取れないよな。
綾子殿の返しを聞いて、ようやく「あっ……」と気付いたが、言ってしまったものは取り返しがつかんぞこれは。
アホか俺。何を言い出してんだ……餅つき兄さんたちを準レギュラー化してどうすんのさ……
「本気で仰せなのですか?」
俺の言葉を受けて、綾子殿の表情が真剣味を増す。その雰囲気は彼女と最初に出会い、俺が美人だと持ち上げたときに見た闇を纏う姿。
今回も何かが逆鱗に触れたようで、今更そんなつもりじゃなかったんですは通用しなさそうな空気を感じる。
となれば、腹を括るしかないか。
「綾子殿の才を燻らせたままなのは惜しい。江戸に参れば種の他にも女子の弟子もおりますし、共に学べる場があるというのは悪い話ではないかと」
「お気持ちはありがたく頂戴します。されど、治部殿は少々迂闊が過ぎまする」
「迂闊……?」
「それで側室にどうかと仰せなのは迂闊でございましょう」
そこまで言うと、綾子殿は一拍おいて言葉を続けた。
「治部殿がなされようとしていること、今の私にその全ては見通せませぬが、とても大きく、大事なお仕事であることは分かります」
だがそれを成すにあたり、田安家の力添えは欠かせぬものであるはず。種と祝言も挙げぬままに他所から女子を連れ込んでは、周りのが何と言うか分からないし、要らぬ諍いが起こるかもしれない。周囲の協力を得て事を成そうとする俺にとって、それは宜しからざる事態ではなかろうかと仰る。
全くもってごもっとも……
「治部殿は夫の言うことが聞けないのかと強引に話を進めるおつもりですか? 私は詳しく存じませんが、将軍家の系譜に連なる姫にそれを言えるのですか?」
そんなつもりは毛頭無いが、あるとすれば死は覚悟だろうな……
「仮にですよ、それでお認め頂いたところで、もし私が誑かしたからだとと疑われ、会ったこともない種姫様に恨みを買うような真似、私はしたくありませんからね」
ぐうの音も出ねえ……
「よって、この話はここで終わりです。もう忘れましょう」
「……かたじけない」
「それに、治部殿の話で私も覚悟が決まりました。私は京にあって、私が成せることを為す。ただそれだけです」
さっきまで弱気な顔をしていた綾子殿の表情が凛と引き締まったように見える。
「本当にそれでよろしいのですな」
「苦難は承知の上。それに治部殿の足手まといにはなりたくありません」
ああ、やっぱり美人だな。意図せずフラれちゃったけど……
「されど、悪しざまに言う者は必ず現れますよ」
「でしょうね。ですが自身でそう決めたのですから、捨て置けばよろしいのです」
「よし。ならば変なことを申し出てしまった詫び代わりと言ってはなんですが、周りから余計なことを言われて苛々したときに効くまじないをお教えしましょう」
「まじない、ですか?」
そう。もしイライラしたときは、『
「くろーと……ざっく?」
「はい。オランダ語で尻の穴という意味です」
「なんですか、それ……」
お前なんか尻の穴から出てくるクソ野郎。という侮辱の言葉だ。
「いやですわ……何を教えているんですか」
「ちなみに今のは男に向けての侮辱で、女子には『
こっちは誰にでも股を開く節操のない女、所謂ビッチのことね。
「オランダ人に向けて言うと、相当の侮辱になりますゆえ、言ってはなりませんよ」
「……私がどこでオランダ人に会うというのですか。というか、それを私に教えて何をしたいのですか」
「そのうちに言いたくなりますよ」
「絶対に無いと思います」
「まあ……藤枝流蘭学の古今伝授とでも思ってください」
「嫌な伝授だこと。ふっ、うふふふ……」
「ふっ、ふふふふ……」
◆
それから半月ほど後、ついに江戸へ帰る日がやってきた。
「皆様には長々お世話になりました」
「なに、こちらも色々と土産をもらって助かったわ」
近衛邸からの旅立ちを准后様、内府様に見送っていただき、最後の挨拶を交わす。
「叔母上や因子にもよろしく伝えてくれ」
「承知致しました」
「それと、帝からも言付けを賜っておる」
「帝から……?」
内府様によれば、帝から俺に対し、皇国の繁栄、朝幕の揺るぎなき関係を今後も続けていくため、その活躍を期待しておるとのお言葉を受けたそうだ。
「本当は主上にあらせられては、其方に京に留まって欲しかったようじゃがな」
「なんと……」
「奪い取っては徳川大納言殿から恨まれますぞと言上すれば、致し方なしと仰せであったわ」
おお、知らんうちに懐かれてしまったのだな。
「勿体なきお言葉、痛み入りまする。もし機会がありますれば、帝の益々の御健勝を祈念しておりますとお伝えくださいませ」
「承知いたした」
「では、名残り惜しゅうございますが、これにて」
「道中気をつけての」
「はい」
こうして、俺たち一行は近衛邸を後にし、東海道の西の始まりである三条大橋を目指すのであった。
「殿……」
「なんだ三郎」
「某はこのままお供してよろしいので?」
都大路をしばらく進んだ頃、又三郎が恐る恐るそんな質問をしてきた。
……そうか。試用期間と称して、本採用にはしてなかったもんな。
まあいいだろう。悪意を持って近付いたわけではなさそうだし、薬の知識もある。漫画とかで見た忍者の影働きとまではいかなくとも、何かと役に立ちそうだしな。
「私の家臣になるのであろう?」
「そう願っておりますが……」
「ならば江戸に行くに何の問題がある」
「……あ、ありがとうございます! 精一杯お仕えいたします」
泣いて喜ぶ又三郎を、家中の者たちも良かったなと歓迎している。藤枝家は俺の教育のおかげで実力主義が浸透し始めているから、身分がどうのと文句を言う奴はいないのだ。
「そうと決まれば殿の露払いは某が……」
「気の早い……」
「……って、あれ? 殿、あちらにおられるのは」
又三郎が露払い気取りでウキウキで俺の前を進み、三条大橋の近くまで着くと、なにやら橋のたもとを指差したので、どうしたのかと思い目をやると……
「綾子殿……」
そこにいたのは綾子殿だった。彼女とは俺が誤爆求婚したあの日を最後に会っておらず、今日も気まずくて見送りに来てくれなかったのかなと思っていたが、まさかこんなところで待っていたとは思わなかった。
「このようなところで如何されたのですか」
「今生の別れになるやもしれませんので、最後に一目お目にかかりたいと思って参りました」
「そうでしたか。某も最後にお目にかかれて嬉しゅうござる」
とは言うものの、何となく気まずくて目を合わせられないな……
「短い間でしたが、治部殿と語らえたこと、とても嬉しゅうございました」
「某も綾子殿と知り合えて良かったです」
「あまり大したものはご用意できませんでしたが、餞別にございます」
「これはお気遣い痛み入る。……これは?」
餞別の入った包みに、なにやら短冊が添えられていた。
「治部殿のこれからを祈念し、歌を詠みました」
「それはかたじけない。後でじっくり読ませていただきましょう」
「では、お達者で」
「綾子殿も」
こうして、俺たち一行は鴨川を超え、東海道を江戸へと向かっていった。
『
綾子殿が詠んだこの歌が、江戸に戻ってからひと騒動起こすとは、このときは知る由もなかったのである……
◆ ◆ あとがき ◆ ◆
来んのか思たら
(俺と一緒に)
(京都で)すんのかーい……
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