限界は己次第
<前書き>
治部少輔、再びやらかします……
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「これがオランダの文字でございますか」
「左様。我が国の言葉と違い、横書きにて左から読みまする」
冷泉家の酒宴以降、綾子殿とはかなり打ち解けてきたように思う。
あの日、悪しざまに言う貴族たちを追い払った後、半ば独り占めの形で強引に話に付き合わせてしまったが、彼女も対等に話が出来る男というのが嬉しかったらしく、以来互いに近衛と冷泉の屋敷を行き交って学問の話に興じている。
彼女から教わるのは和歌のほか、儒学や国学など。俺も少しは学んでいたが、長じてからはほとんど蘭学が主だったので、彼女の知識量には驚かされてばかりだ。
一方の綾子殿は、全く未知であった蘭学に興味があるようで、その教示をと請われたから、暇な時間に進めようと思って持ってきた、書きかけのオランダ語の文法書を見せながら、アルファベットや簡単な単語を教えている。
「そういえば、治部少輔様はどうして蘭学を志したのですか」
見知らぬ言語に興味津々で話を聞いていた綾子殿が、ふとそんなことを聞いてきた。
「私は元々五百石の旗本の末っ子でした。継ぐ家もなく、婿入りなり仕官なり何かしら身を立てなくてはならないので、それを学問に求めたのです」
そう。最初はどこかに養子として迎えられるとか、仕官先があればと勉強し始めたのだ。
「最初から蘭学をと考えていたわけではございませんが、多くの人との出会いによってその道が開かれたとでも言いましょうか。それ以来、これがより良い国作りに役立つのではないかと思い、今までにない知識を探求し続けているのです」
「より良い国作り……」
これまでも何度となく語ったことだが、決して古来の学問を蔑ろにする考えはなく、足りないところを補い合う関係になればと願っていることを話すと、綾子殿が何やら思案顔をしている。
「治部少輔様はそれを辛いと思ったことはございませんか」
「辛い……ですか?」
曰く、自身がそうであるように、誰も知らぬ道なき道を進むとき、必ずや誹謗したり嘲笑したりする者が現れる。それに対し嫌になることはないかと問われた。
「過ぎたるはなお及ばざるがごとし。ご存じですわよね」
「論語ですな」
——ある日、孔子が師と商という二人の弟子の優劣を問われ、「師は度が過ぎており、商は物足りない」と答えた。そこで問いかけた者が「ならば師の方が上でございますか?」と聞き返すと、孔子は「度を越しているのは、物足りないのと同じだ」と答えたという。
何事もやり過ぎはよくない。中庸、つまりほどほどにしておけという逸話だな。
「私が学問に励むのをそう評する声があります」
「それは解釈の問題でしょう」
「解釈?」
「おそらく綾子殿が学ぶそれを、女子には必要のないものと見ておるからこそそう申すのでしょう」
「女子には過ぎたるものということですね」
「ええ。しかし過ぎたるものとは何でしょうかね」
たしかにやり過ぎはよくない。だけどそれは、寝る間も惜しんで勉強して体調を崩すとか、休憩も取らずに練習し続けて脱水症状になるとか、そういう話であろう。
俺もよく、「そんなものが何の役に立つのだ」と石頭どもから言われるけど、自身が考える未来に対して、そのやろうとしていることは未だやり過ぎの範疇に入っていないと考える。
「我が国は長らく戦も起こらず平穏でございますが、度重なる飢饉や天災で民の暮らしは困窮を極めております。民がおらずして国は成り立ちませぬが、これまでのやり方を踏襲するだけでは解決に至らぬのも事実」
俺の最終目標は西洋各国がこの国に来たとき、維新のような戦乱を巻き起こすことなく平和裏に開国に至ることだ。
そのときの政治体制が幕藩体制のままか、もしくは史実通り立憲制に移行するかはさておいて、殺し合いで歴史を動かすような事態にならない環境を作りたいと願う。
もちろん、簡単に物事が変わっていくというわけにはいかないから、俺自身もどこまでやるべきか明確に定まっていないところは多いが、少なくとも現時点ではそこへと至るにはまだまだ遠い道のりであり、やり過ぎと言えるような段階ではないことは確かだ。
「何を目指すのか。過ぎたるかどうかはそれ次第にございましょう」
「目指すもの……」
未知のものを恐れるというのは誰にでもあるもの。俺の蘭学然り、女子である綾子殿が勉学に励むこと然り。
これまで誰も成していないことが、それが後に何を引き起こすのか分からないからこそ怖い。だから揶揄するのだ。頓挫することを心の底で願いながら。
「ですがそれが有用だと分かれば、じきにそんな声は消えていきます。たしかに最初は苦労も多くございますが、それを支えてくれる者も多くおります」
俺がここまでやってこれたのは、多くの人の助けがあったからこそだ。
師事を頼んでくれた親父殿、そして年端もいかぬ小僧を受け入れてくれた昆陽先生、そして俺を見出してくれた宗武公に治察様。未来を共に切り開こうと誓った定信様。蘭語和訳を行ったチーム解体新書の面々に、多くの西洋知識を伝授してくれたツンベルク先生……
「そして、そんな貴方様を陰で支えてくれる種姫様。ですね」
「そうですね」
みんな俺の才能を評価してくれたけど、その中でも一番は種だと言えるだろう。
幼いころから側にいて、俺が何をしたいのかを一番早く感じ取ってくれた。
自惚れた言い方ではあるが、彼女が学問に目覚めたのも俺の仕事を助けたいと願ったから。結果、嫁にすることになるとは思いもしなかったけどな。
「羨ましいですわ。目指すものがあり、それを支える人に恵まれ……もう少し早く出会えたら良かったのに……」
「何か仰いましたか?」
「いえ、独り言ですわ。私の学問にはそのような大きな目的がないので、過ぎたると言われるのも致し方ないかなと」
「難しく考えることはありません。それを決めるのは己自身です」
限界を超えてやり過ぎるのはたしかに良くない一面もある。だが限界なんてものは言い換えれば自分で決めた線引きであり、それを超えれば次の限界が生まれる。とある監督さんがそう言っていたな。
俺に当てはめれば、蘭学の大家という名声に胡座をかいて、この程度でいいと研究を終わりにしてしまえば、現時点でこれ以上の進歩はない。
いずれ時間が経てば、俺を超える逸材が現れて更に上を行く日が来るかもしれないが、今のうちにそのハードルをうんと高くしておけば、後に続く者たちが目指す高みはより上になる。俺という踏み台が高ければ高いほど、発展の速度は高まるのだ。
もちろん今の社会環境との調和、ハレーションを起こさない工夫は必要だけれど、それを怖がって立ち止まるわけにはいかないのだ。
「諦めたらそこで終わりですよ」
「諦めたら終わり……」
「そうです。自分の学んだことが世のため人のためになるか否か。それさえ忘れなければ、学びは必ず実を結びます」
「……申し訳ありません。なんだか一方的に勇気づけられてばかりで」
周りから有形無形で色々と言われているからだろうか、綾子殿がかなり落ち込んでいる。
まあね、自分の信じた道とはいえ、それが何に繋がるかもはっきりせず、誰彼と言われ続ければ、心が揺らぐこともあろう。
京でそれを続けるのは難儀なことだろうな。
ならば……
「綾子殿、もしよければ、私と共に江戸へ参りませぬか」
「江戸……ですか?」
「はい。江戸の私の屋敷ならば、もう少し穏やかに勉学に励めるかと」
「それは……つまり……側室にという意味でしょうか」
側室……あ……
これはやっちまったぞ……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます