定家の血を引く京美人(なお属性)
――冷泉家
ご先祖様を辿ると新古今和歌集で有名な歌人、藤原定家に至る和歌の大家である。
その興りは、定家の孫の代に相続で揉めた末に分家として独立した家の一つなのだが、本流の二条家が早々に家が絶えてしまい、現在定家の血を受け継ぐのは冷泉家のみとなる。
とは言うものの、歌道として最も栄えたのは本家の二条派。絶家したとはいえ門人が多かったこともあり、その技法、所謂『古今伝授』が三条西家に継承されて以降、今もなお都の歌道の主流である。
古今伝授。古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝える儀式みたいなものだ。後世だと二条派に伝わるそれが最も有名で、なんでそこまで知られるようになったかと言うと、これは関ヶ原の戦いの前哨戦の一つである丹後田辺城の戦いの一件にある。
関ヶ原の戦いは、家康公が謀反の疑いありとして会津上杉家の討伐に向かった隙に、石田三成が挙兵したことに端を発する。
そして石田率いる西軍は、まず畿内にある家康派の大名の所領制圧に動き出したのだが、その中に丹後国が含まれていた。
当時の丹後領主は現在肥後熊本を治める細川家。当主以下多くの将兵が遠征に参加している中、一万を超える西軍が攻め込んできたのだ。
このとき留守を担っていたのは、当時隠居していた当主の父細川幽斎だが、守る兵は僅か数百。普通にやっても太刀打ち出来ないと判断し、自身の隠居所である田辺城で籠城することとなった。
ここで細川軍は必死の抵抗を試みるが、衆寡敵せず。ほどなく落城の危機を迎え、幽斎も討ち死にを覚悟していたが、その後当時の帝である後陽成院の勅命により、細川軍が田辺城を明け渡すことで講和と相成ったのだ。
何故勅命を出してまで帝がこの戦を止めようとしたかといえば、細川幽斎が当時唯一、二条派の古今伝授を受けた人物だから。嫡子がまだ幼く、系統が絶えることを危惧した三条西実枝卿が、後に三条西の後継者へ確実にそれを伝授することを条件として、弟子の幽斎に古今伝授を行っていたのだ。
つまり、帝は幽斎が討ち死にすることで古今伝授が断絶することを恐れ、勅使を派遣したのだ。戦を止めると言うよりは幽斎の命を救うための行為であり、それだけ古今伝授が重要なものという証であろう。
そんなわけで京都における歌道の主流は二条派であり、冷泉派は
これは室町から戦国期にかけて、冷泉派を保護していたのが駿河の大名今川氏であり、そこからの流れで家康公にも庇護してもらったからなんだそうな。
そして先程言ったとおり、定家の血を引く唯一の家ということもあり、冷泉家は羽林家の家格を持つ歌道の大家として、二条派を継承する各家からも敬意を払われている。
ちなみに現在の冷泉家は上冷泉と下冷泉の二家に分かれているが、今回ご教示いただく為章卿は上冷泉家の御当主で、その邸宅は御所の北、今出川通に面しており、つまるところ近衛家から見て道を挟んだ向こう側のご近所である。
「治部殿、我が妹は如何かな」
「如何と問われましても……お美しい姫君だなあと」
事実美しいと思うからそう答えたが、仮にそうでなかったとしても、妹のことを悪し様に言われて楽しい兄はいないだろうから、そう答えるしかないだろう。
「ほっほっほ、左様か左様か」
「お兄様、今日はそのようなお話ではございません」
「……冗談じゃ。本日は
為章殿の発言から、嫁の押し売り疑惑が増したのだが、当の綾子殿は「何言ってんだコイツ」くらいの冷めた目で兄上を質していた。すると、為章殿も調子に乗りすぎたと自覚したようで、急に真顔になって話を変えてきた。
……というか、綾子殿が指南役なのか?
「この子は女子ながら和歌の歴史にも通じており、我が父に言わせれば、男子であらば麿ではなく綾子を跡目にしたかったというくらいには知識を持っておる」
「それはお父様のお戯れにございましょう」
女子ゆえに教える相手も姫君や女たちばかりではもったいない。かと言って公家の男子に教えるというわけにもいかないとあって、ちょうど良い機会だから俺の講師役として連れてきたらしい。
「貴卿がそう仰せならば、私の方は異存ございませぬ」
「うむ。ならば綾子、仔細は任せるぞ」
「かしこまりました。それでは藤枝様、改めて綾子と申します。不慣れなところもあるかと存じますが、よろしゅうに」
改めて綾子姫と向き合ってその顔を眺めてみる。
大事なことなのでもう一度言う。間違いなく美人さんだ。
「私の顔に何か付いておりますか?」
「……いや、何でもございませぬ。よろしくお願いいたす」
◆
「思っていた以上に基礎は身についておられるようですね」
綾子殿の講義が一区切りつき、しばし休憩の時間となる。
結論から言うと、彼女が想定していたより俺の和歌の知識は十分にあるとのこと。実践経験が少ないという点はあるものの、今の段階でも歌会に出て恥をかくような事態になる可能性は低いというお墨付きだった。
「江戸で良き師がおられたのかしら」
「そうですね。田安中納言様に色々ご教示いただきましたので」
家康公に庇護され、江戸で勢力を保った冷泉派は、吉宗公の代に入ると更に厚遇を受け、武家の門人も多く抱えるようになった。
亡き宗武公も父に倣い、冷泉派の歌風を学んだ上で『万葉集』の研究なども行われ、田安家に仕えていた国学者の
俺はその弟子とまではいかないが、幼い頃は定信様と共に宗武公からしばしば歌道を教示されており、その知識が役に立ったというところだ。
「やはりそうでしたか」
「思ったより手がかからなくて退屈でしたか」
「そうですわね。もう少し拙いものかと思っておりました。なれば少々キツめにご指導しようかと思っていたのですが」
「私は親の仇か何かですかね……」
「冗談です」
美人にキリッとした表情で物を言われると、本気なのか冗談なのか分からん……
「しかし、お兄様も人が悪いわ。よろしく教示して差し上げよと仰せでしたので、一から教えるつもりで準備してまいりましたのに」
「あの……綾子殿自ら教えると仰せになったわけではないのですか?」
「ああ、先程の兄上の話ですね。誤解させてしまったようですが、自ら押しかけてきたわけではございませんわよ」
どうやら綾子殿は今日の講師役を冷泉卿から頼まれたそうで、自分の意思ではないようだ。
俺に会いに来たかったわけではないんだな。自惚れた……
「まあでも、巷で話題の治部少輔様がどういう御方か見てみたいという気持ちはありましたわよ」
「そんなに巷で話題なのですか?」
「ええ。公家の姫たちの間ではね」
話を聞くに、その話題の中身は過分に盛られているのだが、帝や摂政様、近衛家などと関わりがあって親しいとかいう事実を踏まえて盛られているから、あながち全部出鱈目というわけでもないのが困りものだ。
「それでお近づきになりたいと思って宴席で声をかけたのに、全く振り向いてもらえなかったとかなんとか申していた姫もおりましたわ」
「お高く止まっていけ好かないということですかね?」
「いいえ。江戸で待つ許嫁様が余程大事なのねと。あれほど心を通わせておられるお相手が羨ましいわと褒めておりました」
そうかそうか。堅物スタイルで押し通したのが、却って一途な男と思われて良い方に評価されているのだな。
「されど、お気を付けになられたほうがよろしいですわよ」
「と、仰ると?」
曰く、それほどまでに身持ちの堅い男であればこそ、何とかして落としてみたい。出来る出来ないではなく、手に入れるのが難しいと思えば思うほど、どうにかして手に入れたくなると考える姫も少なくないとか。
「随分と驕った思考とは存じますが、幼い頃から後生大事に育てられた方ですからね。多少我が儘なところもございます。私が和歌を指南するという話が何処からか漏れた途端、妬みの声が届くくらいにはね」
俺に指南するという話を伝え聞くと、綾子殿は他家の姫たちからやいのやいの言われたようだ。
「一体何を言われたのでしょうか」
「お武家様に教えるくらい私でも出来ますから、自分と役目を代わりなさいと」
二条派の古今伝授が有名なので目立たないが、定家の血を唯一受け継ぐ冷泉家にも同じく古今伝授は存在する。一子相伝だからその神髄は当主の為章卿しか知らないが、綾子殿だってその歌道の大家の姫として幼い頃から学んでいたのだから、それより上と豪語するのはどういう神経なのだろうか。
「恐らくですが、私が和歌ではなく違う何かを指南すると思われたのでしょう」
「指南すると称して、私に近付く腹積もりなのではと勘ぐられたわけですな」
「いい迷惑でございます」
端的に言うと、古文の授業すると言いつつ、保健の授業を実践形式でやるみたいな感じですかね。
「されど、仮にそうだと思っていたとしても、その姫君たちは余程自信がおありなのですな」
「どうしてそう思われるのですか?」
「綾子殿にそう仰せになるということは、貴女よりも私に気に入られる自信があるということでしょう?」
「そうなりますわね」
「私も京に参りましてから多くの姫君とお会いしましたが、綾子殿より美しい方にお目にかかった記憶はありません。どのような手練手管で近付こうとなされるのか」
「そういうことを平気で仰るのですね……」
あれ……? なんだか急に綾子殿の表情が険しくなったぞ。
それにこの雰囲気……光も届かぬ深淵の闇を纏う美女の真顔……
ええと……分かります。分かりますよ……
種(闇)と同じやつだ……
◆ ◆ あとがき ◆ ◆
藤原定家の二条家と江戸時代の摂家二条家は完全に別物です。
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