黒いのは歯だけじゃないようです

 いや驚いた。麻田殿がケプラーの法則を知らずにその推論を導き出していたとはね。


 俺が西洋で似たような論説があると話したら驚いたので、知っているものとばかりに第1と第2法則、つまり惑星は楕円軌道だよとか、惑星と太陽を結ぶ線が一定時間に描く面積は一定なんだよって話をしたら、なんと知らなかった。


 よく考えたら地動説ですら覚束ないのに、ケプラーの法則が知られているわけないわな。そのせいで、どこで知り得たのかと質問攻めに遭ってしまった。


 適当に長崎にいたときに何かの蘭書で……みたいに言って、詳しい書名はボカしたんだけど、ボカすしかないよな。だって……書名『地学基礎』なんて言えないもん。(ぶっちゃけ)


 結果、この先また新たな知識が入ったらお互いに情報を交換するという形で納得してもらうことにした。


 後々改暦で再び世話になる可能性が高いからな。繋がりは持っておいた方がいいだろうが、頭の痛い(理系)問題が増えてしまった。また蘭書和訳せねばならん……


 もっとも、色々と収穫はあった。その後も大坂に何日か滞在したのだけれど、麻田殿との面会の噂が瞬く間に広まったらしく、天文学者のみならず、医学、農学、果ては国学者や儒学者まで俺に話を聞きにやって来た。もちろん俺の蘭学知識を聞きにだ。


 国学者や儒学者と聞くと、蘭学を毛嫌いしていそうな感じだけど、それもまた人それぞれと言えるだろう。必要とあれば違う分野の知識も積極的に受け入れる層は一定数いる。自由闊達な商人の町である大坂の気風も少しあるのかもしれない。それに、毛嫌いしている人はわざわざ会いに来ないだろうし。


 それらの中で、これまで俺の知らなかった知識をもらうことも出来たし、こちらの考えを知ってもらう機会も出来た。中には上方でも高名な学者様も何人かいたので、何かの機会に伝手を頼る的なことも可能になっただろう。


 こうして多くのものを手に入れ、京に戻ってきたわけだが、ここで俺は今まさに別の難題に直面することとなった。



 ◆



「治部殿。其方を招きたいと申す者たちから、いつ戻って来るのかと矢の催促でありましたぞ」

「何かございましたか?」

「うむ。餡八橋の話を聞き及んだからであろう」


 近衛家に戻ってきてみれば、つい先日俺が考案した"餡八橋"を帝に献上したところその味をいたくお喜びになられたそうで、その話が伝わると、逗留していたはずの近衛家にお招きの使者が殺到したらしい。宴を開くから、芋羊羹や餡八橋を手土産に持っておいでといったところだろうか。


 ……てか、餡八橋の権利ライセンスはいつの間に近衛家のものになったのだろうか? ちゃっかりしておる……


「皆の招きに応じるは難しかろうが、公卿あたりの誘いは受けてもらいたいと思ってな」

「新たな菓子を考えてくれというご依頼ならばお断りしとうございますが……」

「無論じゃ。せっかく当家のために金づ……新しき菓子を考えてくれたのじゃ。またぞろ新しいものが生み出されてものう」


 新しいものを次々に生み出されては儲けが少なくなると言いたいのだろう。准后様、今確実に「金蔓」って言おうとしていたしな。


「なになに、そのあたりは麿たちが上手いことはぐらかしておくゆえ、案じることはない」

「しかし、公卿の皆様と会うのであれば、作法も必要でございましょう」


 公家というのは体面やらしきたりを重んじる生き物だ。武家もそういう面はあるけれど、面倒くささで言えば公家の比ではない。そして、招かれる身とはいえ、顔を出す以上はそれなりの知識が必要になる。


 俺の場合、宗武公が有職故実や和歌に通じておられたおかげもあって、田安家でそれっぽいことを教えてもらっていたので、無為に毎日を暮らす旗本たちなんかよりは余程詳しいと思うけど、それはあくまで江戸の武家の中での話だ。


 本場でそれが通じるかと言われるとあまり自信は無い。家基様に京都行きを命じられたとき、そちら方面には適任ではないと言ったのはそういうことだ。


「有職故実は摂家たる近衛の家業ゆえ、確とご教示いたす。何も心配はいらぬ」

「しかし……衣装も持ち合わせておりませぬ」

「心配無用。装束一式も我らにて用意いたす」


 今回は朝廷や公家衆と関わらないと思っていたので、宴なんかに出るための装束なんぞ持ってきていない。そのことをお伝えすると、内府様が待ってましたとばかりに近衛家で新たなものを用意しているというではないか。


「何から何までお手配いただくは……」

「構わぬ。菓子の礼と思えば安いものよ」

「治部殿は丈立ちがあるゆえ、装束を召さばさぞ美丈夫になりましょうから案ずることはない」




 今まで語る機会が無かったので話していなかったが、実は俺の身長は約五尺九寸、メートル法で言うなら180㎝近くある。どうせなら六尺と言いたいところだが、詐称はよくない。(どの口が言う?)


 ちなみにこの時代は、男子でも身長は五尺ちょっと、つまり150cm台がほとんどで、五尺五寸もあれば高身長の部類に入る。これはおそらくだが、この時代は動物性タンパクをほとんど摂取していなかったこともあるのではないかと思う。


 その証拠に、幼い頃から食事改善を図った治察様や定信様はかなり背が伸びたし、種も同年代の男子並みに背が伸び、付くべきところにしっかりとお肉が付いて、なんともけしからん優体型ナイスバディになりつつあるので、関連性はあると思う。


 俺の心の中で、ヤッてしまえと囁く悪魔と、自制を求める天使が戦っている様がお分かりだろうか……


「せっかく京まで参ったのじゃ。学べるものは学んでおいて損はない。公卿とのつながりを持つことも其方にとって悪い話ではなかろう」

「そこまで仰せならば断わるわけにもまいりませんな。よろしくご指南お願いいたしまする」




 こうしてそれから数日間、近衛家の皆様に有職故実をみっちり仕込まれ、装束の支度も整ったある日、九条様のお邸に招かれていた。


 九条家は近衛と並ぶ摂家の名家。先帝崩御の後、後継を誰にするかという議論において、後桜町院や准后様が嘉禰宮様を推す中、現当主尚実なおざね卿が推した祐宮様が即位されたこともあってか、今は摂政太政大臣を務めておられる。


「内府殿、よう参られた」

「摂政様もご機嫌麗しゅう」

「して、そちらが」

「我が義弟となる藤枝治部少輔にございます」


 今日は多くの公家を招き、帝の即位を祝うという名目で開かれる宴である。やはり公家というものはしきたり大事なので、近衛から招く客はあくまで内府様が主となり、俺はそのおまけという扱いなのだが、裏には俺を呼んで話をしようという目的もあるので、摂政様がわざわざ俺に声をかけにきたのだ。


「色々と我らのしきたりに慣れぬこともあろうが、今日はお上の御即位を祝う宴。存分に楽しみ、話をしようではありませぬか」

「格別の御計らい、痛み入ります」

「さあさあ、内府殿と治部殿を案内いたせ。では内府殿治部殿、また後ほど」


 摂政様に指図を受けた家人に案内され、用意された席に着いて周囲を見渡せば、なんとなく邸宅の雰囲気とかこの宴席の感じ、参加する貴族たちの様子などから、時代劇やらで見た貴族の宴会という雰囲気を感じる。


 もちろん細部は異なるところもあったりするが、全体的なイメージの話ね。




「ほっほっほ、左様でございましたか」

「帝にお喜びいただけたようで、私も献上した甲斐がございました」

「そうそう、他にも何やらお考えになられたとか」


 宴が始まってしばらくすると、周りには多くの貴族が俺と話をしようと入れ代わり立ち代わりで酒を注ぎにやってきた。


 その多くの者が話すのは、帝に献上した餡八橋や近衛家に贈った芋羊羹のことだ。要は「麿も食べてみたいでおじゃる。たもれたもれ」ってことだろうな。


「まあまあ方々、そう急かすでない。ちゃんと皆の分も用意して持ってきておる」

「これは内府様、さすがの手際の良さにございますな」


 そうなることは事前に察知していたので、近衛家を出る前に芋羊羹は作って来たし、八ツ橋の皮と餡子も準備してきた。どのタイミングで出すかは主人ホストである摂政様次第だが、用意されていると聞いて諸卿は満足そうな顔をしている。


「おお、おお、これは何やら臭いますな。これは……東夷あずまえびすの泥臭さであろうか」

「泥の臭いに芋臭きものも混じっておるようじゃ」

「いやいや、南蛮かぶれの腐臭にございましょう」




 と……こんな感じで思ったより友好的に接してくれる公家の方々がいる一方、案の定と言うか嫌悪感を示す非友好的な御仁もいるわけで……


 この場に居て東夷と蔑まれる可能性のある人間は俺だけなので、確実にこちらに向けて言っているのだろうが、人のことを臭いだの腐臭だの言って嫌味をまき散らして場を白けさせる方が余程腐っていると思うぞ。


「土御門卿、麿の客人に何ぞ文句でもおありか」


 それを聞いて険しい顔になる内府様の言葉から、この御仁たちの中央にいるご老体が土御門卿、つまり、宝暦暦できそこないを作りし張本人のようだ。


 真っ黒な歯をチラチラさせながら薄ら笑いを浮かべるその顔は、後世の人がイメージしそうな、性格の悪い公家をまさに体現しているようである……




◆ ◆ 補足 ◆ ◆


<公家の家格について>

摂家せっけ

 摂政・関白、太政大臣に昇任し、藤氏長者に就く資格を有する家。近衛・一条・九条・鷹司・二条の五家。

 五家の中の序列は近衛>一条=九条>鷹司=二条

清華家せいがけ

 大臣や大将兼任の太政大臣まで昇進出来る家であり、娘が皇后になる資格があるのは摂家と清華家だけ。三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院かさんのいん大炊御門おおいのみかど・菊亭(今出川)の七家に、江戸時代は広幡・醍醐の二家が加わるらしい。

大臣家だいじんけ

 元は清華家の庶流から生まれた家。なので昇進も清華家に近いが、実際には右大臣に昇進した例が僅かにある程度で、ほとんどは内大臣止まりらしい。正親町三条・三条西・中院の三家。

羽林家うりんけ

 近衛少将・中将を兼ね、参議から中納言、最高で大納言まで昇進出来る家。稀に大臣に任じられたケースもあり。

名家めいか

 最高で大納言までなのは羽林家と同じ。違いは羽林家が近衛中将などの武官職を経て昇進するのに対し、名家は侍従や弁官などの文官職を経ての昇進となる。

半家はんけ

 官位は羽林家や名家に準じて昇進し、やはり大納言が極官となるが、公卿(従三位以上)となっても参議に任官されることはほとんどないらしい。

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