招聘の真意

「藤枝殿からご覧になって、我が藩はいかがですかな」

「他藩に比べて比較的落ち着いているように見受けます。街道も近く、人や物の往来も多く良きことかと」


 彦根に到着してから十日ほど。俺は領内各地を見て回ったが、治政が上手く行き届いているように映った。


 井伊家の領地は下野と武蔵にある二万石を除けば、残りは全て近江、それもほとんどが琵琶湖の東岸、愛知えち郡、犬上郡、坂田郡などに集中している。もっとも範囲が広すぎるので、全ての村を見分したわけではないのだが、それでも十分な農産量はあるように思われた。


 ちなみに武蔵の領地は荏原郡の弦巻、用賀、馬引沢あたりの村らしい。用賀ってのが未来と同じ場所だとすると、東名高速の東京インターがあるところだから、位置的にその所領は三軒茶屋から二子玉川あたりだ。


 この時代は普通の農村や宿場町なんだけど、三茶や二子玉に土地持ってると聞くと、なんとなく羨ましく感じるのは未来人的な感覚がゆえだろう。


「されど、よろしかったのでしょうか」

「何がでございましょう」

「井伊家の者ではない私がかように領内を見て回って、御家中の方々が面白くないのではと」

「ご懸念なく。田沼様に貸しが出来ると殿も乗り気ゆえ」

「やはり御老中の差し金でございましたか」


 どういうことかと言えば、今回の彦根訪問は例の騒動で将軍家や幕閣と一部の御家門や譜代大名たちの間に隙間風が吹いていることを危惧しての、田沼公の差配によるものなのだ。




 罪を犯せば罰せられるのは当然なんだけど、今回はその対象がかなり多かった。分家とはいえ、阿部・酒井は三河以来の譜代だし、秋元も家康公江戸入府以来の功臣。それら以外にも長らく徳川の直参として家門を守った者たちの多くが没落することになった。そうなったことで、「次は自分の番では……?」と思う者もいるらしい。


 自身に疚しいところが無いのならデンと構えておればいい話なんだけど、人というものは完全無欠ではない。思い当たる範囲で瑕疵は無いと思っていても、役職務めをしていたり藩政を担っていれば、知らず知らずのうちに間違ったことをして……となっている可能性もあるわけで、何が正しくて何が間違いなのかを認識出来ていないとなると、疑心暗鬼に陥る心理はあるかもしれない。


 まして江戸時代って、改易ありきで冤罪や言いがかり、小さい罪を大罪のように見せるなどして罰していたイメージがあるから、特に田沼公に批判的だった大名や旗本なんかは戦々恐々としているのだろう。恐れおののいているうちは構わないが、それが「殺られる前に殺れ」みたいな流れになるとマズい。そこで井伊家に協力して貰おうとなったのだ。




 田沼公の政策は所謂重商主義。農産を増やし、これを自由に売り買いすることで経済を活発化させ、年貢量の増加と物を扱う商家からの運上金などにより、財政の改善を図る政策だ。


 元々その増産の対象は米で考えていたわけだが、稲作をいくら増やしたところで飢饉に見舞われては元も子もないということで、今は米以外の作物栽培による増産を企図するようになった。


 俺が草の根運動で広めていたそれが、例の政変で田安家が発言力を持ったこと、さらには家基様からお墨付きを与えられたことで、幕府の公式な政策として取り入れられつつあるからね。


 実際は俺から田沼公に直接提言し、本人も承知しているのだが、表向きには専横を許さぬという田安家などの意向を受けて方針転換したという形になる。

 

 そして今回の訪問は、彦根藩が進んでこれを取り入れようとしていることを見せるための、いわばプロパガンダということだ。それによって井伊家が将軍家治公に賞賛されれば、他の譜代も右へ倣えとなるであろうという目論見によるものだろう。


 将軍家へ忠誠を誓う意思があるのなら、行動をもって示すべし。本気で新たな農産を考えるなら、井伊家のように藤枝治部に教えを請えと暗に言っているわけだ。


 ついでに言えば、それによって新しい作物栽培の奨励が進めば田沼公の考える政策に合致しながら飢饉対策も出来るし、大名たちの統制も図れるという一石三鳥の策だな。




「我が殿は田沼様と懇意にしておりまするが、なにぶん幕閣にて共に政務にあたることは叶いませぬからな」


 西国や朝廷に対する抑えという重要な役割があるため、井伊家の当主は昔から老中に任命されないという習わしがある。なので御公儀の為すことに直接的な関与は出来ない立場だ。


 一応過去に老中の上である大老に就任した藩主は何人かいるが、これは非常設の役職であり、ここ最近は政権も安定して大老を置く必要もないことから、久しく就いた人物はいない。


 それこそ七十年近く前、直幸公のお祖父さんが就任したのが最後の事例なのだが、これは六代将軍に就任して間もない家宣公の政権を安定させるために井伊家を幕閣に組み込む必要があったという事情によるものだ。


 そういうわけで基本的に閣外協力のような形でしか関われない家であるからこそ、以前から懇意にする田沼公に貸しを作るということで話を受けたのだと思う。


 そのこと自体は否定される話ではない。むしろ改革を進めるために必要なことだと思う。ただ一点、苦言を呈すとすれば、事前に話は通して欲しいよねってところかな……


 話が上手く進めば教えを請う大名が更に増えて余計に忙しくなるわけで、江戸を出る前に息子である意知殿がそれとなく仄めかしてくれなければ、俺はそんな裏があることは知らなかった。


 あのタヌキ親父のことだから、現地に着けば俺が気付くとでも思ったのだろうか。木俣殿と話して「やはり……」と唸ったのはそういう事情があったのだ。


「御領内の状況が危機的なものでないとは思いましたが、やはりそうでしたか。となると、あまり仕事は無さそうですな」

「いえ、殿からは牛の飼育について知見をいただきたいと」

「牛……でございますか」




 先程も述べたように、ここは京・西国に対する要地であり、井伊家は四千人という兵力を常に維持している。


 そしてその者たちが身に付ける鎧や鞍などを作る材料として、牛皮は欠かせない品であることから、彦根藩は牛の飼育と屠殺を幕府から認められている唯一の藩だ。江戸城の陣太鼓に使われている牛皮も、彦根藩からの献上品が使われている。


「殿が牛の飼育数を増やしたいとお考えでな」

「戦の無い太平の世で?」

「治部少輔殿は反本丸をご存じですかな」

「……食用というわけですか」


 牛の飼育の大義名分は武具に必要な皮を取るためなんだけど、屠殺すれば肉が残る。というか、未来人的には肉がメインの産出品になると思っているが、この時代は食べると穢れるという仏法の教えから、表立って食べるのは憚られてきた。


 とはいえ表立って食べないだけで、実際は隠れてコッソリ食べているのは周知の事実。牛を屠殺して大量の肉が残れば、食べない選択肢は無いだろうということで、売買とまではいかずとも、かなり昔から彦根の領内では流通していたらしい。


 そして元禄の頃に花木伝右衛門はなき でんえもんという藩士の方が、「本草綱目」という中国の書籍を参考に、滋養強壮の薬として反本丸という、牛肉の味噌漬けを考案したのだ。大胆なことをしたものだと思うが、赤牛の肉だけは食べても穢れないという(屁)理屈の上で、あくまで薬ですという建前だね。

 

「殿が各地の大名家に贈るようになってから、引き合いが多くなりまして」




 元々は彦根で地産地消されていた反本丸だが、直幸公の代になってから贈り物として諸侯に振る舞うようになったのはつい最近の話だ。


 それこそ俺が初めて田安邸を訪れた際、たまたま彦根から贈られてきたのを食したとき、その是非について辰丸様と激論になったこともあったが、あれは贈り物として供されるようになった始まりの時期だったようだ。


 あれから十年ちょっとの時が経ち、牛肉が旨いものだということが知られるようになった。それと時を同じくして、俺が身体作りに肝要な食材として肉、要は動物性タンパク質の摂取を勧める考え方が浸透してきたこともあり、彦根藩には反本丸を送ってほしいという諸侯からの要望が増えているらしい。


「もし可能ならば、これを増やして売り物とすることも出来るかと考えております」

「たしかに売れるとは思いますが……」

「何かご懸念でも?」




 木俣殿は俺が乗り気になって妙案を出してくれるだろうと思っていたらしく、あまり色良い返事でなかったことに怪訝な表情をされる。


「育てている者が一番ご存知でしょうが、牛は飼うのに計り知れない労苦がある生き物にてございます」

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