これがホントの芋侍

――安永九(1780)年十一月


「遠いところをわざわざのご足労、痛み入ります」

「いえ。左中将様の願いとあれば、お受けせぬわけには参りません」


 十一月のはじめ頃、俺は井伊様の治める領国である彦根城下に到着し、筆頭家老木俣土佐殿の出迎えを受けていた。




 新帝の即位式は十二月の初めなので、今頃江戸を出立しても十分な時間がある。にもかかわらず先走りしたのは、井伊様の領地で農業指南をするためだ。


 江戸から彦根までの行路はおよそ十日。東海道を西へと尾張国まで進み、その名の通り熱田神宮の門前町である宮宿という宿場町まで辿り着けば、その先は北へ分岐する脇往還・美濃路に進路を取る。


 そこから途中墨俣、大垣などの宿場を過ぎると、道は中山道垂井宿に合流し、さらに関が原を越えて六つ目の鳥居本とりいもと宿に至れば、山を隔てた琵琶湖側が彦根の城下町だ。

 

 江戸から京へ行くのであれば、宮宿から七里の渡しという海路で伊勢湾の対岸桑名宿に向かい、そこから再び東海道を西へというのが一番早いのだが、船で渡るために馬を乗せることが難しいので、使者が上洛したり江戸へ向かうときは、全て陸路となる美濃路から中山道へ至る経路も一般的だったりする。


 そして今回の正使は井伊様。行路の途中に領地近くを通ることになるので、京へ向かうついでに農業指導をと請われたのだ。




 井伊家は三十万石と譜代の中では一番の大身。彦根という土地は京にも近く、また中山道と北国街道が合流する交通の要衝であり、逆にそれは攻め込まれるとすればその行軍途上に領地があるということなので、西国諸藩に対する押さえとして配置されたという理由が大きい。


 そんな経緯から兵馬の備えは欠かせないため、出費も嵩むらしい。大きな天災に見舞われたことも少なく、他藩に比べれば財政は比較的良い部類ではないかと思われるが、それでも楽とまでは言えないし、直幸公はこの先もずっと安泰とは考えていないらしく、藩政改革を進めているようで、木俣殿はそれを指揮しているそうだ。


 俺に声がかかったのもその一環だろう。いつもなら江戸で指南を受けた人が現地で指導するみたいな感じだが、今回は俺が直接現地指導である。


 ちなみにだが、二百年近く前に治部少輔だったあの方石田三成の領地もこのあたりなんだよな。何かの因縁かね……?


「殿もじきに到着いたしましょう。それまでよろしくご指南くだされ」

「承知仕った」


 使者の一行より早く出立したのは、俺が形ばかりの同行者で、ある意味フリーハンドであることも理由だが、どうせ京都に行くのなら、ついでの用事も済ませようと思ったこともあるんだ。



 ◆



<彦根に向かう少し前>


「ようこそお越しになりました」

「庄屋殿、世話になる」


 美濃路を北上する途上、俺は寄り道をした。


 向かった先は美濃国各務郡島崎村。徳山分家、つまり俺の実家の領地だ。


 旗本の場合、一部の交代寄合と呼ばれる家以外は生涯領地に赴くことは無い。俺の場合は農産指導のために時々出歩いているが、これは所領が相模や武蔵と近場にあり、かつ家基様のお許しがあるから出来る芸当なわけで、普通はあり得ない話で、当然親父殿も美濃の所領に足を踏み入れたことはない。


 なので折角西へ向かうのであればと、この機会に寄ろうと思った次第だ。菩提寺は江戸深川にあるけど、こちらはこちらでご先祖様を祀る寺があるから、故郷ではないけど帰省みたいなものだな。


 ついでに言うとこの土地の農作がどんなものか見てみたいと思ったのもあって、養子殿が跡を継いだ徳山の家に断りを入れて訪れたのだ。




「この村は田んぼより畑の方が多いのだな」

「へえ、この村は稲の育ちが良くありませんので」


 各務郡は木曽川が近くを流れていて、水資源には困らない土地なのだが、昔からどうも米の取れ高が良くない土地だと聞いていた。


「たしかに。この土ならそうだろうな」

「ええ、ここら一帯は痩せた土地でございまして」


 村の庄屋が言うとおり、このあたりは"黒ボク"と呼ばれる火山灰土を多く含む痩せた土地だ。


 各務郡は飛騨・木曽・赤石という山脈、未来では日本アルプスと呼ばれる山の西側。この地に限った話ではないが、大昔から火山灰の堆積があったのだろう。


 黒ボクは地の養分が少なく、水はけが良すぎるほど良いので、植える作物は選ばないといけない。というか、薩摩と同じように甘藷の栽培に比較的向いている土地だ。


「これを植えましてからは食うに困らぬようになりました」

「左様か」


 庄屋が見せてくれたのは、今年の秋に採れたであろう甘藷だ。実は俺が栽培を奨励し始めた頃、これに乗っかってきたのが田安家と堀田家のほかにもう一人いた。何を隠そう俺の親父殿、小左衛門貞明だ。




 田安家の領地を借りての実験で、痩せた土地でもそこそこの収穫が見込めると分かったものの、当初は田安家に利益誘導するため、そして成果でもって有効性を示すために、領地が近く協力関係を築ける堀田様以外には明かしていなかったのだが、唯一の例外が親父殿だ。俺は当時実家暮らしであったから、息子が何をしているか知らせないわけにはいかないからね。


 そこで親父殿も稲作による収穫があまり良くない領地のテコ入れのため、近隣にある徳山本家も巻き込んで甘藷の栽培を始めたのだ。


 実家のためであれば断る理由はないし、美濃産であれば薩摩産と同じく、江戸でシェアの奪い合いにはならないからね。




「昔は何とかしてでも稲を植えねばと、無理くり田んぼにしておりましたが、今は稲よりも実りが良いからと、畑に変えた土地が多くなっております」

「それで畑ばかりになったというわけか」

「左様にございます」


 庄屋殿の話によれば、米は比較的育てやすい場所で年貢用に最低限の量だけ栽培し、後は全部甘藷畑らしい。ついでに言えば、四圃式農法も実践し始め、それらの畑から取れた物を、今では大垣や彦根、名古屋まで運んで売りさばけるくらいにはなっているとか。


「それもこれもご先代様から"安十芋"を植えるようお指図いただいたおかげ。そしてそれを勧められた若様のおかげでございます」

「安十芋……?」

「へえ、このあたりではこれを安十芋と呼んでおりますです」


 ……なんか安納芋みたいな響きだけど、品種は確実に違う。おそらくもへったくれもなく、その安十とは間違いなく俺の幼名、安十郎から取られたものだろう。


「そのような呼び方をしておるのか?」

「はい、それはもう。ここ数年来他の村でも稲の育ちは悪うございますが、安十芋だけは変わらず収穫があります。おかげて食うに困ることもありませんし、売って金子に変えることも出来ます。村の者は有難い有難いと、若様の御名でこれを呼んでおります」


 クッソ恥ずかしいぞ。天体や植物で発見した人の名前から命名された……なんてのはよく聞くけど、まさか自分の幼名が芋の名前にされるとはね。


 たしかに飢饉の備えとして提唱したから、その目的が果たせているのは良いことなのだが、自分の名前が芋の名前になるとは……


 今はもう元服したし、治部少輔という官位も頂いているから、安十郎と呼ばれることは無いけれど、その名の由来を知れば、確実に俺に辿り着くでしょうよ。




「若様……?」

「いやすまない。まさか自分の名で呼ばれているとは思わなんだから、いささか驚いたわ」

「それだけ村の者は若様に感謝しているということでございます」

「左様か。なればこれからも安十芋が育てられるよう、良き栽培方法を置き土産にしていこう。これからも村のことを頼むぞ」

「お任せください」


 こうして、甘藷の正しい栽培方法に関する知識を村の者に伝授してから、俺は彦根に入った次第なのだ。




 しかし……何度思い返しても恥ずかしいぞ。


 島津公よ見ているか。これが正真正銘の芋侍だ。間違いなく当て擦られるだろうから、定信様や家基様には絶対に知られたくないな。

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