そうだ、京都行け
――安永九(1780)年二月
「帝と義兄弟ですな」
「治部、笑い事ではないぞ」
平蔵さんと蝦夷地の未来について語ってからしばらく後、俺は家基様に呼ばれ西の丸を訪れた。
おそらく蝦夷地の経略に関する相談だろうと思ったのだが、話の内容は昨年若くして亡くなられた帝の後継に関する話であった。
未来でも議論になっているが、皇位継承は男系男子が基本。今の上皇様は女性だが、これは当時治天の君であった桃園院が亡くなったとき、後継たる先帝が五歳と幼かったため、桃園院の姉君が中継ぎ登板するという事情によるもなので、後継に男子がいない今回は先例に漏れず、宮家の王子を帝の養子とさせる手はずとなった。
宮家というのは徳川における御三家や御三卿と同じく、帝に後継がいないとき次の天皇となる資格を持つ家であり、この時代だと伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の四家がある。その中から今回は閑院宮家の第六王子
この皇位継承の何が問題なのかというと、新帝個人の資質とかではなく、閑院宮家から帝が出たということだ。
「帝の姉君になるとは……」
「結果としてそうなっただけでございましょう」
どういうことかと言えば、家基様の許嫁は閑院宮家の当代、
以前、種が家基様の御台所に迎えられるのでは? という風聞から、大奥で毒を盛られるという騒ぎがあった。
その後、話がご破算になるとすぐに、宮家から姫を迎えるという話が聞こえてきたが、これは正確なところではなく、その前から打診をしていたらしい。
あくまで本命は宮家の姫。種はそれが不首尾だったときの謂わば保険であり、彼女の場合は家治公の養女として大名に嫁がせる手もあったからね。
そしてこの手の話は長い時間をかけて進めるものだ。毒殺未遂事件の後に風説が流れたのは、積み重ねていた協議がようやくまとまりかけたものが、ちょうど良いタイミングで重なった結果である。こちらの事情が事情だけに、話に尾ひれが付いたというところか。
将軍家が迎える正室は三代家光公以来、宮家か摂家の姫からというのが既定路線だ。
ちなみに家治公の御台所である倫子様も閑院宮家の出身で、典仁親王の妹君だ。なので家基様は養母の姪を妻に迎えるわけで、血の繋がりは無いが系譜で言えば従兄妹となる。
田安家も治察様と因子様は従兄妹なので、それほど珍しい話ではない。むしろ養母が倫子様という繋がりがあればこその婚約だったのではないかと思われる。
そして当然ながら打診したときは宮家の姫なわけで、まさか弟が帝になるなど想像もしていなかっただろう。最後に宮家から帝が出たのは百年以上前、四代家綱公の時代なのだから予測しようがないし、仮にそれを考慮していたとすれば不敬の極みというやつだもの。
「私はむしろ朝幕の繋がりを強める好機かと存じますが」
史実で徳川将軍が帝の娘や姉妹を嫁に迎えたのは、十四代家茂公と孝明天皇の妹である和宮様の一例だけ。所謂"公武合体"だ。
あれは幕末の混乱の中、朝廷を取り込むことでその権威の回復を図ろうという意図から、既に親王と婚約していた和宮様を幕府がなりふり構わず強引に嫁に迎えた話だったと記憶している。
孝宮様は弟が帝になったが故に"その姉"という箔が後付けされただけで、出自はあくまで宮家の姫だから、生まれながらに帝の娘であった和宮様とは条件が違うものの、帝と義兄弟になるという点では同じであり、ある意味公武合体が八十年近く前倒しで成立してしまったことになる。
「物心両面で色々と御配慮は必要になりましょうが、改めて幕府の権威を示すことが出来ますかと」
ただでさえ都から姫を迎えるとなると物入りになるし、帝と縁続きになればそれ以上に配慮することは増えるだろうが、政変で少なからず痛手を被った今の幕府にとって、どのみち避けて通れない以上は、権威付けのために使えるものは有効的に活用すべきだと思う。
「お主もそう思うか」
「使わない手はございますまい」
そう答えた瞬間、家基様の目がキランという効果音と共に光ったように見えた。
まさか、試されたか……
「ならば話は早い。お主、彦根の左中将と共に都へ上ってほしい」
「左中将様と?」
おいおい……なんか話がおかしな方向に進んだぞ。
彦根の左中将とは、近江彦根藩井伊家の当主である左近衛中将
井伊殿は徳川譜代の筆頭家であり、家基様が元服したときの加冠役も務めた重鎮。新帝即位に際し大役を仰せつかったわけだが、俺は格が違いすぎて城内でもすれ違いざまに礼を取るくらいで話したこともない。なのに何故俺が同行するの? という感じである。
「私、有職故実に関しては人並みしか存じませぬし、そういうのは高家の仕事かと……」
「無論高家は共に参る。其方はあくまで左中将の供をして都へ行けというだけで、参内しろとは言っておらん」
「他に何か目的が?」
「うむ。天文学者たちに会ってきてほしい」
天文学。簡単に言えば天体を観測し、その動きの性質や規則性、さらにはこれらによって起こる様々な現象を解明する学問であり、時間を把握するために欠かせない学問だ。いまでこそ当たり前になった暦も、それを正確なものとして作り上げたのは、多くの天文学者の長年の研究の積み重ねがあってこそと言えるだろう。
「会って何を」
「改暦を検討しておるは知っておろう」
「ああ、評判が悪うございますからね」
――宝暦暦
この時代の暦は太陰暦と言って、月の満ち欠けの周期が一周すると一ヶ月、そしてこれを二十九日とする小の月と、三十日とする大の月を交互に繰り返して十二ヶ月が経つと一年という仕組みだ。故にズレを修正するために閏月なんてものを設ける必要があって、正確な天体観測は欠かせない。
そして今から二十五年ほど前、八代吉宗公が新しい暦法を採用したいと考え、それまでの貞享暦に代わる暦として作り出されたものだが、施行後間もなく予測していなかった日食が起こるなど、とてつもなく完成度の低い仕上がりになってしまったらしい。
「土御門家が邪魔をしてくれたようでな」
土御門家は平安時代に陰陽師として名を馳せた安倍晴明の後裔で、代々天文道や暦道を家業とする貴族だ。この天文道や暦道というのは、どちらかというと近代的な天文学というよりはその知識をもって吉凶を占う星占い的な技術、毎年の暦作りに使われるといった類いの学問だ。
ところが、この時代は元号を変える権限は実質幕府のものだし、貞享暦を作った際に改暦の権限も幕府の天文方に移ってしまった。これが平安の時代から連綿と続く天文の大家のプライドを傷つけてしまったのか、吉宗公が病死して幕府が改暦どころではなくなったのを良いことに、自ら改暦を主導して宝暦暦を作り上げた。
吉宗公は西洋天文学を取り入れた新しい暦をと考えていたのだが、その山よりも高いプライドからか、土御門卿は幕府の天文方が提唱するこれらを容れず、宝暦暦は貞享暦をわずかに修正した程度にとどめるだけに終わり、しかもその修正が改悪だった……というのが実情らしい。
一応その後に修正は加わったものの、抜本的な改善がされていないため、以後も何度となく問題が発生したことから、さすがの幕府や朝廷も改暦を検討し始めているのだ。
「京・大坂の天文学者に会って、そのあたりの感触を確かめて欲しいのだ」
あちらには在野に優れた天文学者が多く、宝暦暦では予測出来なかった日食の期日をピタリと当てた学者が何人もいるらしい。そこで彼らに改暦に関する意見を聞いてこいとのことだ。
元々宝暦暦の評判が悪かったのは土御門卿のせいだから、今なら横やりが入る可能性は少ないだろうが、あからさまに俺が京へと向かえば面子を潰されたと考える公卿も現れるだろうから、あくまで供として向かうという体で話を進めるようだ。
「もしその者の中から江戸に来てもらえる者がおれば声をかけておいてほしい」
「どうして私にそのお役目を?」
「所司代の報告によれば、お主の名は京、大坂にも鳴り響いているそうじゃ。彼らは西洋の天文学も取り入れておるようだし、蘭学の大家たる其方が都で上るとあれば、向こうから会いに来るであろう」
未来の知識があるというだけで、俺は万能の天才じゃないのよ……どちらかというと文系人間なんで、理系は農学と医学でお腹いっぱいだし、下手したら蝦夷地開発で土木とか建築まで手を出しかねないのに、天文学まではちょっと……
ただ、必要な知識ではあるんだよな。それはどうしてかと言えば、天文学というのは時間だけではなく、位置把握にも利用できるからだ。航海術なんかだと、天体と水平線の角度を計測して自分の位置を知るなんて方法もあるくらいだからね。
そして何も海上だけではなく、陸上でもこの技術は応用出来る。何に使うかと言えば、地図を作るためさ。もっと具体的に言えば蝦夷地のそれだ。
領土を主張するなら、ここは自分たちが既に調べ上げたと言える証が欲しい。そのためには地図作成が一番だ。そのためには天文学者の協力が欲しい。たしか伊能忠敬も、天文学の知識を測量に活かしたと聞いた記憶があるからね。
「それで、即位の祝賀にかこつけて向かえと」
「そうだ、京へ行くのだ」
そうか、俺は京へ行くのか。自発的に行こうとなったわけではないが、どこかの新幹線のCMみたいだな。
しかし……家基様は何気に人使いが荒いな。無役だからって逆に色々と押しつけられているような気がする……
◆ ◆ あとがき ◆ ◆
京へ向かう治部少輔に光や
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