血の通った人間だもの
〈前書き〉
北海道の地名については読みやすさ重視で、現代語読みの漢字表記を基本としております。
◆ ◆ ◆ ◆
——安永九(1780)年一月
「大役ご苦労様でございました」
「いやぁ、まさか蝦夷地に行けなんて、最初は耳を疑ったぜ」
昨年の暮れ、平蔵さんが大役を終えて江戸に戻ってきた。
諸国巡検使という役目。そして今回はベニョヴスキーのもたらしたロシア情報が真実かどうかの調査が主だったので、蝦夷地を重点的に回っていたのだが、相手は船でやってくるということもあって、その後東北諸藩でもロシア船来航の事実が無かったかどうかを調べていたため、九か月という長旅になった。
そして、その調査報告なども時間を要したので、正月を過ぎてからようやく詳しい話を聞くことが出来たのだ。
「東北の諸藩では来航の事実は無かったみたいだ。もっとも、沖で大きな船影を見たことがあるという漁師は何人かいたがな」
とはいえそれが我が国のものか、他国のものかは判別しかねるところなので、今言えることは、あちらも現時点では蝦夷地あたりまでが確実に南進出来る下限というところだろう。
「しかし……まさか本当にロシア船が来ているとは、さすがの俺もたまげたぜ」
「そうですね……」
「何故浮かない顔をする? ロシア船が来ていると警告したのはお主であろう」
「そうなんですけどね……」
困惑もするさ。赤蝦夷風説考に書いていたことが事実と明らかになったことで、家基様からは「さすがの慧眼」と言われ、またまた評価爆上がりになってしまったんだからね。
しかし今回に関しては、俺自身ラクスマンと大黒屋光太夫が最初だと思っていたから、想定していなかった事態だ。
個人的にはもう少し穏便に話を進め、ある程度こちらの体制が整ってからロシアの来航を待ち受ける腹積もりだったから、いきなりの事態に多少困惑している。
たしかに北に目を向けてもらうために、ロシアの脅威について唱えたのは何を隠そう俺自身だ。そのために多少誇張して危機感を煽った認識もある。
なんだけど、俺が半分預言みたいに言ったことが、事実そこに既に存在していたとあって、一番の目的であった開発による農産の増加や資源の確保より先に、ロシアに対する国防みたいな負の側面が先行してしまった印象だな。
「気にすることはない。それもこれも、松前が隠し事をしていたせいだ」
「そこも困り事の一つなのです」
蝦夷地の支配者かどうかという議論はさておき、現実的に蝦夷地のこと、そしてアイヌのことは松前藩が一番よく知っている。だから本来であれば、蝦夷地探索を進めるならば、彼らの協力無しでは難しいことも多い。
しかし現実はそうではない。ロシア船来航を御公儀に報告しなかったことで、松前藩は厳しい詮索を受けている。もっともそれだけではなく、長年に渡るアイヌ人への仕置についても調べが進んでいるところだ。
隠し事がバレてあちらさんもヤバいと思ったのか、証拠隠滅を図ったらしいが、そこは鼻の利く平蔵さんだから、先回りして怪しそうな物は差し押さえたようだ。
この時代だと記録は全て紙だから、燃やして消そうとしたのだろう。これが未来だとハードディスクにドリルで穴を開けるに変わるわけだが、根本的な思考は何時になっても変わらないものだな……
その始末がどうなるかに関し、俺の関与することは少ない。意見を求められれば話は別だが、それでも最終決定は上様と幕閣の判断だからね。
「話を聞くに、中々阿漕なことをしていたようだ。致し方無かろう」
「平蔵殿はよくそこまでお調べになられましたな」
「協力してくれるアイヌの者がいたのだ。名をイコトイと申す」
イコトイとはロシア船が来航した厚岸にあるコタンの首長であり、遠く国後島や択捉島のアイヌとも繋がりがあり、周辺のコタンの中では一目置かれている人物らしい。
今回のロシア船来航に対しては、厚岸に滞在していた松前藩の者が通商を拒絶し、追い返そうと画策していたらしく、平蔵さんが着いたときは既に帰るか帰らないかくらいの段階だったそうだ。
松前藩の者は巡検使に対し、ロシア人が来たのはこれが初めてで、非常に対応に苦慮したとかなんとか誤魔化していたらしいが、その様子を見ていたイコトイ殿は、この人は松前の者より格上なのでは? と肌で感じたらしく、間に松前を介さず、密かに平蔵さんと直接やり取りをしたのだとか。
「言葉も風習も違えど、アイツらも同じ人だ。敵対しているわけじゃあるまいし、酒でも酌み交わして本音で話せば。な」
そこから話は早かったようだ。先年にロシア船が来ていたこと、それを松前が承知していたこと、そしてこれまでの交易の有り様など、様々なことを教えてもらったのだとか。
「イコトイ自身はなるべく松前と仲良くしようとしていたらしいが」
「それは村の者を守るために服従せざるを得なかったということでしょうね」
「おそらくはな」
かつて、圧倒的不利な条件で半ば収奪のような形の交易を強いられ、何度となくアイヌの人たちは反旗を翻した歴史がある。
その都度、松前は幕府の威光を背景にこれを鎮圧し、服従させられてきたのだ。
イコトイ殿は不満も多かったようだが、逆らってより条件が厳しくなれば、村の者たちを守りきれないかもしれないからと、渋々従っていたのだとか。
「最初は言うとおりにしていたようだが、俺と松前の者のやり取りを見て、ここが良い機かもしれないと感じたようだ」
「幕府が松前の味方と考えはしなかったのでしょうか」
「いや、俺たちに本当のことを話せば、お前たちの命は無いと脅かされていたらしい」
要するに松前に都合の悪いことは隠そうという魂胆だったのだろう。
イコトイ殿はそう言われ、余計なことを話すなということは、今やっていることが正しい行いではなく、平蔵さんたちに知られれば困るからではないかと思ったらしい。そこで危険を顧みず、真実を話してくれたのだ。
それもこれも、下々の者に対する平蔵さんの接し方と、相手の懐に入る手練手管によるものなのは間違いない。
「アイヌの者たちは松前にかなり搾り取られていたようだから、俺たちに対する感情は決して良くない。蜂起する機運もあったようだ」
「となると、彼らへの待遇も考慮せねばなりませんな」
「そうだな。あそこは寒すぎて米は育たぬだろうが、それを抜きにしても木材や海産物など、豊富な資源がある。開発を進めるに十分な価値はあるな」
海産物は俵物として海外交易の輸出品の柱だし、木材はもとより、これから開発を進めればいずれ石炭も見つかるはず。領有権を主張出来るよう、しっかりと足場を固めなくてはならないな。
とはいえ農地に関しては当面は厳しいだろう。稲作は絶対に無理だし、ジャガイモやライ麦あたりはいけそうな気もするが、未来だと寒冷地仕様みたいな品種改良もあるから、全てを応用とはいかないだろう。当面は資源確保を中心に、農産は時間をかけてだな。どちらにせよ不毛の大地でなくなるまで先は長い。
そして松前の処遇が不透明な今、それらを成すにはアイヌ人の協力が不可欠だ。
元々蝦夷地は彼らがコミュニティを作って暮らしていた土地だ。この先幕府の支配下だと力で押し付け、開拓民を送り込んで我が物顔で振る舞えば、松前に反旗を翻した過去の二の舞になってしまうだろう。
この時代に受け入れられるか分からないが、彼らの文化風習は尊重しつつ、こちらの制度下に組み込む。口で言うほど簡単な話ではないだろうが、最終的にアイヌ人との共生が可能な未来が作れればベストだな。
「出来るか?」
「平蔵さんが仰ったではありませんか。彼らも同じ人だと」
言語も文化も違えども、彼らも同じ人間だ。嬉しければ笑うし、悲しければ泣く。彼らの存在を尊重した上で、より良い暮らしの提案が出来るなら、我々に協力もしてくれるだろう。
「そしてロシア防衛の尖兵とするか」
「その考え方はあまり好きではないんですがね」
蝦夷地開発の構想には、アイヌ人をロシアに対する第一の守りとする思惑もある。
史実でも千島のアイヌ人たちはロシア人にこき使われていたらしいから、自身の生活が脅かされるとあれば武器を持って戦わざるを得ないだろう。
しかし今の彼らだけで防ぐのは無理だ。そうさせないためにも、我々が先にアイヌを取り込まなくてはいけない。俺自身は防衛とか尖兵というところにフィーチャーされるのは少し納得いかないのだが、そこも開発を進めていく上で避けることは出来ないだろう。
「ロシアに対する守りは必要ですが、出来るならばこちらがアイヌの者と手を取り合い、そこに確固たる営みが築かれていることを示し、手出しさせないようにするのが上策かと」
「戦わずして勝つ、か。そうだな、アイヌの生活は俺たちのそれとかなり趣が違うが、彼らにも家族はいれば仲間もいる。戦はなるべく避けたいだろう」
この時代の人ならば、アイヌなど武力で抑えつければいいと考えそうなものだが、平蔵さんが思いのほか俺の考えに賛同している。
「約束したのさ。自分たちの生活を守ってくれとな」
「イコトイ殿にですか?」
「いや、とある若い娘だ」
若い娘……まさか……
「もしかして……一晩中ご一緒に、な感じですか?」
「そうさ。温もりも肌の柔らかさも、江戸の女と変わりねえ。言葉こそ分からねえが、喘ぐ声も色っぽかったぜ。同じ血の通った人だって良く分かったぜ」
これがホントの裸の付き合い……って誰が上手いこと言えと。
平蔵さんらしいと言えばらしいが、ホントこの人は蝦夷地まで行ってもそこは変わらないのね……まさか他人の睦事を聞かされることになるとは思わなかったよ……
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