日本の中の異国

「ときにその蝦夷地に関する考察、余にも見せてくれるのであろうな」


 当面自由に動かせてもらえる了承を取り付けたのはいいが、その話の中で出た考察文の内容に、家基様がかなり興味を示されたようだ。




――赤蝦夷風説考


 それはベニョヴスキーの来航を機に、工藤さんが秘かに書き記したロシアに関する上下二巻の考察文。上巻で蝦夷地周辺の現在の状況を説き、下巻はカムチャッカやロシア本国のことを記している。西洋事情に通じた者の助力が欲しいと言われたので、俺も作成に協力したのだ。


 どのあたりに関与しているかと言えば、工藤さんの知る情報と俺が知る情報に齟齬が無いかの確認だったり、蘭書から引用するための和訳文である。


 特に下巻に関しては日本人が見知らぬ土地の話だから、蘭書の記述に頼らざるを得ず、「Algemeene Geographie」と「Beschryving van Rusland」という二冊の本を参考とした。前者は英語で言うところのジオグラフィー、つまり地理に関する本であり、後者はRuslandとあるようにロシアに関する解説書だ。


 これらは長崎通詞の吉雄幸左衛門さんから手に入れたようだが、工藤さん自身はオランダ語を読めないので、俺が代わりに翻訳したのだ。茂さんの勉強にちょうどいいと思って始めてみたが、一年足らずの時間で訳すのは結構大変だった。


 急いで取り掛かるべき課題と思ったから頑張ったが、未来知識でヨーロッパの地理を少なからず記憶していなかったら、もっと時間がかかったと思う。人名や地名は、それを固有名詞だと認識していないと意外と翻訳が難しいのよ。


 しかもまだ完成したわけではない。解体新書がそうであったように、訳文が完全翻訳かと言えばそんなはずもなく、他人にお見せするような段階ではない。


 え? 解体新書のときは中途半端な訳文でいいから早く世に出せと言ったって?


 前言撤回じゃ。自分が訳者の主体となると、曖昧な訳で出すのが忍びなくなった。特にこれに関しては外交問題に発展する可能性もあるから、出来るだけ精緻な訳にしたいと欲が出たのさ。今になるとあのときの前野さんの気持ちが良く分かるわ。


「ある程度は訳したのであろう?」

「まだ政のお役に立てるかどうか……」

「それを決めるのは父上や幕閣の者たちじゃ。それに忘れたか? 其方は『蘭書和解御用掛』ぞ。蘭書を訳し、その内容をのが仕事であろう」


 すっかり忘れていたが、たしかに表向きの役目はそれだ。赤蝦夷風説考も蘭書から引用しているのならば、見せてもらわねば困ると言われればそれはその通りだな……



 ◆



――安永八(1779)年一月


「これは真に相違ないか」

「カピタン、そして松前の者にも話を聞いておりますれば、あながち的外れではないかと」


 家基様に治察様、そして田沼親子をはじめとする幕閣の面々。彼らの視線は一冊の本に向けられていた。


 持ってきましたよ、赤蝦夷風説考。家基様に頼まれたら断ることは出来ないわけだが、まさか田沼公まで一緒に見るとは思わなかった。


「これは由々しき事態」

「ですな」




 この時代の日本は鎖国、つまり海禁政策を取っているわけだが、ご存じのとおり長崎で清やオランダと交易を行っているので、全く閉ざしているわけではないし、その他にもいくつか交易ルートが存在したりする。


 それは薩摩を経由して琉球、対馬を経由して朝鮮、そして松前を経由してアイヌという三通りだ。


 琉球や朝鮮との交易は、そこを経由して大陸の産物を入手するという目的が分かりやすいが、実はアイヌ交易でも大陸の産物が手に入ったりする。


 松前が交易するのは未来で言う北海道本島に住むアイヌ人なのだが、彼らはその先の樺太、この時代では「からとの嶋」と呼ばれている場所に住むアイヌ人と交易している。


 そして樺太に住むアイヌは、海を越えて大陸側に住む山丹人と呼ばれる人々と交易を行っていて、大陸の産物が巡り巡って松前に入り、そこから江戸や大坂に送られているのだ。これを「山丹交易」と呼ぶらしい。


 このように長崎を除いて日本の外と繋がる三つのルートがあるわけだが、蝦夷地が他の二つと大きく異なるのは相手の状況だ。


 朝鮮は言わずもがな、琉球も薩摩の影響を大きく受けているとはいえ、表向きはれっきとした独立国家であり、それぞれ通信使や謝恩使、慶賀使という形で幕府と交流しているのに対し、蝦夷地は非常に立ち位置が曖昧な土地である。


 それはひとえに、相手が国家という体を成していないからだ。国家の概念を言い出してしまうと議論が紛糾しそうだが、少なくとも今のアイヌの人たちの暮らしは、この時代の西洋人はおろか、幕府から見ても国家の体は成していないと考えるところだろう。




「ロシア人が本格的に乗り込んでくる前に探索を進めねばならんの」

「しかし父上、蝦夷地は松前が管理する土地でございますれば……」


 意知殿が言うように、蝦夷地が松前の領土であると認識している者は少なくない。

 

 それは今から数十年前、松前藩が幕府に対し、「蝦夷地は松前藩の領地であり、アイヌ人たちも自分たちが管理している」という旨の上申を行ったこともその要因の一つだ。


 とはいえ、実際は松前周辺の和人地と呼ばれる地域を除けば、蝦夷地の大半はアイヌの人たちが昔ながらの営みをする古潭コタンという村落が点在するのみで、一般的に言う統治とはかなり事情が異なる。


 ではどうしてその状況で、アイヌが松前の管理下にあると主張出来るのかと言うと、「ウイマム」と呼ばれる謁見行為にその根拠があるという。


 ウイマムとは、松前藩が各地のコタンから首長を呼びつけて藩主に謁見させる行為であり、向こうから頭を下げに挨拶に来たから、その見返りに自分たちとの交易を許してやるという、所謂朝貢貿易のような形を取ることで上下関係を明確にしていると主張しているのだ。


 朝鮮や琉球が幕府と国家同士の交流をするのに対し、アイヌは一領主である松前に服属している。となれば、アイヌの土地は松前の管理下という理論だ。


 ……正直に言って微妙だよな。実際にはその貿易だって、松前藩は運上金と売却益だけ掠め取って、実務は御用商人たちに取引の内容も含めて全部お任せにしているらしいし、およそ藩として統治しているとは言い難い。米の取れない松前にとって、この収入が藩財政の全てとも言えるものであるにもかかわらずだ。


 しかし他に蝦夷地に領地を持つ大名がいないものだから、あそこは松前のものと認識されているのは否めないし、本人たちもそう思っている。


 幕藩体制に組み込まれているようで、半分独立したような松前、確実な統制が取れているとは言い難い状態で海の外と交易するアイヌ人。蝦夷地というのは、日本という国の枠の中に異国が混じっているような状態だ。


「中々に難儀なことかと」

「蝦夷地が松前の領土などと……御公儀がいつそんなことを認めた? 神君家康公がお認めになられたのは、アイヌとの交易を行う権利のみじゃ」

「しかし明確に違うとも申しておりません」


 田沼公が言うように、幕府がそれを認めた形跡は無い。だが逆に違うとも言っていない状態で数十年経ち、半ばそれが既成事実になっている中で、外様の領地と見られているところへ幕府が手を伸ばすのは、少々骨の折れる作業になるだろうと、意知殿が懸念を示した。


「構わぬ。巡検使の制を用いる」




――巡検使


 それは幕府が大名・旗本の監視のために派遣した上使のこと。天領や旗本の知行地を監察する御料巡見使と大名領を監察する諸国巡見使の二つがあり、今回は一応外様の松前藩を監察するいうことで諸国巡見使のことを指す。


「主殿、どのような理由で使いを送るつもりだ」

「されば、数年前にあった"はんべんごろう"の書簡の真偽を確かめるため、とでも申しておけばよいかと」


 現在の巡見使は四代家綱公のとき以来、将軍就任時に代替わりの恒例行事として制度化されている。そのため、最後に諸国を巡検使が回ったのは、家治公が将軍に就任した翌年の宝暦十一(1761)年のことだから、もう二十年近く前の話になる。


 将軍就任のタイミングではないこの時期に、何を理由に巡検使を派遣するのかという家基様の問いに対し、田沼公はそれこそかつて、幕藩体制が今のように確立される前にあったような、疑義あればすぐにでも派遣するという巡検使本来の性質を使うという。


「たしかあの書簡は荒唐無稽な話であったと聞くが。治部、そうであったな」

「はい。カピタンも半分作り話であろうと。……御老中はその残り半分に真の話があるかもとお考えで?」

「無ければ無いで良い。されど、松前は一橋と親しくしておったからの」




 どうやら松前は一橋と懇意にして、色々と便宜を図ってもらっていたようだ。当然見返りとして相応の物が贈られたことだろう。そして……これは穿った見方でしかないのだが、一橋に近づいていたというだけで何か疚しいことがあったのでは? と思ってしまう。


 もちろん証拠など何もない。しかし田沼公がそれを理由に松前を調べるということは、当たらずといえども遠からずではなかろうかと感じてしまうな。


 今回の探索は、蝦夷地の状況を直に感じるための手始め……と言いつつ、田沼公の顔を見れば、あわよくばロシアが接触してきた形跡も調べられればといったところか。


 なんだけど……そう考えると、余計に松前が大人しく従うとは思えないんだよな……

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