次なる目標
これから何事も無ければ家基様が将軍となったとき、家重公が重用するよう遺言したように家治公も田沼公に託せと仰せになるはず。今回に関しては父と共に次代を担う意知殿も含めてだ。
当然改革路線は継承される。そこは家基様も異議はないだろうが、必要であれば政策に物申すことも辞さないはずだ。であれば、なおのこと田安家との連携は不可欠であろう。
政変の前後で一番の違いは、将軍や幕閣に一番近い御三卿が一橋から田安に変わったことだ。協力するフリをしながら裏で悪だくみしていた前者と、表向き田沼と険悪に装いながらも、実は是々非々で向き合う後者であれば、政策の進み具合は天地ほどの差があるだろうし、家基様にとっても心強い味方となるはずだ。
さらにはそれらを実行するための知識を多くの家臣に有してもらう必要があるので、それを担うための側近候補として、俺が適任なのだと思われているようだ。
「そこまで評していただけているとは有り難い限り。なればこそ、今しばらくこのままの身分にて働かせていただきとうございます」
評価してくれることが嬉しくないわけがない。まして相手は次代の将軍となる人だ。旗本であれば泣いて喜ぶところだろう。
だけれども、だからこそ、今はまだ俺の出番ではない。
「あくまでも無役の身で飢饉対策を進めたいと申すか」
「それもございますが、そちらは然程手をかけなくとも大丈夫なくらいには広まりましたので」
以前に田沼公と対面したとき、飢饉対策を進める理由として、「再び飢饉が発生する可能性は高い」と話したが、そのときは確実に近づいている。
「白河でも米の取れ高は良くないそうですから、それより北の方は更に厳しいかと。弟はこれに代わって寒さに強い作物の栽培を奨励し、その成果は少しずつ出始めているとか」
俺の言葉を補足するように、治察様が白河の話をしてくれた。
飢饉は再び起こる。だからこそ時間をかけ、米に代わる作物を植えようと奨励してきた。
それが定信様や上杉公、堀田公などへ広まった結果、次いで会津公や庄内藩の酒井公、蘭画繋がりで秋田の佐竹公などからも教えを請われるようになり、さらにそこから周辺の諸藩へも伝播している。
そして関東でも麦や芋の生産が進んでいるし、以前に提唱した四圃式農法の真似事みたいなものも始まっているから、史実と比べて食糧事情は少なからず改善しているはずだ。食べる側の都市部でも、新しい食材と料理を広め、受け入れる下地は作った。
「よって私が要職に就いて、これを主導するには及びません」
上杉公のように明敏な領主は、米作中心の農業に限界が近いことは察しているし、そうでなくとも、昨今の農産量の減少に危機感は抱いているだろう。
そこへ寒さや干ばつに強い作物の話を聞けば、試してみるかと考えるはずだ。実際にこれらが広まっているのはその証だと思う。それでも我関せずの領主に関しては公儀の政策として強制させてもよいが、個人的にはそんな無駄な時間を費やすくらいなら、やる気のある人たちの力になる方が優先と考える。
「御公儀が手を下さずとも、既に仕掛けは進んでおりますれば、増産を図る藩は自ら進んで栽培に取り組みます」
「それがひいては飢饉への備えになると」
「御意」
「では他に何をしたいのだ」
「……蝦夷地、そしてその先にあるロシアのこと」
その国名を口にした瞬間、一同に何とも言えない緊張が走った。
俺がロシアを名指ししたのは、未来人の知識によるものだ。
無論イギリスやフランス、時代が下ればアメリカもやって来るから、その情報も仕入れたいが、欧州はこの先フランス革命からナポレオン戦争でそれどころではなくなるし、アメリカも西海岸に到達するまでにはもう少し時間がかかるから後回しでも良い。だが、ロシアだけは別だ。
知る限りでもそう遠くない将来、大黒屋光太夫を連れてラクスマンが来るし、その次にはレザノフとかゴローニンとか、この時代の日本史の中ではロシア人の名前が出てくることがよくある。それだけ接触した機会が多いということだろう。
史実では国交が開かれることはなかったが、仮に交流するとなれば一番問題となりそうなのは、ロシアとの国境が曖昧なことだ。
「聞けばロシア人は既に大陸の東端にまで達し、海を越えて南、つまり蝦夷地にも手を伸ばしております。このまま曖昧な扱いをしていれば、全てロシアに奪われてしまう恐れがあります」
実際に目で見たわけではないが、カムチャッカは既にロシアの統治下になっているようだし、そこから南下してくる毛皮商人も既に存在しているだろう。放っておけば取り返しのつかないことになる。
「そのためにロシアのことを調べたいと」
「御意」
「それならば、公儀の命として成せば良いのでは?」
「蝦夷地の調査についてはそれでもようございますが、ロシアの話となると、飢饉対策など比べ物にならぬ程に雲をつかむ話でございますれば、慎重に事を運ばねばならないかと」
飢饉の到来も同じく仮定の話だが、多くの人々が過去にそれを経験しているから、あながち法螺吹き話でもない。だが西洋に関する考察は、今のところ俺から話を聞いたことのある一部の人間だけしか認識していない話だ。
故に今それを唱えても、要らぬ憶測と不安を煽るだけとなる。貿易や国交を求めてという段階をすっ飛ばし、いきなり攻めてくると認識するような短慮な者が現われれば、黒船来航時と似たような状況になってしまうだろう。
そして残念ながら、この不安を払拭出来るほどの知識を俺も持っていない。肝心な現時点の西洋事情、それも教科書などでは知り得ようもなかった細かいところに関しての生の情報は入手経路が限られており、これらと未来知識を融合して、それらしい推論を導くにも材料が不足しているのだ。
この時代にあっては比較的西洋事情に通じているはずの島津公ですら、そこまで思い至っていなかったのだ。蝦夷地を開発するという構想は農地拡大などの理由付けも出来ようが、その先にあるロシアに対する備えであることを、現時点で何も知らない者たちに明かすのはリスクが高すぎると思う。
「現在、ロシアに関する考察文を推敲しております」
「左様か。して、其方は蝦夷地をどのようにしたいと考えておるのだ」
「可能ならば人を送り込んで開拓し、新たな農地と住まいを造れればと」
「下手に人を送り込んで住みやすくしてしまうと、却って狙われる危険はないか」
「いえ、既に他国の手によって開発がなされている土地を初手から強引に奪い取りに来ることはしないでしょう」
未来でも日本とロシアは北方領土問題などを抱えており、油断ならぬ相手と見られているが、この時代のロシア極東にはそこまでの軍事力は備わっていないだろうから、こちらが蝦夷地を開発し、そこに確固たる営みを築いているとなれば、向こうも第一の目的は貿易だろうから、そう簡単に武力をもって……という確率は低いはずだ。
「しかし国家の体を成していない者たちが暮らす地であれば、彼らは容赦なく土地を奪い、そこに街を築きましょう。やがてその営みが何年何十年と続けば、その実績をもって他国もそこはロシアのものと認知します。後から我らの土地だと言ったところで、統治した実績が無くば認められることはありません」
無論最初から攻撃的に来ることは無いと思いたい。だが足を踏み入れたそこに、近代的な生活が存在しないと知ったら……彼らは間違い無くその土地を己がものとするであろう。それを防ぐには彼らより先に蝦夷地の調査を始め、日本の土地であると明確にしなくてはならない。
そこに関しては公儀の政策、言い換えれば俺が直接関与しなくても進めることは可能だろう。だけどその先にある話は、西洋事情に通じ、蘭語を解する者が手掛けた方が進みが早いはずだ。
「なるほど。源内とやらが申すように、我らには見えぬ先を見通しておるようじゃ。されど強情を張って三万石を棒に振る必要はなかろうに」
「治部殿、その通りですぞ。あまり固辞しすぎると、其方が衆人から要らぬ疑いの目を向けられたり、恨みを買ってしまいます」
信賞必罰。大罪を犯した一橋などが取り潰しとなったように、功を挙げた者はそれに見合う恩賞を与えなければ主従関係は維持できない。
もし俺が恩賞は要らぬと断ったことを知られれば、奥ゆかしいとか謙虚という以上に、恩賞を受けないのには何か疚しい理由があるのでは? とか、後の世の論功行賞で、大功を挙げた藤枝治部は加増すら固辞したと悪しき前例に使われてしまうことで、俺が恨みを買う可能性も考えられる。意知殿はそう言いたいのだろう。
「其方が何をしたいのかはよう分かった。余はそれで良しと考えるが、なればこそ偏諱は受けてもらわねば、家臣たちに示しがつかん」
――コイツは俺が信頼する家臣だからな
どうやら経緯を聞くに、意知殿から俺が加増を断る可能性を指摘され、ならばそれ以上に見合う恩賞はと考えて、家基様は己の名を与えることにしたのであろう。
それが何を意味するかと言えば、俺という存在の箔だ。たとえ加増が無かったとしても、その一文字だけで俺が容易ならざる人間だと明確に示すものとなる。未来を生きていた人間の感覚だと今一つ実感の湧かない部分もあるが、その効果は間違いなく絶大なのだと思う。
「大納言様のご配慮有難く頂戴します。必ずや結果で応えて御覧に入れまする」
反面、名が売れ過ぎることに加え、将軍家の庇護にあるという事実が却ってややこしくしてしまう可能性……つまり、相手が身構えてしまって、ざっくばらんに話をする土壌が作りにくいという点は否めないが、俺の立場を考えた上での配慮であると言われては断るわけにいかないし、受けた以上は結果でもって示すしかあるまい。
「そのときの功が見合うものであれば、五万石でも十万石でも頂戴いたしましょう。それまで、加増の件は先延べにてお願いいたします」
「大きく出たな。相分かった、しばらくは今の身分のまま必要な情報を収集せよ。されど一人で背負う必要はないぞ」
「有難きお言葉」
「困ったことがあればいつでも余を頼るがいい。なにしろ治部は余の偏諱を受けた最初の男であるからの」
「畏れ入ります」
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