異例の偏諱

「これよりは名を改め、藤枝治部少輔基行もとなりと名乗るがよい」


 満座から再びどよめきが起こる。それは治部少輔任官を告げられたときよりも確実に大きいものながら、声の内側に「何故……?」という疑問の色を含んだものだ。


 だろうな……正直、俺も何を言われているのか意味が分からん。


「偏諱を与えられるのは限られた大名のみであるからな」


 困惑した表情を見て、家治公は俺が驚くのも無理はないと仰せだ。


 たしかにそれもあるのだが……




――偏諱


 貴人や主君の二字名のうち、通字ではない方の字を名乗ることは避けるべきであるという習慣から、その文字のことを「へんき」もしくは「かたいみな」と呼ぶ。


 徳川将軍家で言えば通字の「家」ではない方の字、家治公ならば「治」がこの偏諱にあたるので、諸侯はこの字を己の名乗りに使うことはしない。


 しかし逆に言うと、これを名乗ることが叶うのは臣下として名誉なことだから、主君がその名乗りを許すという事例がある。だからこの時代の大名には重○や治○という人が多いのだ。


 とはいえ、これは基本的に御三家、御三卿のほか、一部の国主級大名が元服もしくは家督継承したときなどに限られ、他は特例として大功を上げた者が一代限りで拝領するくらいだ。俺の場合は後者に該当するので、それだけでも異例である。


 それでもだ。現時点の主君は家治公なのだ。世継ぎと定まっているとはいえ、家督を継いでおらぬ家基様が名を授けるというのは、更に輪をかけて特別も特別。異常事態と言ってもいいだろう。




「治部、何か不満でもあるか?」


 俺の顔を見て、田沼公が怪訝な表情をする。言葉にしないまでも、その顔は何故喜ばないのかと言っているようだ。


「主殿、そう責めるな。治部も状況が飲み込めないのであろう」


 そして、再び家治公が口を開いた。


「本来ならば、余の"治"の字を与えるが筋なれど、此度は大納言がどうしても自分の名を与えたいと言って聞かんのだ」

「大納言様が……?」

「命を救われたのは自分なのだから、その恩に報いるには己の字を与えたいのだとな。治部少輔こそが己の命の恩人であると示したいのだそうじゃ」

「勿体無いお言葉」


 ……と言うしかないよな。普通なら断ることなどあり得ない話であって、与える理由も明白だ。


 それに特別にとは言うが、家治公がそれで良しとしているのだから、前例とか慣習というものがあることを承知の上での判断であろう。


 受けるしかないよな……






<西の丸>


「参ったか」

「治部少輔殿の御成であるな」


 家基様に御礼を申し上げようと西の丸にやって来れば、治察様や意知殿と一緒に待ちかまえてニヤニヤしておられた。


「大納言様には過分のご温情を賜り……と申し上げたいところですが、如何なることでしょうか」

「ん?」

「ん? ではございませぬ。何の先触れもなしに偏諱を与えると申されても、さすがに何が何やらで……」

「従五位くらいで済ませるわけがなかろう」


 やはりか。あのとき家基様の顔は何となく納得していないような感じだったからな。


「しかもお主、一つ嘘をついておるな」

「そのようなことは……」

「功を上げて後、忍城を貰い受ける。故に治部少輔を名乗るなどと尤もらしいことを申しておったが……そのつもりなど毛頭無かろう」

「い……いえ、まさかまさか……」

「目が泳いでおるぞ」


 気付かれてる……たしかに家基様とは初対面から仕官イヤイヤで始まったから、そう思われても不思議ではないが……


「忍城を貰い受けるつもりなら、此度の恩賞で素直に受け取るであろう。それを理由付けして先延ばしするという時点でお主にその気が無い証ではないか」


 その通りだ。俺が治部少輔を望んだことに実は大して意味はない。何か恩賞を受けろと言われたから官位を望んだだけだし、何が良いと聞かれたから、なんとなく知っている官位名の中からカッコよさそうな響きのこれを選んだだけだ。


 石田三成が受けた官位を敢えて受けるとか忍城をとか言うのは、単なる後付けの理由でしかない。どうやら俺が口八丁で誤魔化そうとしたこと、家基様は勘づいていたらしい。


「大和が申した通りであったわ」

「大和守殿が……?」

「いやな、源内殿が申しておったのだ。藤枝殿は自分よりも未来が見えている。だが見え過ぎて余人には理解されるのが難しいことも知っているとな」




 どうやら源内さんは俺のやり口を見て、何かを広めるようとするときは自ら表立って動くことはせず、その筋で顔の広い者に狙いをつけ、そこを調略することで物事を進めようと見ているらしい。


 故に自らが大名や幕閣の要職という目立つ場所に置かれるのを好まず、話があれば断る方向で考えるであろうと意知殿に吹き込んでいたようだ。


 概ね正解だ。名を上げるために勉学に励んだのは確かだからな。


 しかし……初手でそれに目を付けてくれたのが宗武公だったのはいい意味で誤算だった。その権力を存分に使わせてもらったことで、思った以上に話が進んだからね。


 虎の威を借る……と言うとネガティヴなイメージだけど、やったことは間違っていないと確信している。だが、関わる人物としては大物過ぎた。結果が出れば、当然それより上の立場の人たちに知られることになるが、宗武公の上となると……将軍様くらいしかいないものな。




「それ程に役付きになるのが嫌か」

「そういうわけではございませぬが……」


 うーん困ったね。研究に注力したいというのは、半分本心だが残り半分は建前のところもある。


 なにしろ後数年で、大飢饉に浅間山の噴火、そしてこれを起因とする利根川の水害など、様々な天災に見舞われることが分かっている。一橋を潰すことで歴史を変えてしまった部分はあるが、自然災害まで時期が変わるとは思えない。


 なので、今しばらく自由に動ける身分でありたい。役に就けば管轄外のことに口出しは難しいし、大名になればそれ以上に他領のことに関与など出来なくなってしまうのだから。


 とはいえ、それが役職に就かない理由とは言えないしなあ……


「逆にお尋ねいたしますが、何故に私をそれ程までに買っていただけるのでしょうか」

「治部殿は案外己の価値を理解しておらぬようだな」


 意知殿が言うには、甘藷やパンなどの普及に蘭書の和訳、極めつけは家基様を死の淵から呼び戻したことなど、いずれも称賛されないほうがおかしいとのこと。


 まあ……そうでなければいきなり三万石の大名にはしないか。ほとんどは実質無役の旗本として個人的に動いた結果だが、だからこそ取り立てるに値するということだろう。


「亡き中納言もその才を認めたればこそ、娘を嫁がせたわけであろう。のう大府卿」

「まあ……そこに関しては、それだけではありませんが……」


 治察様、なぜそこで言い淀むのですか……変な勘違いをされてしまうではありませんか。


「治部、余が跡を継いでも、しばらくは老臣が幕政を担うことになる。世継ぎとは申せ、余は厳しい立場なのだ」

「大納言様、父は私心無く、ひとえに御公儀のために……」

「大和、主殿頭やお主が何を目指しているかは分かっておる。だがその先は如何する?」

「先……とは」

「お主の父とてそう若くはあるまい」




 精力的に動いているが、田沼公も今年で還暦。この時代にあっては十分におじいちゃんと呼べる世代だし、協調して政務にあたっている老中首座、上野舘林藩主・松平武元たけちか殿は田沼公よりさらに二つほど年上だ。老中という重責にあって毎日心身をすり減らしているのだから、いつまでもその席にいるとは考えにくい。


「重臣たちの要となる者たちがいなくなったとき、誰が政を担う?」


 常識的に考えて、路線を継承するなら意知殿であろう。だが彼もようやく三十路に入ったばかり。幕閣ではまだまだ若い年齢だから、現在田沼公に協力する者たちの中から新たに老中首座となった者を中心に政務が遂行され、後々役回りが巡ってくることになるはずだ。


「大和。次の世代を担う者で、頼みとなる者はいるか」

「残念ながらそれほど多くはありません」


 意知殿の言葉には眼鏡に叶う者、つまり新たな政策に対する認識を正しく持つ者が少ないという意味に加え、家基様の周囲に頼れる側近自体が少ないという意味も含まれている。




 あの変事の際、これまで西の丸付きの要職にあった者たちが、悉く今回の政変に加担し処分された。本来ならば五年後十年後、家基様が将軍となったときに幕閣の要職を担うはずだった者たちだ。


 そして企みをを知らなかった近習小姓や小納戸たちの中にも、彼らに動きを遮られて思うように動くことが出来ずお役目を果たせなかったとして、本人もしくは家長から暇乞いという形で職を辞した者が少なくない。罪を犯したわけではないが、どこでとばっちりを受けるか分からないから、その前に逃げの手を打ったという者も多いだろう。


 そんなわけで新たな人材の登用を進めているが、如何せん皆若く、老臣たちや諸大名と張り合うには経験の足りなさは否めない。


「余も主殿頭の政策に思うところは多くあった。だがそれが何を目指し、どのような効果をもたらすか、治部が指南してくれたればこそ、老臣たちと政策に関する深いやり取りが出来たというものだ。今後も御政道を過たぬよう、また若い者たちを教え導くためにも、治部が側に居てくれねば困る」

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