【他者視点】蘭学の化け物(島津重豪)

〈前書き〉


時系列的には、宗武がわざと死の床にあると策を弄した直後の話です。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「さしずめ……戸部尚書の話であろう」

「お察しの通り」


 いつもは儂が招くばかりであった藤枝外記が、今日は珍しく自ら三田の我が藩邸を訪ねてきた。


 となれば、何が目的なのかある程度察しが付くというもの。それを口にすれば、外記は特に驚く様子もないので、そこまで見越してやって来たということだろう。


「して、何を頼みに参った」

「一橋と手を切っていただきたく」


 場の空気が何となく剣呑に感じられる。自分でそういう空気にしておいてなんだが、いきなり手を切れと言われれば、そうなるのも致し方ないところだ。


「戸部尚書は我が義弟にして、於篤の義父であるぞ。正気か」

「大納言様を害さんとする逆臣でもございます」


 ……ほう。そこまで調べが付いておるか。どこまで知っているか分からぬが、言葉にしてぶつけてきた以上、憶測や妄想というわけではないだろう。


「……儂に何をせよと」

「一橋より助力の求めがあれば、これを受けるフリをして、実際は静観していただきたく」

「そしてそれを田安家に伝えよと?」

「いえ。静観するだけで結構でござる。薩摩守様にはその後の仕上げに」


 話を聞けば、企みは田安家にて鎮めるゆえ、その後に一橋を糾弾する際の切り札として儂を使いたいと言うではないか。


「潰すか」

「左様。奸臣を放置しておけば、この国のために良からず」


 危険な賭けに出たの。もし儂が既に戸部尚書に同心しておれば、全て筒抜けになるのだからな。


「もしそうであれば、私を屋敷に招きはしますまい」

「単に道楽のために呼んだだけとは考えなかったのか」

「今は道楽でも結構。されどこの先もこの国がこの国であるためには、西洋の考え方を知ることは有意であり、それを成すには島津様の力が必要なのです」


 そう言うと、外記は部屋に飾ってあった地球儀を手に取り、儂に見せてきた。




「既にご承知おきかと存ずるが、これが我が国にございます」

「そのようじゃな。随分と小さく描かれておるがな」

「いえ、多少の大小はありましょうが、これがこの広い世界の中に占める、我が国の姿にございます」


 その地球儀はオランダ人から購入したものだが、儂はどうにも日の本が小さすぎやしないかと疑っておった。だが、外記はそれがたしかに我が国の姿だと断言しおる。


「この小さき国の中で権力を握らんと争いを続ける間に、西洋はどんどんと勢力を広げております。薩摩守様はオランダ船をご覧になったことはございますか」

「長崎で見たな」

「それを見て、どうお感じになりましたか」


 どう感じたかと言えば、大きいの一言だ。我が国で最も使われている千石船など比べものにならないくらいだ。


「ええ。しかも彼らの船には、賊が現われたとき、自衛するための大砲も備わっております」


 その数は商いを主とする船ですら十から二十門。これが戦に特化した船となると、七十から八十門はあるという。


「今西洋では、イギリスの支配地であったアメリカという地で、独立を目指してイギリス本国と現地の民が戦を行っております」


 その戦の話は儂も聞いている。今はまだ本国と属国の内乱という枠を超えないが、いずれ西洋各国がその戦に介入する大戦となる。言うなれば琉球が独立を望んで蜂起したとき、幕府が介入してくるようなものだろう。


 そうなれば周辺地域同士でも戦になるやもしれず、しばらくは我が国へ渡来する余裕など無いが、戦の決着が付けば、再び西洋の船が現われることになるだろうと、さも見てきたかのように外記は言い切りおった。


「その根拠は」

「勝った側はその余勢を駆って勢力を広げるため。負けた側は失った物を補うため。どちらにせよ自国の外に富を求める理由があります。そして、その矛先は唐、天竺、そして我が国です。薩摩藩は奄美や琉球の情勢には詳しいはず。それらの島々で、オランダではない国の船が近くを航行したという話は聞いたことはございませぬか」


 無い。と言いたいところだが、船影を見たという者は少なからずいる。調べによって船に掲げられた旗がオランダのものではないことも分かっている。


「それが再び多く押し寄せることになります。最初は貿易を求めるためだとしても、この国が攻めるに易しと見なされれば、何十門もの大砲を積んだ戦船が列を成して我が国に来ることでしょう」


 これまでそのようなことを考えたことすら無かった。異国の船は全て長崎に寄港するものとばかり思っておったが、外記に言わせれば我が国は四方を海に囲まれており、来ようと思えばどこからでも寄ってくることが出来るのだと。


 そして今の我らには、それらが港の近くに来るまで防ぐ手立てが無いということも……


「イギリス、フランス、そして独立を勝ち取ればアメリカも早晩我が国の近海にやって参りましょう。そのとき、まず狙われるは琉球、奄美などの群島、そして九州です」


 たしかにオランダ船がやってくるバタヴィアや唐天竺に九州が一番近いのは事実だ。だが……


「そう易々と攻め込まれるとでも? 薩摩隼人を甘く見るな」

「無論簡単な話ではないでしょう。この国が一枚岩で団結しておれば……の話ですが」


 この国ではそれぞれの藩がその土地の司政を任されている。それは言い換えれば、隣の藩であろうと政に口出しは出来ぬと言うことだ。


 故に我が薩摩が万全であっても、例えば肥後熊本や日向の小藩などが狙われ、そこを足がかりに……とされれば、たしかに安穏とはしていられないな。


「さらに、押し寄せる西洋は南からだけに非ず。北からもロシアと申す国が近づいております」


 外記が地球儀の一点、オランダより北東に位置するロシアという国を指す。これが大陸を東へ東へと進み、既に清国の北方まで到達しており、海を越えれば蝦夷地まで間近というところまで迫っているという。


「諸大名が統治する九州は統治の方法さえ間違えなければ大丈夫でしょうが、蝦夷地は時間がかかります」

「故に南は儂を頼り、御公儀は北方の防備を固めたいと」

「私案ではございますが」

「だが、それがこの国を守る一助になると考えてのことであろう」

「然り。されど要らぬ内輪揉めで国が乱れればそれどころではなくなり、手をこまねいているうちに次々と侵食され、いずれ日の本の民全てが西洋人にくびきをかけられることとなるやもしれませぬ」


 そのためにも国を乱す者は排除せねばならないという外記の言葉には一理も二理もあるように思われるが、それで我が島津が動くと考えておるのだろうか……




「徳川が我らを警戒しておるは知っているであろう」

「元より承知」

「なれば、儂が証言をして戸部尚書の罪を明らかにしたところで、我らも一橋の一味と見なし、罪を着せるのではないか?」


 宝暦治水のときもそうであった。幕府は言うことが二転三転し、その都度我が藩は苦しめられた。おかげで何十万両という借金を作る原因となり、多くの忠臣を失った。だからここで儂が承知しても、家臣の中には納得しない者も多かろう。


「ご懸念なく。田安中納言様より文を預かっております」


 外記が差し出してきた書状を見れば、そこには宗武公が我が藩に害が及ばないよう配慮すると書かれてある。


「中納言様は起きることも叶わぬほどの重病と聞くが」

「ああ……薩摩守様はそのように聞いておられたのですね」


 ……外記のニヤリとした顔を見れば、してやられたなとしか言い様がない。一橋はそのつもりで動いているわけで、外記の言うことが確かなれば、その前提が全て覆ることになる。


「謀ったか」

「お互い様にございましょう」


 そもそも先に手を出したのは一橋の方なのだから、そう言われれば返す言葉は無いな。だが中納言様が良しとしても、幕閣、特に主殿頭は納得するとは思えないが。


「田沼公の政策には、個人的に納得出来るものも多くございますが、やり方が宜しくありません。これを諫め、正しく国を導くために、協力者は多い方がありがたい」


 なるほど……田安家も少なからず因縁がある。一橋がいなくなって田沼が増長せぬよう、釘を刺す必要があるということだな。


「だが、そのためにわざわざ外様を御政道に関与させるか」

「一橋の天下となれば、薩摩守様は未来の将軍の義父となられたのです。黙っていればその座が転がり込んでくる方を引き込むには、多少の出血は覚悟せねばなりますまい」

「多少の出血で済むかのう」

「大きな血を流した末、徳川島津の双方が倒れ、西洋の良いように国を蹂躙されるよりはよろしいでしょう」




 フフフ……面白いことを言う。


 外記の話は実に荒唐無稽だ。おそらくこの国のほとんどの者が、それを聞けば法螺吹き呼ばわりすることであろう。


 だが、カピタンから西洋事情を聞いている儂にすれば、全くの出鱈目とも思えん。


 我らを引き込むために多少風呂敷を広げている部分もあるせいか、半分以上は知らぬ話であったが、この男の蘭学に関する知識量を知っておればこそ、それほど誤った予測ではないだろうとも感じる。


 そして……外記は儂ならばそれを踏まえた上で判断出来ると見込んで話を持ちかけたのだ。他の誰でもなく、儂を引き込むための説得材料として、余人では理解し難いその話を持ち出したのだ。


「良かろう。所領が安堵され、田安家や其方と誼が結べるというのであれば……」

「お受けいただけますか」

「島津は今後一橋に同心はせぬと約そう」

「心強い限りにございます」




 面白い、実に面白い。


 蘭学を修めるのは農業や医学のためと聞いておったが、海の外の動きまでしっかりと見据えておる。


 それはオランダ人から聞いた話に加え、書物文献などを複合して導き出した、おそらくこの国では外記以外の誰も知ることの叶わぬ話。自身の目で見たわけでもないのに、これほどの見通しを立てられるとは……


 まさに、藤枝外記は蘭学の化け物じゃ……




◆ ◆ あとがき ◆ ◆


 「蘭学の化け物」は、豊後中津藩主・奥平昌鹿が家臣である前野良沢のことを称した言葉で、良沢もこれを気に入って自らの号を「蘭化」としたのですが、本作では外記に与えることにします。

 しかし……重豪の独白が湯○教授みたいになってしまった……


※宝暦治水

 宝暦四(1754)年から五年にかけて行われた木曽三川(長良川、揖斐川、木曽川)の治水工事。幕府から手伝普請として薩摩藩が命じられ、この難工事を完遂した。

 しかし、これによって大きな借金を抱えることになったほか、工事中に病死や事故死、幕府に対する抗議の自刃などで多くの家臣を失い、工事の指揮者であった家老の平田靱負ゆきえは、責任を感じて工事完了後に自刃(公式には病死とされ、自刃したことは伏せられた)するなど、薩摩藩にとって大きな痛手となった出来事である。

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