東海寺の変(後編)

「待たれい! 待たれよと言うに!」

「控えよ! 某は田安中納言様の命で罷り越したものである!」


 西の丸へ向かう俺たちの前に、行く手を阻まんと番士たちが立ちはだかるが、俺が三つ葉葵を掲げれば、面白いようにその動きが止まるものだ。


「治察様はどちらに」

「こっちだ」


 平蔵さんの先導に従って大広間へと向かうと、何やら言い争う声が聞こえてきた。片方の声の主は治察様で間違い無さそうだ。




「裁きなど待たずとも切腹、いや、打首に処すべし!」

「何度言えば分かる。事情も分からず、お調べも無く処断するが法に則ったやり方か!」

「大府卿様は何故に庇われる!」

「罪を明らかにするにせよ、段取りを踏めと申しておるのが分からぬか!」


 随分と激しくやり合っているね。若いとはいえ、田安家のご当主によくもあんな物言いが出来るものだと思うが、それこそ証だろう。


「各々方、お平らに!」

「何奴!」

「西の丸付蘭書和解御用掛、藤枝外記。田安中納言様の命により参上いたした」

「中納言様の……? 馬鹿な、中納言様はご危篤であられると……」

「これを見てもそう思うか」


 葵御紋の登場で場の者が平伏する。まさか何年も前に賜った物とは知らないだろうから、この機に宗武公の御意を示すものとして預かったと言って疑う者はいないだろう。


「外記、どうしてここへ?」

「大納言様をお救いせよとの言付けにて。大府卿様も同道されたく。また雲伯殿にも随行を」

「なんだと! その者は大納言様に毒を盛りし罪人ぞ!」

「そうと決まったわけではございますまい」


 話を聞けば、薬を投与したのは家基様の体調が悪くなってからなのだ。その前後関係を有耶無耶にしたまま処断させるわけにはいかない。


「大納言様が体調を崩されたときの状況、そして服用した薬の中身など、その場にいた池原殿に聞かねば正しい治療は出来ませぬ。処断せよと申すは、それを邪魔立てするに等しい行いですぞ」


 回りくどい言い方だが、それが家基様の助かる可能性を減らす行為であると言えば、さすがにそれ以上文句を言うことも出来ず、その場にいた者は皆押し黙ってしまった。


「されば、大府卿様」

「よし、急ぎ参ろうぞ」


 こうして第一関門は突破出来たが、あの場にいたのは小禄の旗本御家人ばかり。寄合席にいる者もそう多くなかった。


 ということは、次にそういうのがいるんだろうな……




「中納言のお言葉とて、これより先に進ませるわけには参らぬ」


 やっぱりいた……家基様の元へ急ぐ俺たちの前に、大名クラスが立ちはだかった。


 西の丸老中・武蔵忍藩主、阿部豊後守正允まさちか、同じく西の丸若年寄・越前敦賀藩主、酒井播磨守忠香ただか、そして奏者番・出羽山形藩主、秋元摂津守永朝つねともの三人だ。


「豊後、播磨、摂津、何故に行く手を阻む」

「それはこちらが伺いたい。何故に大納言様の元へ参られるのか」

「治療をするためではないか」

「はて? 治療ならば御典医が既に行っておりますれば」


 豊後守がトボけた口ぶりでうそぶく。御典医が治療にあたっているのは確かだろうが、名を聞けば実力に疑義のある者ばかりだ。


「その割には千賀や桂川など、特定の者が省かれているのは如何なることか」

「主殿頭の息がかかった者は外せとの上意でござる」


 治察様の詰問に摂津守がにべもなく返答した。その口調から、田沼嫌いなのがありありと見て取れる。


 実は秋元家の先代涼朝すけとも殿は宝暦年間の末に老中を務めていたが、ちょうどその頃は田沼公が権勢を握り始めた時期と重なる。


 涼朝殿は田沼公の専横を快く思わず、事あるごとに対立し、後に抗議の意味を込めて老中を辞したそうだが、それから数年後に要衝である武蔵川越から出羽山形に転封となった。


 表向きは結城松平家が居城としていた上州前橋城が利根川の洪水によって崩壊の危機に瀕したため、そのたっての頼みで国替えしてもらったとの話だが、世間では田沼公の報復人事によるものではないかと囁かれているのだ。


 まあ……嫌いな相手を僻地に飛ばすなんて、未来でもよくある話だからな。気持ちは分からなくもないが、あからさま過ぎる。


 そんなわけで代替わりしたとはいえ、秋元家が反田沼であることは間違い無さそうだ。




「この外記は江戸一番の蘭医、種の一件でその実力は豊後とてよう知っておろう。我らとて主殿頭には痛い目に遭わされているのだから、お主らの懸念も関係ないはずだ」


 種の一件とぼかしたが、阿部殿は十年近く西の丸老中を務めており、あのときも事件を間近で見ていたから、それが何を意味するか知らないわけがない。


 だが、豊後守はにべもなく治察様の申し出を拒否した。


「それはそれ、これはこれでござる。如何に実力があろうと、御典医でない者を大奥へ入れるわけにはいかぬこと、大府卿様ならとうにご承知でありましょう」

「左様、それに大府卿様の疑いも晴れたわけではございませぬゆえ」

「播磨……私が指図したとでも言いたいか」

「滅相もない。ただ状況的にそういう疑念を持たれても致し方無いのは事実にて」


 世の中には裏の裏を読む者は多い。播磨守の言葉は謙りながらではあるが、治察様が同行したのはそういう理由なのではと疑う色が含まれていた。


「ともかく、大納言様の治療は御典医が担う。これは上意にございます。お引き取りを」

「左様。上意である以上、中納言様の仰せでこれが覆ることはありません。そもそも本当に中納言様の命によって参ったのかも怪しいですからな」

「上意上意と馬鹿の一つ覚えだな……其方らは上意だからと唯々諾々と聞くだけが仕事と思っておるのか?」

「……なんと?」


 取り付く島も無い三人の対応に痺れを切らした治察様が、やや怒気をはらんだ声で問い詰め始めた。


「今、最も大事は大納言様のお命を救うこと。そのため必要なことに手を尽くすが臣下の務めであろうが。あれは駄目、此奴はいかんと排除し、形式格式ばかりを重んじるその姿、真に臣下たる者のあり様か!」

「じ……上意にござるぞ!」

「されば! 上様の仰せに疑義があれば、お諌めするが其方らの務めであろうが!」

「なんと! 田安公は上様に逆心ありと仰せか!」

「ほお……何がどう逆心と取れるのか分からんが、其方らは余が佞臣姦臣だと言いたいのか?」


 治察様の熱に圧され、上様に歯向かう気かと三人が口々に反論していると、後ろからドスの効いた声が聞こえてきた。


 ……御大登場だ。




「……中納言様」

「まさか、中納言様は起きることも叶わぬ身のはず……」

「今一度問う。余が上様に逆心ありと言いたいのか?」


 おお……顔は笑っているがいつも以上に目が笑っていない。天明の竹中○人や。


「いや、しかし……上様の御意にございますれば……」

「ほう……お主たちは西の丸にあって、いつ、誰にその上意を聞いた。それが確かなものとどうして判別した」

「それは……しかし……上様のお言葉と伝えられれば受けざるを得ず……」

「余はそんなことを指図した覚えは無い」


 宗武公の登場に慌てふためく三人は、しきりに上様が、上意が……と繰り返すものの、それを打ち消す一言が、再び廊下の奥から聞こえてきた。


 ……ガチの御大将が現れた。




「う、上様……」

「たしかに毒を盛られたのならば下手人を確実に捕らえ、事の次第を明らかにせよとは申した。されど、それ以上に大納言の治療を第一とし、必ずや救えと言ったはずだが」

「そ、それは……」

「聞けば随行した医師を処断し、大府卿や主殿頭にも嫌疑をかけ、あまつさえ大納言の治療も疎かにしているとは如何なることか!」


 十代将軍徳川家治公。会うのは家督を継承したときと、年始の挨拶くらいで、そのときも一方的に言葉をかけられ、それに短く答える程度しか経験は無いが、なんとなく政治には無関心なイメージがあった。


 歴史の教科書であまり触れられないというのは、裏を返すと政治的に何か業績を残したものが無いということだからね。


 実際にこの時代を生きていても、政務は田沼公にお任せだし、書画や鷹狩り、将棋などの趣味に生きる凡庸な君主としか思わなかったけど、そこはやはり生身の人間だ。息子のこととなればこんなに激情家になるものなんだな。


「外記」

「はっ」

「余が特別に許す。大奥の中へ入り、必ずや大納言の命を救え」

「御意」


 こうなれば上様が上意がと言っていた者たちは言葉も出ない。なにしろ目の前でご本人様が許可を与えたのだから、それこそ従わざるを得ないだろう。


「外記、大儀であった」

「上様をお連れされたのですね」


 続けて宗武公から言葉をかけられた。その顔を覗えば、満足そうな顔をしておられた。


「儂の仕事はここまでじゃ。早う大納言様のところへ……うっ……」

「父上!」

「中納言様!」

「叔父上、如何いたした!」


 が……安堵の表情であったその顔が突如として苦痛に歪み、宗武公はそのまま蹲ってしまった。


 まずい、また発作が起こったか……


「外記……構わん、早う行け……」

「しかし……」

「役目を……誤るな。お主しか……大納言様を救える者は……おらんのだ」

「承知仕った。後はこの外記にお任せくださり、早う安静に……」

「頼むぞ……」




 気になるところではあったが、宗武公の介抱を治察様や家治公に頼み、俺は本来入ることを許されぬ大奥の中に入り、ゴチャゴチャ煩い典医たちを押し退け、家基様の治療に従事した。


 思ったとおり毒を盛られていたようだが、以前種のときの対処法を話していたことが役に立ったのか、家基様も異変を感じて同じように自ら処置していたらしく、直ぐに命を落とす危険はかなり薄かった。


 とはいえ、発症してから治療に入るまでの時間はあのときよりも長く、予断を許さぬ状況であったことから、特別に前野さんや杉田さん、中川さんなど、チーム解体新書の面々にも加わってもらう許可をいただき、懸命の治療を三日三晩続けた結果、どうにか家基様の一命を取り留めることに成功した。




――こうして、後に東海寺の変と呼ばれることとなる政変は、落着に向けての道を歩み始めたのであった。

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