東海寺の変(前編)
――安永七(1778)年二月二十一日
「大納言様のご容態は」
「未だ詳しいことは分からず……」
この日、懸念していたことが現実となった。
朝から武蔵荏原郡へ鷹狩りに赴いていた家基様が途中で体調不良となり、今は西の丸に戻り治療中だという。
そこへ至った経緯や病状がどうなのか、細かい話は伝わらずじまいである。
「治察からは」
「今のところは」
「何をしておる……」
異変が起こっているのであれば同行している治察様から知らせがあるはずだが、それもまだ届いておらず、宗武公は余計にやきもきしているようだ。
元々体調の良くないところに、危篤と偽り外部との接触を避けていたことで、ここしばらくは部屋に籠もって気晴らしも出来ず気鬱な日々を送られていたので、あまり心身に負担をかけたくないのだが……
「失礼いたします」
「何じゃ」
「西の丸小納戸役の長谷川平蔵と申す者の遣いが藤枝殿宛に文を」
「平蔵殿が?」
連絡は治察様からだとばかり考えていたのに、思いがけない人物から文が届いた。とはいえ、それは間違い無く家基様に関することだろうと思い、急いで中に目を通すと、城内の異変を知らせる急報が記されていた。
「御老中と治察様に毒殺の嫌疑がかかっているご様子」
「なんだと……」
文によれば、家基様は鷹狩りの帰りがけに、品川宿の近くにある東海寺で休息を取ったのだが、そこにわかに体調を崩されたらしい。
「同行していた奥医師の池原雲伯殿が薬湯を煎じて服用させたものの、症状はより悪化。急遽駕籠にて西の丸へ運ばれたとのこと」
「毒でも盛ったか……いや、そんな分かりやすいことはせぬか」
「私もそのように思います。ただ池原殿は、田沼公の息のかかった医師にございますれば、その命によって毒を盛ったのではないかと」
既に執務を終え帰宅していた田沼公はこの変事を聞き、急ぎ登城しようとしたらしいが、疑いが晴れるまで蟄居謹慎処分になったというのだ。
「蟄居だと……上様がそう仰せになられたと言うのか」
「もしかしたら、一橋の息がかかった連中が上意を引き出したのかと」
そんな軽率な判断は下さないはずと考えたいが、唯一生き残った愛息である家基様を大事にしていた家治公であるから、危篤の知らせを受け錯乱した可能性は考えられる。
正常な判断が下せないところに有ること無いこと吹き込み、事態が沈静化する前に一気に決着を付けようと謀ったのだとすれば、随分と手回しの良いものだ。幕閣に通じている者がいなければあり得ない話だ。
「治察は」
「共犯ではないかと責め立てられ、やり合っているようです」
毒殺の嫌疑をかけている者たちは、池原殿を大罪人としてすぐに処分、つまり首を刎ねよとまくし立てており、治察様は正式な取り調べもお裁きも無く勝手なことをするなと止めているものの、そのせいで庇っているのかと責め立てられ、もしや共犯なのでは? という疑いの目を向けられているようだ。
田沼公が嫌疑をかけられ表に出られないため、これに近い関係の幕閣も浮き足立っているようで、治察様が矢面に立って戦っているようだ。
「お裁きも無く勝手に処断など出来ぬは当たり前の話でありますのに」
「口封じのためであろう」
「もしくは何も知らぬその医師に罪をなすり付けるためかもしれません」
「治察が同行するのを逆手に取って、まとめて処分しようという腹か。して、大納言様の容態のことについては何か書いてあるか」
「えーと……続けてそれらしきことが書いてあります……が……」
文には西の丸に運ばれて後、御典医の治療を受けるも意識は戻らずと書かれており、治療は続けられていることは分かった。が……それに続く一文に、俺は目を疑った。
「桂川殿が任から外されている……」
「外記、桂川とは種の治療のときにおった?」
「はい。共にツンベルク先生から教えを授かった方です」
どうやら御典医でも田沼公に近い人物である千賀道有殿とその一派は、池原殿の件があるため今回の治療からは外されているようだ。
この千賀殿という方は、元は伝馬町の牢屋敷で囚人の治療をする下級医であったが、若い頃から田沼公の遊び仲間だった縁で将軍家の御典医に引き立てられた人物。
どういう遊びだったかは想像に任せるが、言うならば平蔵さんと同類ということだ。だが石頭の御典医とは違い柔軟な思考の持ち主で、自身は漢方医だが蘭学にも理解を示し、解体新書刊行の際も疑念を示す御典医が多い中、いち早くその成果に着目してくれた方である。
そんなわけで桂川さんに目をかけてくれているのだが、それが故にお仲間と見られたようだ。
「いかんな。桂川さんが診てくれれば大丈夫だと思ったのですが」
「もしかすると洋夷嫌いの者が敢えて蘭方医を排除したのかもしれん」
蘭学と田沼公の政策に直接のつながりは無いが、共通点があるとすれば、これまでの考え方や常識を打破するという点においてだろう。
新しいものを良からぬものと敵視する人物にとって、田沼公の政策と同じく目の敵にされた可能性はありそうだ。
「外記、すぐに治察の元へ参り、共に大納言様の治療に向かうのだ」
「しかし、そう簡単に会えますでしょうか」
「問題ない。以前余が授けた扇子は持っておるか」
それは俺が蘭書和訳で名を上げ始めた頃、これを妬む周囲の悪意ある声を押さえつけるための伝家の宝刀として授けられた扇子。中には丸に三つ葉葵、すなわち徳川の紋が記されたそれを見せれば、俺が宗武公の命を受けて動いているという証になる。
「さすがにそれを見て手荒なマネはせんであろう」
どうだろう……時代劇だとそれでみんな平伏するけど、たまに「お手向かい致しますぞ!」とか、「此奴は上様の名を騙る偽物じゃ!」とか言って逆ギレする奴もいたからなあ……俺はチャンバラに関しては人並みに出来るかどうかというレベルなので、斬り合いは御免被るぞ。
先に平蔵さんと合流して露払いしてもらうか……
「急げ、事は一刻を争う」
「はっ」
「案ずるな。直ぐに余も後を追う」
「いえ、中納言様はご安静に」
「馬鹿を言え。このようなときに安静になどしていられるか。お主も分かっていて余の策に乗ったのであろうが」
「否定はしません。されど出来れば動いていただきたくない想いも嘘ではありません」
やはり宗武公は動く気だった。自分は囮で動く気はないという言葉だったので、一応止めてみたが、聞かないだろうなあとは思ったよ。
「その気持ちは嬉しいが、今は危急存亡の秋ぞ。徳川一門の者として、動かねば不忠者として後世の笑い草になるわ」
「……決して無茶はされませぬように」
「ある男に会いに行くだけゆえ心配要らん。まあ……無茶をせねば事が進まぬときはそうも言ってられんだろうがな」
「ご武運を……」
「お主もな。余が向かうまで耐えよ」
体調を考えれば、本当は動いてほしくない。だけど、事態を考えれば宗武公抜きで片付けられる自信はないとなれば、動いてもらうしかないだろう。
おそらくある男とは……あの方だろう。その仕事は宗武公にしか出来ない。俺は無茶だけはしてくれるなと祈るしかなさそうだ。
「麒麟児、待ってたぜ」
「平蔵さん……」
宗武公に促され、急ぎ田安邸から西の丸へ向かう途中、平蔵さんが待ち構えていた。
「どうしてここに?」
「あれを見たら必ず来るだろうと思ってな。なにせ俺はお前さんのお目付役だからな」
どうやら俺の動きを先読みして待ってくれていたようたが、お目付役は長崎行きのときの話でしょうに……
「一人より二人のほうが心強いだろうよ。で、ここから先は妨害が多いぜ。突破する手立てはあるのかい?」
平蔵さんは無為無策で突っ込んで来たわけじゃないだろ? という口ぶりだ。なので、俺の唯一無二の武器である扇子をパッと開いて見せた。
「これで如何であるか」
「……こいつはとんでもねえ代物をお持ちだ。だが、それなら大丈夫そうだな」
「いきなり斬りかかられたりはしませんよね?」
「いくらなんでも殿中で刃傷はしねえだろう。そうなりゃ向こうも予定が狂うってものよ」
こんな秘密裏に毒殺やら失脚なんてことを謀るくらいだから、刃傷沙汰は向こうも考えてはいないだろう。もしそうなれば戦乱の世が始まる危険だってあるのだ。
「だけど、警戒はしないとな。麒麟児、覚悟はいいか」
「元より承知」
「おう、いい面構えだ。さて、そんなら魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿にいざ参るとするか」
「急ぎましょう」
こうして、お目付役兼護衛係の平蔵さんを従え、俺たちは西の丸へ向かうのであった……
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