適材適所
「もっと腕と腿の上げ下ろしをしっかりと。こんな感じで」
「こう……でしょうか」
あれから峰子様の体質改善プロジェクトを始めてみた。具体的にはウォーキングやストレッチの指導がその中身だ。
「これで子が成せるので?」
「まずは母となる方が健康でなくては元気な赤子は生まれませんよ」
武家の姫は想像以上に身体を動かさない。世話は全て女中がやるから動かす必要が無いのだ。そして動かないから食も細く、必要な栄養すら満足に摂れていないのかもしれない。
同じ姫でも、お転……活発な種とは違い、峰子様は正真正銘の箱入り娘。それも桐の箱で丁寧に収められた状態であり、妊娠以前に体力が無さすぎる。なのでまずは、身体を動かすことに慣れてもらうわけだ。
未来の話を例に取ると、昭和から平成、令和と時代が下るにつれ、子供が外で遊ぶ機会が減っていった結果、昭和時代のガキンチョなら当たり前に出来ていた、走る飛ぶのような基本的な動きすら覚束ない子が増えてきたのだという。
何が言いたいかといえば、簡単な身体の使い方ですら経験しなければ身に付かないということ。ボールを投げる、ドリブルする、レシーブを打つなどの動作、そして単に早く走るという行為においても、上手くなるなら経験と練習を重ね、身体で覚えるしかないということだ。
とはいえ、箱入り娘の峰子様にいきなり激しい運動は逆効果だろう。
風邪の症状が酷いとき、お粥を食べるのは何故か。それは固いご飯やおかずでは、弱っている胃や腸が消化しきれないから。柔らかくして摂取するためだ。
運動も同じこと。いきなりハードワークを課しても、重病患者に肉食って栄養を付けろと言っているに等しく、却って悪化する要因となろう。だから歩くとか身体を伸ばすといった動作をまずは身に付けてもらおうと考える。
そして大事なのは歩き方。手足を大きく動かしてこそエクササイズになる。
この時代の女性は、歩くときに小股で重心をやや低くしてすり足で動く。手足を大きく動かすと、着物から肌が露出してしまうという事情ゆえだが、これでは運動効率が良くないので、未来的なウォーキングを勧めている。もちろん西洋渡来の健康法という建前でね。
「ハァハァ……ただ歩くだけでも疲れるものですね」
「ええ、それは身体をきちんと使って歩いている証です」
そして、インストラクターは綾に頼んでいる。
義姉上には私がご指導します! と種は言っていたが、さすがに義姉妹とはいえ、出自を考えると峰子様が遠慮してしまう。そこで登場するのが綾だ。
彼女は幼い頃から母の遣いなどで歩き回っていたし、女中奉公でも様々な仕事を担った。運動として何かを鍛えたわけではないが、身体の使い方という意味では大身の姫君より一日の長がある。
そして教え上手とあって、指導するうちに峰子様も身体の使い方を少しずつ覚えてきたようだ。男の俺が手取り足取りというわけにはいかないので、適材適所ではないかと思う。
「身体が温まったのではありませんか」
「そうですね。外は寒いというのに少し熱うございます。それにお腹も空きましたわ」
良い傾向だ。身体が温まっているのは血流が促進されている証拠。
血流が良くなれば、臓器の活動も活発になるし、腹も減るだろう。その上で適切な栄養を摂取すれば、自ずと身体は強くなるはず。一朝一夕といかずとも、積み重ねが大事なのだ。
後は貧血対策か。顔が青白いのは血が足りないのだろうから鉄分だよな。昔、同僚の奥さんも貧血が酷くて、鉄分補給に錠剤を処方されていたと聞いたことがあるし、食べるなら小松菜、大豆、アサリ、レバーあたりか。好き嫌い無く食べてもらわないといかんな。
「今日もやっておるの」
「これは殿、お見苦しいところを」
「いや、其方の顔色が良くなってきたのを見れて私も嬉しい。綾、いつもすまんな」
「お役に立てて何よりです」
少し休憩を取っていたところに定信様が顔を出した。綾には礼を言うのに、俺には何も無いのはいつものことなので、今更ツッコもうとは思わん。
「外記、少しよいか」
すると、それを察したのか知らないが、定信様がこちらに顔を向けてきた。その口ぶりから何か要件があるようだが、雰囲気的に峰子様や綾には聞かせたくない話のようだ。
「殿、峰子様は私が見ておりますれば」
「ではよろしく頼むぞ」
様子から何かを察したのか、綾が席を外しても大丈夫だと言ってきたので、峰子様のことは彼女に任せ、俺は定信様と共に奥の部屋へと向かうと、そこには先客がいた。
「久しぶりだな麒麟児。いや、外記殿」
「平蔵殿……?」
それは旗本長谷川家の当主、平蔵宣以殿。鬼平さんじゃありませんか。
俺の長崎留学に同行して戻った後、平蔵さんは書院番士から進物番に転身し、出世コースに乗ったかに見えたのだが、最近何故か西の丸の小納戸役に移ったんだよな。
小納戸とは将軍や若君の身の回りの世話役。近習小姓と役割は似ているが、所掌は分けられており、なおかつ格は小姓より下なんだよね。
本来進物番を務めたら、次は布衣・諸大夫役に昇進するはずなのだが……
「なんかやらかしたとでも思ってるだろ」
「上役と反りが合わなかったのかなと」
「否定はしない」
……やっぱり何かやらかしたんだね。
「まあやっちまったもんは仕方ねえ。それでも大納言様が身の回りの世話役である小納戸にしてくださったんだ。有難い話よ」
「で、その平蔵殿がどうしてこちらに」
「小納戸に推挙いただいたのは上総介様のおかげなのだ」
話を聞くに、平蔵殿は前職で上役と揉めたか何かでクビにされかかったらしいのだが、それを聞いた定信様が勿体ないから職場を変えさせては? と治察様に頼み、そこから家基様のお世話係という職に移ったらしい。
「いつの間にそんなに親しく?」
「私の耳目になってもらっていたのだ」
俺の疑問に定信様がそう答えた。たしかに本所で平蔵さんに出会った後、使いどころがどうとか話をした覚えはあるが、まさか本当にそういう役回りを頼んでいたとはね。
「こちらに移って城内の話に疎くなりそうだったからな。田安の者から聞いてもよいのだが、違った視点から物を見る者の意見も知りたいと思ったのだ」
「定信様も手を打たれておられたのですね」
「兄上は監視の目が多いだろうからな」
たしかに田安の家でも情報は得られるが、又聞き、伝聞という話も多い。その点、平蔵さんの話であれば、下の者のたちの空気感も感じ取れるから、視点を変えた意見としては使えると思う。
「そして、私を内々に呼んだということは、何か新たな話があったのですかな」
「面白いか面白くないかで言えば、面白くない話だが……種が毒を盛られた一件だ」
定信様が苦虫を噛み潰したような顔である。
それはもう二年近く前の一件。諸々の事情でほとんど迷宮入りとなった話だ。
「ちょうどその頃、私が上様の日光参詣の警備をしていたことは覚えておるか」
一昨年の四月、将軍家治公が日光廟の参詣に赴かれた。将軍直々の参詣は吉宗公以来約五十年ぶりということで、威光を示すために大々的な行列が編成され、その警護を担ったのが白河藩であった。
本来なら義父の定邦公が指揮を取るべきところ、前年に中風を患ってから体調が優れぬため、代わりに定信様が任にあたったのだ。
蕎麦の栽培を指示したのは、それがあって日光まで同道したことで、少し足を伸ばして領地を見て回ったときの話らしい。
「あのときは上も下も準備でバタバタしていたからな。俺も進物番になりたてで、戸惑ったものだ」
種が大奥に上がるという件はちょうど同じ時期の話。そちらも配慮はしていたらしいが、やはり幕臣としては上様の日光参詣の方が重要で、警戒が疎かになっていたのは否定出来ないようだ。
そしてその間隙を縫って……ということらしい。
「やはりそれは……」
「十中八九は」
おそらくは何者かが、栄達をチラつかせて大奥の女中や奥医師などを買収したのだろう。
「平蔵殿はよくそこまで調べが付きましたな」
「侍以外の伝手もあるからな。それに、こんな俺を見込んで登用してくださった上総介様の御恩に報いねばならんし、西の丸の小納戸となれば、大納言様の御身が第一だ」
どうやら定信様が平蔵さんを小納戸に推挙したのは、俺が島津公から聞いた話を受けてのことのようだ。
平蔵さんは上昇志向も強いが、それ以上に人の意気に感じて働く方だから、これもまた適材適所というべきか。定信様は性格とかプライベートの難点を補って余りある価値があると見込んだのだろう。
「とはいえ確たる証拠があるわけでないゆえ、罪に問うのは難しいのでは……」
「その件に関してはな。しかし、今になってどうしてその話を持ち出したと思う?」
「何か似たような出来事が起きたとか……」
「ご明答。最近、一橋卿が幕臣や譜代の大名、それも田沼公と仲が良くなかったり疎遠な者とばかり接触している」
……譜代の者と接すること自体はおかしな話ではない。むしろ色々とお願いするためにあちらから参上するということも多かろう。
だが田沼公と関係の薄い者、言い換えれば近付きたくない理由や近付けない事情を持つ者ばかりと接触しているとあれば、少々容易ならざる話な気もする。
「平蔵殿の見立ては?」
「搦手が攻めにくいから、大手門からということじゃねえのかな。ただし、城主は活かしたまま実権を握る。そういう目論見だろう」
平蔵殿の言う本丸とは将軍後継の座のことだろう。これを攻め取るにあたり、まずは後顧の憂いを無くすため
ただし
「狙いは大納言様……?」
「可能性は十分にある。実はな、来月の終わりに大納言様が鷹狩りに向かわれる。城の中でならいざ知らず、外での出来事となると、くまなく目を光らせるのも難しい。今日はそれで上総介様に相談に来たのだ」
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