白河の夫婦蕎麦

――安永七(1778)年一月


「本年もよろしくお願いいたします」


 年が変わり、正月の松の内が明けてから何日かした頃、俺は定信様の招きで八丁堀にある白河藩の上屋敷を訪れていた。


「外記、種、綾、よう参った。今年も宜しく頼むぞ」

「して、今日は何事でしょうか。単に正月の挨拶をというわけではございますまい」

「うむ。其方たちに試してほしいものがある」


 定信様はそう言って家臣に指示を出すと、しばらくして俺たちの前に膳が運び込まれた。


「これは……蕎麦ですか」

「左様。一昨年から領内で栽培を始めた。今日出したのは、昨年の秋に取れた蕎麦の実を挽いた粉で打ったものだ」


 一昨年のことだが、所用で定信様は白河へ入って領地を視察したことがあり、そのときに栽培を指示したそうだ。


「蕎麦とは考えられましたな」

「うむ。其方の策に乗るだけでは面白くないから、余所の地域にはない我が領内の特産品をと考え、白河の気候なれば蕎麦が適しておると睨んだのだ」


 蕎麦は気温の低い土地や痩せた土地でも育てられ、なおかつ旱魃に強い植物であり、種のままであれば長期間の保存も可能だ。


 しかも種を蒔いてからかなり短い期間で収穫できるという特性もあって、いざというときにはすぐに種を蒔いて食料とすることも出来るし、栽培期間が短いということは、それ以外の時間で他の作物を植えることも出来る。


 蕎麦で有名な信州の戸隠では、五月頃に植えた麻を八月には収穫し、その後すぐに蕎麦を植えるとか。麻は布の原料として売りさばき、蕎麦は領民の食糧としているらしい。


 そして蕎麦を作るのに重要なのが良い水だ。育てるにしろ、蕎麦を打ったり茹でたりするにしろ、美味しい水がなければ美味しい蕎麦は作れないが、白河は幸いにして領内を流れる阿武隈川という水資源がある。


 稲作の可能な土地を蕎麦作に転じるというのはかなりの決断だったと思うが、定信様は領民や家臣にその効用を説いて栽培にこぎ着けたらしい。


「では折角ですからいただきましょうか」

「ええ、お兄様の知恵の結晶、とくと味わいましょう」


 (ズルズル……)うん、蕎麦自体はよくある二八蕎麦。そば粉八割につなぎの小麦粉を二割で配合したものだけど、食べた瞬間、口の中に蕎麦の香りと風味が一気に広がるね。




 実はこの時代に転生して、酒の味にも驚いたが、蕎麦の味が全然違うというのも驚きの一つであった。


 蕎麦は前世でも数え切れないほど食べたが、俺が食べていた立ち食い蕎麦というのは、良くて蕎麦粉の含有率は五割程度、酷いところだと一、二割くらいで残りは小麦粉だと聞いた。


 となると、それはもはや蕎麦ではなく、色の付いた細いうどんなのでは? という代物であり、当然蕎麦本来の風味なんてほとんど感じなかった。


 勿論二八とか十割といったものを提供するお店は美味かった。だけどこの時代のそれは、屋台ですら未来で名店と呼ばれるお店のものを遥かに上回る香りと風味を十分に感じ取れるものであり、定信様から饗された白河産の蕎麦は、もう一段上という感じだ。


「美味いか?」

「僅かの間にこのような良質な蕎麦を栽培できるとは驚きました」

「ふふっ、粉が良いこともあるが、蕎麦打ちの腕も重要だぞ」


 たしかにそれはその通りだ。素材が良くても打つ人間の技量如何でいくらでも不味く作ることは可能だもんな。


「そう仰せということは、かなりの腕の職人でもお抱えになりましたか」

「さにあらず。それを打ったのは私だ」

「お兄様が?」

「なんだ、私が蕎麦打ちしてはおかしいか?」


 種が驚くのも無理はない。十一万石の若君が粉だらけになって生地を捏ね、包丁でトントン切っている姿は想像できないもの。


「どうして自ら?」

「其方らとて手づから新たな物を作っておるではないか。十三里しかり、三度一しかり」


 三度一とはサンドイッチのことだ。洋風の名前は些か憚るということで、音をそのまま漢字に当てたものだが、主食、主菜、副菜を一度に食べられるという意味も込められている。


「つまり、定信様も新たな作物を広めるにあたり、自ら料理を作って示そうと」

「蕎麦に関しては私がやらずとも既に知られておるが、素人でも少し学べばそれなりに食べられるものが打てると分かれば、民も手を出しやすかろうて」


 努力肌の定信様がいう"少し"や"それなり"というのは、常人からすると"かなり"と同義な気がする。蕎麦打ちなんてそんな簡単なものじゃないと思うが……


 それでもだ、未来の殿様が奨励するとなれば、民も気兼ねなく稲作から転じることが出来るだろう。麺状にしなくても、蕎麦がきや蕎麦餅、西洋風にクレープやお粥にして食べることも出来るし、よい考えだと思う。


「まさかお兄様がここまでお考えとは」

「別にお主と張り合うつもりで考えたわけではない。白河の民を安んじるに必要なことを考えた末の一つの答えだ」

「上総介様らしゅうございます」

「ほれ見ろ、綾は私のやろうとしていることをよく分かっておる」

「はいはい、本当に綾には甘いんですもの。その甘さの一欠片でも妹に向けて欲しいものですわ」

「べ、別に私はそういうわけでは……」

「おやおや、何やら賑やかでございますね」




 種が定信様を茶化していると、中庭を挟んだ向こうの廊下から女性の声がした。


「峰子、起きていて大丈夫か」

「ええ、今日は身体の具合も良く。それに義理とはいえ弟妹がお見えなのに、ご挨拶の一つもせねば失礼にございましょう」


 声の主は藩主定邦公の一人娘であり、定信様のご正室である峰子様だ。


「峰子にございます。お二人にはお初にお目にかかります」

「ご丁寧な挨拶痛み入ります。藤枝外記にございます」

「種にございます。義姉上にはお初にお目にかかります」

「私、兄弟がおりませぬゆえ、弟妹が出来て嬉しゅうございましたが、この通り身体が弱く、ご挨拶も出来ず……」


 峰子様は定信様より五つ年上の姉さん女房だが、生来お身体が弱いそうで、結婚して二年ほど経つが未だにお子を成す……というか、俗な話だが褥もそれほど成せていないと聞く。


 本人に会ったのは初めてだが、顔は白を通り越して少し青いし、その言葉通りお身体が弱いのだろう。


「峰子、あまり無理をせんでよい」

「いえ、折角のお越しなのです。礼を申し上げないわけには参りません」


 そう言われても、峰子様に礼を言われるような覚えはない。と思い種を見てみるが、彼女も思い当たる節は無さそうな顔をしている。


「礼……とは?」

「殿が蕎麦を打つのは、実は私の為なのです」




 峰子様は、父上が定信様を半ば無理やり白河の養子にしたことを気にしておられたようだ。


 しかし、やって来られた定信様はそんなことをおくびにも出さず、江戸にありながら領地の民のことを考え、様々な策を練っている。自身より五つも若い少年がだ。


 そして、自分のことも常に慈しみ、身体に負担は無いかと気にかけてもらえるのがありがたいと仰る。


「蕎麦打ちを始めたのも、食の細い私に何とか栄養があって食べやすいものをとお考えのようで……お二人に倣って、新たな食べ物を作ろうとされて」

「たまたま白河の気候が蕎麦作りに適していただけよ」

「お兄様、そんな照れ隠しは無用にございます。義姉上、口下手な兄で申し訳ありません」


 種に指摘されて定信様がしどろもどろになっている。まあその顔を見る限り、俺でも照れ隠しだろうなと分かったくらいだものな。


「ふふ、妹君にはお見通しですわね。殿はいつも私に"好き嫌いはいかん、少しずつでもよいから色々な物を食し、身体の自力を付けよ"と口酸っぱく言われておりますのよ」

「ほぉ……好き嫌いなく、ですか……」

「外記、余計なことは言うな」


 昔はこの子もねぇ……と、近所のオバちゃんみたいなことを言おうとしたら、定信様に機先を制された。


 まあ……身をもって体験したことだからこそ、その言葉には重みがあるし、なればこそ峰子様も快く受け入れているのだろう。


「私、殿には感謝しているのです。当家は御家門とは申せ分家、将軍家ご一門の若君が婿入りとなれば、忸怩たるものがあったことは想像に難くありませぬ。ですが殿はそんな素振りも見せず……」

「見せないわけではなく、元よりそんなことを考えておらぬだけだ」

「お義姉様、兄は律儀なお人です。その言葉に偽りはございません」

「なれば余計に、子を成せぬのが申し訳なく……」


 治察様の奥方である因子様のときも似たような感じであったが、峰子様の場合は自身が久松の血を継ぐ者であるから、余計に子を成さねばというプレッシャーがあるのかと推察する。定信様に側室を宛がって子を成しても、そこに久松の血は入らないわけだからね。


「旦那様、これは因子義姉上のときと同じでしょうか」

「そればかりはなんとも言い難い」




 因子様の一件があって後、白粉に使う鉛の危険性を知らしめると共に、未来で言う産科や婦人科系の病気や症状のことも調べてみたところ、徳島藩医の賀川玄悦という方が産科術を多くの弟子に伝授していたと分かったが、これは主に妊娠した後の対応や出産時の処置についてであり、妊娠に至るまでの話、つまり不妊の原因などは未だによく分かっていない。


 前世の俺も一般的な知識レベルで、生理のサイクルには妊娠しやすい時期があるとか、不妊の原因は生理不順による排卵障害とか子宮や卵管に支障があるケースが多いとかくらいは知っていたが、じゃあどうすれば解決するのかと問われるとさすがに分からないし、外科的な治療を要するとなれば、今の技術ではちょっと難しい気がする。


 なので差し当たっては、因子様へ助言したのと同じく、栄養を付ける、ストレスを抑えるといった配慮で身体に悪影響のある負担をかけない環境を構築することだ。


 もしかしたら峰子様は本当に不妊体質という可能性もあるが、まだまだ発展途上の分野なので、出来るところから始めるしかないだろう。


 後は……身体を動かすことかな? 峰子様は見るからに弱々しく、仮に妊娠出来ても出産時に母体が保たないような気もする。


 折角定信様が奥方のために蕎麦を打つくらい仲睦まじくお過ごしなのだから、良い方向に話が進むように協力してさしあげるのが知己の務めというものよ。

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