島津の生き残り戦略

 薩摩藩は幕府に目の敵にされている。言葉にこそ出さないが、それはこの時代の共通認識だろう。


 関ヶ原の戦いで西軍に付いた島津軍だが、特に見せ場もないまま戦は徳川方の勝利が見え始め、気づけば隊は孤立。周囲を東軍に囲まれた彼らが採ったのは、後背の中山道ではなく、敵中を正面突破した先にある伊勢街道からの退却という戦術であった。後に言う、「島津の退き口」である。


 執拗に追撃を受けながらも、捨てがまりと呼ばれる死を覚悟した足止め部隊の射撃と防戦の末、大将の義弘公は無事に脱出したものの、退却時に三百人ほどいた兵のうち、薩摩まで帰還したのは八十人くらいだという壮絶な撤退劇だ。


 その後は徳川との和平交渉にあたりつつ、国境の警備を固めた。この対決も辞さないという姿勢に、家康公は激怒し島津討伐を号令するも、関ヶ原に主力を送らなかった島津は一万を越す兵力が残っており、その時点で豊臣の大老の一人でしかない家康公も、もし長期戦になれば他の大名が再び反旗を翻す恐れがあったため、無理押しは出来なかった。


 こうして島津は本領安堵を勝ち取ることになった。徳川に油断ならぬ相手という認識を与えるという副産物を添えて……




「一橋様との縁談もそのあたりに事情がおありなのでは?」

「浄岸院様の御遺言であるからな」


 浄岸院様とは島津継豊公の継室であり、重豪公の義理の祖母にあたる方で、出家される前は竹姫様と呼ばれていた女性だ。


 竹姫様は公家の娘であったが、五代綱吉公の側室である叔母に子が無かったためその養女となり、会津藩の若君と縁組するが、程なくお相手が早世。続いて二年後に有栖川宮様と婚約したのだが、これも後に宮様がお亡くなりになったことで流れてしまった。


 そうこうするうちに将軍は八代吉宗公の御世となるも、二度も婚約者に先立たれたことで不吉な噂も立ったらしく、婚家探しは難航。そこで六代家宣公の御正室であった天栄院様の縁故で、吉宗公の養女として継豊公の継室に迎えられることとなった。


 将軍の娘を迎えるとなるとお金もかかるし面倒も多い。ただでさえ手伝普請でお金を使わされているところに更なる負担がのしかかるとあって、島津は断りたかったようだが、天栄院様からねじ込まれては断り切れなかったらしい。何故なら島津家は近衛家の荘園管理者がその興りであり、天栄院様は近衛家の姫だからだ。


 ただ、悪いことばかりでもなかったようだ。将軍家の縁戚ということは、発言力が強まるということだし、幕府も無理を言った手前、官位昇進などで配慮するところもあったらしいからね。


 そして嫁に来た竹姫様は、さらに絆を深めるため、義理の息子の正室を尾張藩から迎えようと画策。これは輿入れ前に姫が亡くなったり、こちらの跡継ぎが亡くなったりで叶わなかったが、次に義理の孫である重豪公の嫁を将軍家一門から迎えようと動き、徳川宗尹公の娘保姫様との縁談が成った。そして一橋のアレは保姫様の弟なので、二人は義兄弟なのだ。





「其方は儂が一橋の縁者であるから警戒しておるのだろう。違うか?」

「立場を考えれば、私がそう思っても致し方無いとお考えいただきたく」

「言うたであろう。我が家中は其方に恩義を感じておるから礼を申したかったまでよ」


 その気持ちはありがたいんだけど、一橋治済にこれ以上目を付けられると厄介なんだよな。逆に俺の方から島津公に近づいたとでも思われたら困る。


「そういう意味では一橋殿が煙たいのは同じよ。儂も実を言えば嫁にやりとうはなかった。於篤はまだ五つぞ」

「於篤?」

「元々は於篤という名前でな、未だに茂という名は慣れぬ」


 姫は鹿児島の生まれで、婚約のため先年江戸に参り、薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸へと移り住んだ。その際に名を篤姫から茂姫に改めたのだとか。


 たしか大河の主人公になった姫も篤姫だったような……でもあれは家定の奥さんだから時代が違うけど、島津の姫は篤姫って名前が多いのかな? 


 それはともかくとして、茂姫様は数えで五歳、満年齢で言ったら四歳になるかならないかの幼子。それが親元を離れて育てられるとなれば、実の親としては心配なのだろうが……


「決めたのは儂だろうと言いたそうな顔をしているな。だが致し方なかろう。奥に先立たれ、浄岸院様も身罷られた今、徳川との縁をつなぎ止めるにはこれしか方法が無いのだからな」


 言おうと思ったら先に言われてしまった。さすがにそこは良く理解しているようだな。




 竹姫様を迎えて多少の配慮はあったものの、幕府があの手この手で島津の国力を削ろうと画策する方針は変わらず、宝暦年間には濃尾平野における木曽三川の治水という難工事を課され、何十万両という大きな借金を抱えたと聞くし、ここで縁が切れれば更に無理難題を吹っ掛けられると考えていたのだろう。


 そこで持ち出してきたのが、「重豪公に娘が生まれたら徳川一門の者と縁組みするように」という、浄岸院様の遺言。それに従って豊千代君との婚約が決まったのだ。綱吉公、そして吉宗公の養女であった浄岸院様の言葉とあっては、幕閣もダメとは言えなかったようだ。


「だが儂は於篤が不憫でな。齢三つにして親元から離され、見ず知らずの者しかおらぬ屋敷で育てられておるのだぞ」

「一橋様のお屋敷なれば貧しい暮らしではございますまい」

「そういう問題ではない。あの家の者どもは事あるごとに我らを芋、芋とあざ笑っておる。きっと於篤も粗相をすれば、芋で育った姫は雅を解さぬなどと詰られていることだろう。あぁ、年端も行かぬ幼子に物事の分別など分かるはずもあるまいに。そうであろう」


 もしかして焼酎で酔いました? と聞きたくなるくらいの管巻きっぷりだな。


 伝聞でしかないが、保姫様が輿入れした際、お付きの女中は元々大奥で勤めていた者が多かったそうで、薩摩藩邸の者たちを「芋侍、芋女中」と馬鹿にしていたらしい。なので夫婦仲はあまり良くなかったらしいから、姫もいびられているのではと思っているようだ。


 鷹揚に構えていそうな風体だというのに、この喜怒哀楽の激しさ、うーん、クセが強い。


「今思えば、縁組相手は寿麻呂様の方にしておけばよかったと思っておる」

「豊千代君との縁談は浄岸院様の御遺言なのでは?」

浄岸院おばば様は別に一橋とは申しておらん」


 そらそうだな。浄岸院様が亡くなったのは寿麻呂様や豊千代君の生まれた前年だから、そこまでピンポイントに指定したわけではない。


 なんだけど……


「されど、一橋を差し置いて話は出来ませんでしょう」

「そうなのだよ」


 重豪公が保姫様を迎えたのも、半ば浄岸院様のごり押しによるものであり、ここで再び縁をつなぐとなったとき、一橋を差し置いて田安家に話を持ち込めば、アレが黙ってないだろう。


 茂姫様自身は側室の生まれだが、正室が一橋の出である以上、豊千代君と義理の従姉弟となるわけで、縁を大事にするという意味では、最初から豊千代君しか選択肢はないのだ。


「田安家だったらなぁ……江戸では唐芋と言えば田安と言われるくらいだから、芋侍などと馬鹿にはせぬであろう」


 たしかに。田安家も甘藷で儲けさせてもらったし、そんなことを言ったら最後、巨大なブーメランってやつになってしまいます。


「しかも蘭学にも理解がある。儂としてはこれ以上の婚家はないのだがなぁ……」


 そうですね。表立って言う奴はいないけど、俺という存在のおかげで田安家も蘭癖と思われているフシはある。甘藷を大事にし、蘭学に理解のある田安家の方が、重豪公にとっては付き合いやすいだろう。


「それに……彼奴は危険だ」




 それまでのほほんとした雰囲気だった重豪公の顔が急に真顔になり、椅子から立ち上がると俺の耳元まで顔を近づけてきた。


「戸部尚書は本気で将軍の座を狙っておる。正確には息子をその座に就け、裏から操る腹づもりのようだな」

「まさか……」

「儂も野心が無いわけではないから分かる。だが、あれは危険だ。差し当たっては大納言様の身辺に気をつけられよ」


 それだけ言うと、重豪公は再び自分の椅子に座り直し、顔をこちらに向けたときには先程ののほほんとした表情に戻っていた。


「それを何故私に……?」

「お主は田安殿の秘蔵っ子であるが、大納言様も気に入られていると聞くからの」


 重豪公が将軍家と縁をつなぐのは、島津家の格を上げるため、そして自身の発言力を強めるため。


 それはまさにこの人の野心を示すものだが、その人をして一橋は危険だと言う。どこまで知っているかは定かでないが、このままでは余計な諍いに巻き込まれ、自身にも火の粉が降りかかると考えているのだろうか。


 それでもだ、どうしてこの人はそのことを俺に教えたのかという疑問は残る。一橋の縁者であることは覆しようもないのだから、アレの天下になれば将軍の義父となり、今以上にデカい顔が出来るというのは悪い話ではないはず。


「気を付けよ。打つ手を誤れば、国を二分する大乱になるやもしれぬぞ」


 そう言って重豪公がニヤリと笑った。




 ……この人もか。要は天秤にかけているのだ。危険だから力を削いでおいたほうがいいと考えているけれども、そのまま一橋が勝ったとしても自身は栄達が見込める。大乱などと大仰なことを言っているが、半分面白がっているのだろう。


 更に言えば田沼公と違い、内輪揉めを長引かせて、幕府が諸藩に与える影響力を落とそうという狙いもあるかもしれない。そのために態々かき乱すようなマネをしているのですかと問い質しても、「はいそうです」とは言わないだろうけどね。


 のほほんとして見せながら、どう転んでも良いように準備しておくとは、さすがは長年幕府に目を付けられて身の処し方を熟知する大藩の主だけのことはある。




◆ ◆ あとがき ◆ ◆


天璋院が篤姫と名乗ったのは、この重豪の娘(後の広大院)にあやかってということを外記は知らない設定です。

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