若き才能、奥州より来たる
――安永六(1777)年八月
「よろしくお頼み申します」
「そう言われても……」
ここは築地にある晩功堂。工藤平助殿が開く私塾である。
平助殿は仙台の藩医だが、藩邸外に居を構えることを許され、ここに住まいながら様々な人物との交流を持ち、多くの知識を吸収している方だ。
例えば医学は中川淳庵さん、漢学は俺の師でもある昆陽先生、そして蘭学は玄白さんや前野さんに手ほどきを受け、長崎通詞の吉雄さんとも交流があるらしい。
そして医者としての声望が高いこともあって、他家の診察も請け負っており、ここには伊達家中だけでなく、患者となった大名やその藩士のほか、著名な蘭学者、儒学者、国学者など多数の文化人が集っている。
それだけ聞くと、西洋で言うサロンのように感じるが、他にも役者や侠客、芸者等々、武士階級以外の者とも交流があり賑やかなところが少し違う。なので工藤家を水滸伝になぞらえて、築地の梁山泊と言う者もいる。
チーム解体新書の皆さんが親しくしているということで俺も名前は知っていた。言ってみれば友達の友達ってところなんだけど、今まで交流する機会がなく、今回玄白さんのお呼びがあってようやくお邪魔することが出来たのだ。
そんな経緯があったので、ここに来るまでは、なんとなく遅れて梁山泊に集うのって、水滸伝に出てくる天魁星の宋江みたいじゃね? とか暢気なことを考えていたのだが……
「杉田殿、これが目的でしたか」
「ええ。この者は私の知己の弟子でございまして、はるばる奥州より学びに参りましたので、江戸一番の蘭学者に師事させてやりたいと思いまして」
工藤邸で主の平助殿に面会するや、一人の青年を紹介されたのだ。
その人は陸奥一関藩医、大槻玄梁殿の長子で名を
この清庵という方は、遠く一関の地でオランダ流の医術を行っていたが、蘭学黎明期だったこともあって多くの疑問を抱えていた。そこで江戸の蘭学者にこの疑問を解いてもらいたいと弟子に書簡を託し、紆余曲折を経て玄白さんの元にそれが届いたのは、解体約図を刊行して間もなくの頃の話だとか。
玄白さんは奥州の地から届いた情熱に満ちた書簡に大いに感銘を受け、刊行されたばかりの約図を返書に添えて清庵殿へ送ってから後、何度も手紙を交換し、互いの知識をもって交流していたそうだ。
そして、今その弟子の茂質殿が藩主の許しを得て江戸遊学に赴いてきたと聞き、ならばと俺を推薦したようだ。
「学ぶなら天真楼でよろしいのでは?」
「藤枝殿もお人が悪い。私が蘭語を解さないことをよく知っておられるでしょうに」
どうやら遊学の目的は医学だけではなく、語学習得も視野に入れてのことらしい。なので医術は杉田殿の天真楼塾で教えられるが、オランダ語は別の師匠が必要なので、それを俺に頼んできたのだ。知己の弟子に最高の教育環境を用意してやりたいとのことだが……
俺、茂質殿より一個下なんだよな(現在二十歳)。もう少し威厳のあるお師匠がいいと思うのよね。例えば……
「前野さんはどうですか? あの人も弟子を取っておりませんし」
「それが良沢に頼んだら、『儂は忙しい、理由は藤枝殿に聞け』ってな」
あー、先にそっちに話が行っていたか。
一関は仙台伊達家の支藩ということもあって、玄白さんは工藤殿にも大槻殿をよろしく頼むと話をしたらしく、それで工藤殿から前野さんに師事をお願いしたようだが、上手いこと逃げられてしまったみたい。
「藤枝殿、前野殿に何かしたのですか」
「ちょっと難しいお願いはしましたね……」
大きな声じゃ言えないが、というか小さな声でも言えないけど、実は前野さんにロシア語の解読を依頼している。
以前にオランダ商館長のフェイト氏から、ロシアの脅威について話を聞いて以降、ずっとそのことは引っかかっていた。
いずれロシア船も日本にやってくるはず。そのときに相手のことをあらかじめ知っておくことは大事だと考える。
とはいえ、オランダ語ですらようやくといった時代にロシア語を学ぶなんて公に言えないから、治察様に相談して内々に動かせてもらったのだ。
○長崎留学に向かう
↓
○バタヴィアに戻るオランダ船に、ロシア語の教材を手に入れてほしいとオファー
↓
○翌年の秋に教材を積んだ船が来日
↓
○今年の春、江戸参府の際に持ってきてもらう
↓
○それを前野さんに丸投げ ←今ここ
長崎屋でツンベルク先生から受け取ったのはそれだ。だから公には……と言ったのだ。ちなみに検閲に関しては、長崎奉行の柘植殿や通詞の吉雄さんたちに宜しくやってもらったので心配無用なり。
それを何故前野さんに丸投げしたかというと、前野さんは蘭学というより言語学の研究に重きを成しているようだし、研究肌で人に流布するのは二の次みたいな性格だから、内々でお願いするのに適任だと思ったから。
決して自分でやるのが面倒臭いわけではないぞ。俺は俺で上杉家や島津家と交流を持ち始めたという噂のおかげで忙しいのだ。
後世のそれと比べればまだまだだけど、上杉公の藩政改革は既に近隣の諸藩も知るところであり、その人が教えを請いに来たのが呼び水となり、東北地方の諸藩や幕臣など、多くの者が教えを請いに来た。
さらには蘭癖で知られる島津公からも、度々蘭学談義がしたいと招かれている。そうすると他にも蘭癖と呼ばれる殿様は何人もいるので、そちらの相手もしなくてはならない。
農学の流布も大事だし、一橋の動きを警戒するために島津との付き合いも欠かせないので、弟子を取ってどうのこうのと面倒を見る時間はあまり取れそうにないのだ。
「少々多忙で、中々目をかけて差し上げることが……」
「それは私もよく存じ上げております。なればこそ、お力になれることがあるかと」
「大槻殿が?」
「はい。こちらの書物はご存じでしょうか」
「これは……民間備荒録」
大槻殿が見せてきた書物は民間備荒録という、食料備蓄方法や、草や木の葉を非常食として食べる方法、ほかにも解毒法や応急手当の仕方などが記された、飢饉対策のマニュアルと言える書物だ。
江戸で出版されたのはつい四、五年前だったが、初版は二十年ほど前に一関の建部氏、つまり大槻殿の師匠である清庵殿が宝暦期にあった飢饉の惨状を受けて、救荒策を広めるべく記した書物である。
「師、清庵の教えは十分に理解しております。藤枝殿のなされようとしていることのお役に立てるかと」
「弟子入りを断られたときの説得材料として用意されたか。……若輩の私が言うのもおかしなものですが、オランダ語の習得は一筋縄ではまいりませんぞ」
「元より承知の上です」
「分かりました。大槻殿は我が屋敷でお預かりいたしましょう。蘭学講義のかたわら、私の仕事の手伝いはやってもらいますが、それでよろしいか」
「ありがとうございます! これよりは弟子にございますれば、遠慮なく茂質とお呼びください」
「師とはいえ、年下なので呼び捨ては少し気が引けますな……茂さんとお呼びしてもよろしいか」
「如何様にも」
俺が承諾したのを見るや、玄白さんや工藤殿がホッとした表情を見せた。
「藤枝殿、無理を言ってすなまいな」
「いえ、天下に名高き賢人たる工藤殿の頼みなれば」
「ハッハッハ、賢人とは畏れ入る」
「賢人ではなく変人の間違いでは?」
「玄白さんや、余計なことを言うんじゃないよ。まあ実を言うと俺も藤枝殿に会ってみたかったんだが、どうにも巡り合わせが悪くてな」
どうやら工藤殿も俺と色々話をしたいと望んでいたらしい。だけど、俺に余裕があったときは工藤殿が忙しく、工藤殿が都合がつくかと思ったら俺が長崎に行ってしまったりと、中々会う機会に恵まれなかったそうだ。
「話とは……?」
「藤枝殿は蝦夷地をどう考える」
「蝦夷地……」
平助殿は長崎の吉雄殿や多くの蘭学者と知己であることから西洋事情にも明るく、べんごろうの手紙の件も知っていた。
そして、工藤家が梁山泊になっているのは先に述べたとおりであるが、その中には遠く松前藩の者もおり、彼らから蝦夷地、そしてロシアの情報も入手しているとか。
「俺はこのまま松前に任せておくのは危険だと思うんだよな」
「同感です。蝦夷地のことはもっとお上が関与すべきかと」
「おお、気が合うねえ」
「とはいえ軽々しく話すようなことでもありませんので、また日を改めて」
「そのときを楽しみにしてるぜ」
茂さんは荷造りをして、日を改めて湯島の俺の屋敷に来るということで、今日のところは玄白さんと二人で帰途に就くこととなり、工藤家への訪問は終わった。
「藤枝殿はあの若者をどう見ますか」
「良い目をしておられた」
帰りの道すがら、茂さんの印象を聞かれたので、蘭学習得に並々ならぬ決意を持って来られたのだろうと答えると、玄白さんは嬉しそうな顔をしている。
「あの清庵殿が送り出した弟子です。間違いはありますまい」
玄白さんと建部殿は文のやり取りだけで、会ったことはないはずなのに、よほど思い入れがあるようだ。
「なんと言ったら良いのでしょうか。大望を抱いて邁進しようとする若者の情熱とでも申しましょうか。茂さんにはそんな雰囲気を感じました」
「あの……藤枝殿」
「何か?」
「年寄りじみた言葉を仰せだが、貴殿も十分に若者ではなかろうかと……」
そういやそうだわ。精神年齢はプラス数十歳なんですけどね。
いやしかし、身内以外の弟子は初めてだからな……俺もしっかりしないと。
遠く奥州の地から志を持って来られた方だ。立派な蘭学者に育てねば……と、言ってるそばから思い出したんだけど……
大槻って、もしかして大槻玄沢か? 彼の師である杉田玄白の"玄"と、前野良沢の"沢"から玄沢って名乗ったような……
ありゃ……これはやっぱり俺じゃなくて、前野さんに師事したほうが良かったんでないか? このままだとその未来が訪れないような気がするんだが……
◆ ◆ あとがき ◆ ◆
本当は大槻茂質が江戸に来るのはもう一年後なのですが、本作では蘭学の興隆具合が史実より高まったため、早く留学の許可が下りたということでご了解ください。
しかし……大槻玄沢は一関、高野長英は水沢と、同じ岩手の出身なのよね。
最近だと大谷○平も水沢(現・奥州市)の生まれだし、佐々○朗希は陸前高田(被災後は大船渡市に移住)だし、岩手は大物を続けて輩出しがちな土地なのだろうか?
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