実直な中間管理職の苦悩
「なるほど。お主はあくまでも己の信念に沿って、民のための救荒策を講じていたというのだな」
「元よりそのつもりです」
俺の存念を聞いた田沼公が深く頷いている。完全に信じたかどうかは分からないが、ある程度理に適った回答と受け止めてもらえたのかもしれない。
「分からぬ。そこまで先を見据えておるのなら、何故我らに奏上せぬのか。公儀の命として広める方が早かろう」
「やらされ仕事では困るのです」
もちろん急速に栽培地を増やすのであれば、それが最善かもしれないが、その手を使わないのは、拙速では困るからだ。
「米が不作だから代わりに植える物と見られたくはございません。私は恒久的に米と並立し得る食物として栽培を行いたい。故に意味も理解せぬままに言われたからやるという姿勢では困るのです」
実際にはまだ研究中の物も多いし、日本全国で同じように植えられるはずもないし、特に新しい作物を植えるのだから、色々と確かめなくてはいけないことが多い。
ツンベルク先生に植物が病に罹ったときの見分け方や防ぎ方は教わったが、中にはまだ解明されていない病気も多く、ヨーロッパと気候の違うこの国でそれが発生するか否か、さらには各地の土壌や気候、栽培時期の違いなどによって変化があるかなどの研究が必要だと思う。
そんなわけで、栽培してもらいたいのは山々だが、出来れば今は俺の考えを良く理解し、密に連絡を取れる関係の方たちに限定したい。幕命で日本全国に栽培を広め、意味も分からずテキトーに植えられて失敗しただの、食べたら腹を壊しただのと言われても責任を負いきれないからね。
俺は幸いにして宗武公に可愛がってもらっているし、佐倉の堀田公をはじめ何人かの譜代大名とも知遇を得られたし、怪我の功名ではないが定信様が白河に入ったことで、東北地方の各藩にも俺がやろうとしていることを理解する者が現れ始めている。今はそれくらいで試行錯誤するのが目の行き届く限界だろう。
そして家基様に認めてもらい、四圃式農法を試せるようになったことも大きい。望外のこととて、そういった繋がりを持てるようになった今、田沼公の力を使う必要性をあまり感じていないのが理由だ。
「まるで儂が要らぬと言っておるようだの」
「不要だとは申しません。御老中は御老中で新たな政策を色々とお試しの様子ですが、いざ進めようとすると、反対する方が多そうに思えますので」
昔から日本という国は、自国を
ところが現実的に日本全土が瑞穂国なわけではない。なのに無理に米を作ろうとしたから飢饉が頻発したのであり、麦や芋を植えましょうという俺の提言は理に適っているのだが、実際に農作業をやったこともない支配者階級からすると、我が国古来からの伝統をぶち壊す不届者と見られるだろう。
それを田沼公が幕命として進めようとすればどうなるか。ただでさえ前例に囚われず新たな政策、守旧派に言わせると神君以来の伝統を蔑ろにする悪行をいくつも実行しているわけだから、反発を受けることは必至だ。
「それによってお触れの中身が変容して、求めていたものや望んだ結果にならないというのは避けたいのです。その点、無役の身の上で個人的な交友によって広める方が、伝播する速さは劣りますが確実な歩みを望めるというもの」
田沼家は元々紀州藩の足軽の家だったが、吉宗公の将軍就任と共に旗本に転じ、六百石だった知行が何回もの加増を経て今や三万石の城持ち大名までのし上がった家である。
つまり何が言いたいかと言えば、子飼いの家臣が少ないのだ。本人にそういった点の器量があったことも大きいとは思うが、故に身分を問わずに有能な者を取り立てる下地があったのだと思う。しかしそれは裏を返すと、協力関係にある実力者が少ないということだ。
唯一最大の庇護者は将軍家治公であり、その威光の甲斐あって権力の中枢にいるものの、実際は精密な舵取りを要する荒波の上の船に等しい。だからこそ大奥や一橋など、力のある者たちの様子を覗いながら、余計な波風を立たせないよう配慮している。
これに関しては田沼公に対する好悪を問わず、苦労しているだろうと感じる。言ってみれば部長クラスの中間管理職とか、代表権の無い取締役みたいなイメージだな。
社長(将軍)に認められて部長や平取締役(老中)の任にいるが、信頼できる部下は少ない上に、権限を持たない創業者一族とその取り巻き(御三卿とか大奥とか)のデカい声を無碍にも出来ずに苦労しているといったところか。当然それらを無視して進めることとなれば、結果、陰口をあちこちで文句を言われるといった次第だろう。
「そのお考えに理解するところも多くございますが、新たなことを成そうとするには、御老中はあまりにも敵が多い」
敵が多いと言うことは、反対意見や横やりも多いということ。それによって俺のやろうとしている方向からズレが生じてしまうと、それはもう無役の俺の出る幕ではなくなる。実際は無役じゃないけど、政務に関わるという意味では似たようなものだ。今の田沼公に託すのはリスクが大きすぎる。
「致し方あるまい。元々軽輩の身から出世した者ゆえ、妬み嫉みは多い。そうやって周囲に配慮をせねば、やれるものもやれなくなる」
「それは自身の保身のためか」
「否定はせぬ。だがお主なら分かろう。今のままでは幕府はいずれ立ち行かなくなる。儂は自分に才能が無いことを知っているが、儂以外にこれを成そうと考える者がおらぬことも知っている」
それが老中の職に固執する理由であり、取り立ててくれた歴代将軍の御恩に報いる方法だと田沼公は話す。
その言葉は弁の立つ者の言ではない。どことなく実直で堅実な仕事をモットーとする職人堅気な雰囲気であり、論戦のような場は不得手そうだし、性格的に本質は不器用な人なんだろうという印象を受ける。
だが、だからこそ自分の言葉を尽くして語るその姿に、令和の世で綺麗事や詭弁ばかり弄する政治屋とは一線を画す、決意というか思いのようなものを強く感じ取れる部分はある。
「外記、父上はそのように目の曇った男ではない。過程は違えども、農産を増やし、収入を米だけ頼らぬ形に変えるという話、我らが政策にも合致する。力を貸してはもらえぬか」
「大和、それは過去の遺恨を水に流してからの話。そして水に流すかどうかは、田安殿が決めることだ」
父の言葉に呼応するように、Jr.が熱弁を振るって協力を求めてきたが、その思いに冷や水をかけるかのごとく、田沼公があっさりとそれを否定した。
中途半端な知識だが、市場経済とか資本主義の政策に関し、俺がこの時代の誰よりも知っているのは間違いない。確かに協力出来ることはあるが、今のままでは超えることの出来ない高い壁が両者の間にそびえていることも事実。父親の方はそれを百も承知でいるようだ。
「そう仰せになられると言うことは、以前私が申し上げた、話せない事情とやらを明かす用意があると理解してよろしいか」
「然り。本来ならば中納言様にお話すべきであることは重々承知の上で、其方に先に話しておこう。……関わりのある話だからの」
……何やら引っかかる言い方だね。田沼公が言う通り、本来宗武公に直接申し上げるべき話だ。俺に関わりがあると言うが、一体どういうことであろうか。
「さて、其方は源内から話を聞き、何故儂が其方を恐れていると考えた」
「己の権力を守るためでしょうか」
これまで軽んじられていたことへの復讐として、宗武公が俺という存在を利用して家の名を上げ、家基様に近づきつつ追い落とす算段をしている。
田安家の行動をそう考えて恐れたからこそ、将軍の後継候補から外すべく定信様を白河へ追いやり、知恵袋と認識した俺を長崎へ飛ばし、家基様の正室にと誘いだして種に毒を盛った。普通に考えればそういうことだろう。
「外記、父上はそのような……」
「今までの関係を考えれば、そう思っても不思議はなかろう。だがのう外記、毒を盛るなどという分かりやすい仕掛けをすると思うか」
「そう言われるとたしかにそうですが……」
普通に考えれば、それで疑われる最有力候補は田沼公である。わざわざ誘き寄せて殺すなんてことをせずとも、他にいくらでも手はあるんだから、そんな危険な橋は渡らない。……と、普通なら考えるよな。
「そう思わせておいて裏をかいて……と思っておるか」
「……可能性はいくらでも考えられます」
俺が難しい顔をして聞いていたのを、田沼公は深読みしていると思ったらしい。
敢えて自分でそれを口にすることで、本人がそう言うなら違うのか……と相手に思わせるためのブラフという可能性もある……
「現時点で御老中を信ずるに足るものは何も無い。故に色々な可能性が考えられますな」
「外記!」
「よい。頭の切れる者ならば、それくらいは考えるものだ。だがの、今の田安家を注視しているのは、何も儂だけではない」
「他に誰が?」
「田安家が発言力を増し、万が一家基様にもしもがあれば、真っ先に後継候補に名が上がるという事態になったとき、一番割を食うのは誰であろうな」
田安家が将軍後継の最有力になることで、割を食うのは……と考えたとき、脳裏に一人の名前が浮かんできた。
「まさか……戸部尚書様」
「そういうことだ」
戸部尚書とは民部卿の唐名だ。そして今、その官職を名乗るのは、一橋家の当主、徳川治済公。田安が将軍に近くなる、または後継者となったとき、一橋はその下となるわけだから、たしかにそういうことを考えても不思議はない。
まさかと口に出してはみたが、田沼公がそれを否定しないのを見て、さして驚きは無かった。もっとも、その名が俺の口からすんなり出てきた時点でまさかというほどのものでもないんだけどね。
だって……なんとなくだけど、一橋治済ってイメージカラーは黒、コードネームは"まっくろくろすけ"ですから。
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