権力を欲する者
御三卿一橋家当主、徳川治済公。
治察様や定信様の従兄弟で御年二十六才、治察様より二つ年上だ。史実では家治公の養子となり十一代将軍となった家斉公の実父だが、歴史の教科書ではほとんど触れられない人物だ。
ってか、改めてそのことを思い返すと、家基様は若くして亡くなる、もしくは将軍に就くことも出来ない瑕疵が発生したということなんだよな……
それはとりあえず横に置いておくが、一橋が今の田安家を危険視というか警戒しているというのはあり得る話だ。
何故かと言えば、表舞台には立たなかった人物であるにもかかわらず、治済公……と言うのも面倒くさい……呼び捨てでいいや。後世になって書かれた多くの作品で治済は裏で色々企んでおり、そのどれもが悪人側と思える描写というのを見ると、良い評価はあんまりされていないような印象があるからだ。
実際に田沼公が失脚したのも、この人が反田沼派を裏で操っていたからと言われているし、その時は協力関係だった定信様……って言うと違う世界線を見ているようで違和感なんだが、後に老中を罷免されたのも家斉以上に治済の勘気に触れたからと言われている。
さらに息子に対し子供をたくさん作れというトンデモ指令を与え、これを受けて家斉はアホみたいに子作りに励んだ結果、五十人以上の子が生まれ、多くが各地の大名に養子、ないしは嫁として送り込まれた。
御三家、御三卿、さらには譜代・外様を問わず、日本各地の大名家に一橋の血脈をねじ込む一大プロジェクト。中には正式な世継ぎが決まっていたのに泣く泣く養子に迎えた家もあったと聞くし、権勢基盤を固めようと躍起になっていたように思える。
そしてこの弊害として、幕府の財政は更に悪化の一途を辿った。
当然といえば当然である。それだけの子を産むには側室の数だって多かろう。それが皆大奥に住まうとなれば、当然そのお付きたちの数も増えるし、あそこは豪奢な生活が基本だから金はいくらあっても足りないのに、収入を増やすような政策は全くと言っていいほど手つかずだったようだしね。
定信様を罷免して以降、外国船の到来が増えて内外の情勢が穏やかではない中、政策的にこれといった成果を出すこともなく奢侈な生活を続けた結果、風紀の乱れと社会の退廃に伴う権威の失墜を招き、家斉の死後数十年ほどで幕府はその命脈が尽きることになった。教科書的には家斉が将軍ではあるが、生前は治済が政治を主導していたと聞くし、幕末の混乱の大きな一因がこの男にあると思われる。
田沼公にしろ定信様にしろ、歴史で知る人物像と実像が必ずしも一致しないという経験は何度もしてきたが、治済に関しては行ったことがひとえに自身と一橋の栄華のためだけであり、そこに国の将来を考えてというビジョンは見えないから、後世の評価はほぼ合っているのではないだろうか。
世界各国の王朝が倒れるときも、何代か前の王の失政を挽回できずに国乱れ勢威は墜ちて……というケースが珍しくないし、この人に関しては為政者にしてはいけないと感じる。
その権力欲が生来のものか、息子が将軍になれる可能性を見出して望みを抱き始めたのかは分からないが、そういう性分であれば、田安家の伸長著しい状況を面白くないと考えてもおかしくないだろう。
「つまり全ては一橋様が裏で糸引いていると。そのように聞こえますが」
「それ以外の解釈があれば伺いたいものだ」
明言こそしないが、その物言いは明らかに一橋が一連の動きに関与していることを示唆するに十分なものだ。
「では、これまで不遇であった田安家から将軍が出るとなれば、その不遇の原因を作った者は真っ先に罷免されるであろうから、機先を制して白河へ送ったという巷間の噂は」
「わざわざそのような要らぬ話をする必要があると思うか?」
「では……」
「恨みが全て儂に向かえば一番都合が良かろう」
田沼が一橋と懇意にするのは、ひとえに政権の安定のため。一方の一橋は将軍の後継に一番近い場所の確保を目的としており、そのために田沼と連携しつつ色々とやらせているようだ。
だからその目的、つまり田安家を政権の中枢から遠ざけることが出来れば、連携する幕閣が田沼である必要もなく、追い落とした後により一層自身の意を汲んでくれる手駒を送り込めばいいだけだ。
田沼公もそのことは十分承知しており、今がその機であると仕掛けられているのだろうと語られた。
「しかし、何故今なのでしょうか。これまでは表面上上手くやっていたように見えますが」
「上総介様が白河に入る前の話だが、大納言様にもしものことがあれば養子にと、上様が仰せになられたことがあった。無論幕閣でも知る者は一握りの話であったが、どういう経緯か一橋様の耳に入ったようだ」
「それで定信様が……」
「信じるかどうかはお主次第だがな」
本来、御三卿が幕政に口出しすることは出来ないのだが、身分的には老中たちより上だから、彼らが何かを言えば無碍にするわけにもいかない。表向きには幕閣がそれを主導したと思われる政策決定も、裏では何らかの圧力がかかってというケースは多いらしい。
そして、定信様が白河へ向かわれたのは、一橋様からの横槍によるもの。田沼公の話が真実ならばそういうことだ。
「一橋は何人も養子に出しておるのに、田安からは何故出さないのであろうとな」
治済の兄弟は、夭折した者を除けばみな他家へ養子に出されている。
越前福井藩松平家に兄である長男と三男が入り、弟は筑前福岡藩黒田家に養子入りした一方、田安家は治察様が家督を継いだというのに、賢丸様はそのまま田安邸に留まったままだった。
その状況に言いがかりに近い苦情というか、暗に養子先を見つけて追い出せみたいな圧力を受けたらしい。
「それで御老中は養子入りの話を進められたと?」
「それ自体はおかしな話ではないからな」
一橋家しかり、田安でも辰丸様がそうであったように、御三卿の若君が他家に養子入りすることは既定路線のところもある。だからそう言われては、横槍と言えども考慮しないとなると、何か留め置く理由があるのかと、痛くもない腹を探られることになってしまう。
「一橋様が大きく騒ぎ立てる前に、穏便に処置せざるを得なかったのだよ」
「それなのに、御老中の独断だと流布されたということで?」
「儂がそれを言っても信じる者は少ないだろうがな」
田沼公がそれを公に否定しないのは、表向きには連携している一橋との関係を壊せないからだろうが、向こうからしてみればそれを分かって仕掛けている。そんなところか。
「しかし、上様の御子は大納言様のみ。今しばらく様子を見るという手も」
「そんなことを儂が公に申せば、大納言様の不幸を願っていると糾弾されるわ」
「たしかに……」
「まあ、誰かさんはそうなったら吉宗公のように御三家から後継を入れればと申しておったが」
「白々しいですね。そうなったときは豊千代様が候補の筆頭になるというのに」
豊千代様とは、定信様が白河へ養子に入った前年に生まれた治済の嫡男である。
賢丸様が松平姓になった時点で、当主や隠居を除いて、御三卿の家で後々徳川姓を名乗る資格を持つは豊千代様のみとなれば、何が狙いか分からないはずもない。
「ところが、田安家にも同じ年に寿麻呂様がお生まれになられたゆえ、豊千代様が確実とは言えなくなった」
「それよ。大府卿様に御子が生まれたことをひどく気にしていたようでな。その要因がお主にあると知って……その後のこと想像がつくであろう」
……俺に何の関係があるかと思えば、そういうことか。
元々田安家は御子の早世が続き、ようやく育った治察様もお身体が弱く、先行きの怪しい家であったのに、俺という存在に触れてから様相が一変した。
子を成すことは難しかろうと高を括っていたのに、見事に跡継ぎが生まれた。そしてそれほどまでに頑強になった要因は、俺の提言にあると知り、排除対象に含まれることになったのだろう。
「私の仕事に疑義があるという話も……」
「上様の御為に汗を流すべき旗本が、登用の誘いを蹴って何をしておるのかとな」
「それででしたか」
今の話を聞けば、疑義を呈したのが誰なのかは言うまでもない。だからこそ何らかの対応をせざるを得ず、それが留学という形になったわけだ。
「蘭学者であるお主を長崎送って学ばせると申せば、文句は言われまい」
「しかしあのような短期間で……もし成果を上げられなかったら……」
「出したではないか」
「それは結果を見たから言えることかと」
「見くびるな。儂はお主を警戒していたが、その才まで否定した覚えは無いぞ」
どうやら最初から、俺が何か持ち帰ってくると想定した上で送り出したようだ。
俺が結果を出せば、一橋様の忠告を受けて対応したのですが何か問題でも? と言えるし、仮にダメであったとすれば俺を田安家から切り離すだけ。どちらにせよ自身に痛手は無いわけだ。
「ですが、持ち帰ってきたものを私が田安家のために活用しようとしたらなんとしました?」
「だからこそ儂ではなく大納言様からお話ししていただいた」
「私が大納言様に背くはずがないと」
「実際にそうではないか。仮に其方が得た知識を隠し持っていると知れば、そのときは上様の名で命じただけだ。折角得たものを使わぬ手はないからな」
そう言って田沼公がニヤリと笑った。
どうにもおかしい。最初は俺と会うのが気乗りしないし、老中の命で参上させるのも気が引けると言っていたはずなのだが、その割には話の内容が思いのほか濃かったし、最初から俺を利用しようと仕組んでいた雰囲気を感じる。
怪しいと思ってチラリと見れば、源内さんが苦笑しているし、大和守はバツの悪そうな顔をしていた。
そういうことか……
「全て演技でありましたか」
「演技とは?」
「自分は乗り気で無いと言いつつ、大和守様や源内さんが先走ったのを上手く利用しておられるご様子だ」
「何故そう思う」
「悪い顔をしておられる」
前言撤回。何が実直な職人気質だよ。
上様のためとか幕府のためという言葉に嘘は無さそうだが、この人も十分に狸だわ……
そら(魑魅魍魎が跋扈する城内で生き残るには)そう(強かで老獪でなくてはやっていけない)よな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます