それいけ!外記パンマン
田沼Jr.と話をしてからしばらく経つが、今のところ特に反応は無い。
大和守意知。史実で知る限りでは、父の跡を継いで改革を進めていく旗頭として将来を嘱望されていた人物だったはず。
これまでのやり方が時代遅れであることは明確に見えていたようだし、そのために奔走する意欲はありそうだったが、なんて言うのかなあ、なんかこう……ちょっと暑苦しい感じがした。
一言で表すなら……熱血指導で知られる某元プロテニスプレーヤーみたいな感じ。
「君なら出来る!」「どうして全力を出さない!」みたいなことを言いそうで、相手をするのに気力体力がかなり必要そうだったので、放っておいてもらえるならそれはそれで構わないんだけど、俺にコンタクトを取ってきたことだけは未だに引っかかっている。
田安家が田沼を快く思っていないのは重々承知していたはずだ。種の件があったのだから尚更のこと。普通に話しかけたって聞く耳を持ってくれないことくらい分かるはず。本来話があるのであれば、父親の方が直々に田安家を訪れて話すべきだろう。
そこから、これはJr.の単独行動、つまり父親の与り知らぬところで個人的に動いていたのではなかろうかと考えた。
なんでそう思ったかと言えば、あまりにも迂闊だからだ。俺に会いに来たところで、結局そのことは宗武公たちの耳に入る。というか、俺は報告するから嫌でもその事実を知ることになる。
なのにあのとき、肝心な話はまだ話せないと濁された。となれば、老中の指示によるものではないと思われ、一連の事態の流れを傍から見て危惧した大和守が独断で動いたというところかもしれない。成果らしい成果と言えば、改めてこちらの拒否反応を再確認出来たくらいではないだろうか。
海千山千の老臣に比べたら、まだまだ彼も坊やだからね。急いては事を仕損じるという格言を教えてあげたい。
……と、大和守より十歳近く若い俺が言ってみる。
まあ、いずれ動きがあるのかもしれないが、それを悠然と待っているヒマは無いので、俺は自分のやるべきことを粛々と進めていくだけだ。
というわけで、今日はそのやるべきことを手伝ってくれている協力者の来訪を受けていた。
「長兵衛殿、ご足労をおかけしたな」
「いえいえ、斯様に面白き話、私めを見込んでとお願いされれば受けぬわけにはいきませんからな」
屋敷を訪れていたのは和菓子職人の長兵衛さん。以前綾の母親が勤めていた店の主人であり、江戸でも有数の菓子職人である。
「では、その成果を見せていただこうか」
「はい、これは昨日焼いたものにございますが」
「……おお、私の考えたパンに限りなく近い。しかも昨日焼いたというのにまだ柔らかいぞ」
「こんなに柔らかくなるものなのですね。私どもが焼いたものは次の日にはカチカチでしたのに」
そう、長兵衛さんにお願いしたのはパン作りである。餅は餅屋と言うが、日本にパン屋は無いので、同じように小麦粉を商いに使う者はと考えて、和菓子職人に頼んだのだ。
◆
それは遡ること二ヶ月ほど前の話である……
「……さて、どうだろう」
「今回は上手くいきますでしょうか?」
「そうあってほしい……」
と、期待に胸膨らませて釜を開けてみたが……肝心のそれは膨らんでいなかった……
「ダメか……」
釜の中から出てきたのは、小麦粉を水で捏ねて成形したものを焼いた何か。というか、パンになるはずのものだった。
「これでは食べられぬのですか?」
「いや、膨らまなかっただけで、食べることは出来ますよ」
原因はともかく、膨らまなかっただけで小麦粉生地を焼いたのだから、食べられないということはない。
「香ばしゅうございますね」
「……これはこれで美味いんだけど」
見た目も食感も、パンというよりはナンやピタに近いかもしれない。カレーやケバブが欲しくなる感じだ。
「外記様、これでも十分なのでは」
「いや、上手に焼ければ、膨らんで中がフワフワになるはずなのです」
余計な邪魔が入らないのをいいことに、俺は長崎で教わったパン作りを研究していた。
種が言うとおり、これでも十分に食用に耐えうるが、小麦粉を練って焼いたものであれば、日本にも似たような食べ物はいくらでもある。俺としては”パン”という日本人が食べたことの無い味と食感を持つそれを食卓に並べる選択肢に加え、小麦やライ麦の栽培を促進しようと考えている。
特にライ麦は耕作に不向きな痩せた土地や寒冷地でも育てられるそうなので、飢饉になって何も食べる物が無い……という事態は避けられると思うし、甘藷のときと同様に非常食ではなく、普段から食卓に上がる食べ物の一つとしてパンを認知させたいんだ。
そのためには、ふんわりフワフワのパンを作りたい。ペッタンコにはペッタンコの良さがあるのは重々承知しているが、やっぱり膨らんでいた方がいいのは自然の摂理であろう。深い意味は無いぞ。
……とはいえ、口で言うほど簡単に作れるわけじゃないのよね。
膨らませるには発酵、つまり酵素によって物質が化学変化する過程が必要だ。
元々パンの原型は、小麦粉と水を混ぜて捏ねた種を単に焼いただけのものだったのが、たまたま余った種を一番放置していたら、空気中の酵母菌がついて自然に発酵しており、それを焼いてみたらふっくら焼き上がったというのが起源だ。
そして、発酵したパン種の一部を残し、次の種に混ぜてを延々と続けて作っていたものが、いつの頃からか、小麦粉やライ麦粉と水を混ぜたサワー種というものが作られるようになり、これを種にして生地に混ぜて焼いたのが中世のパン作りである。
とはいえ、何でパンがフワフワに焼けるのかというメカニズムは、この時代ではまだ解明されていない。ツンベルク先生の話だと、百年ほど前にオランダのレーウェンフックという人が、顕微鏡を使って初めて微生物の存在を確認したそうで、それが何らかの影響を与えているのでは? と考えられている段階らしい。
発酵のメカニズムって、たしかパスツールだったかな? いつの時代の人か覚えていないが、現状を見るにもう少し後世の人なのだろう。
そういったわけで、今のところは理由は分からないけど、特定の何かを生地に混ぜることで発酵が進み、パンがフワフワに焼けるというくらいの認識だ。その基になるのが所謂天然酵母というやつだ。
いやね、工場で培養されたイーストも元は自然由来なので、天然酵母って言葉はおかしいんだよね。自家製をわざわざ天然って謳う意味が分からないんだけど、この時代で使われるのは、未来の日本で言うところのそれだな。
先程名前の出た古典的なサワー種とか、ヨーグルトなどをパン生地に混ぜて作る方法を長崎で教わったので、色々と挑戦しているのだが、どうにも上手くいかない。
実は前の人生でちょっとだけパン作りを趣味にしていた時期があったので、余裕で焼けるっしょと思っていたのだが、そのとき発酵に使っていたのはこの時代には無いドライイーストでした。残念。
なので、かつてクック○ッドとかでチラ見したくらいの記憶しかない、果実種とかサワー種を頑張って作ってみたのだが、成功したりしなかったりと、安定した焼き上がりになってくれないんだよね。
考えてみれば、発酵と腐敗は表裏一体なのだからそれもそのはず。容器の煮沸消毒を怠ったり、保存環境が悪ければ、たちまちお腹イタイイタイの物質に変わってしまうし、そのあたりを厳重に管理しても、作る季節や環境で出来上がりに大きな違いが出る。言ってみれば糠漬けがそれぞれの家で味が違うのと一緒だな。
「難しいですわね……」
「殿、こういうときは、その道に通じた人物に話を聞いてみてはいかがでしょう」
「誰かアテがあるのか?」
三人で試行錯誤しながら、今日もペッタンコパンをおやつ代わりに頬張って、次はどこを直せば良いかと思案していると、綾が何か考えがあるようだ。
「和菓子屋なれば、饅頭の皮に小麦粉を用いておりますし、何か良い知恵があるやもしれませぬ」
「……そう言えば、以前其方の母が勤めておったな」
「はい、母からご主人に話をしてみることは出来るかと」
こうして、俺は日本橋に店を構える和菓子屋の長兵衛さんにアドバイスをもらうことにしたのだ。
◆
「それにしても……こんなに柔らかく焼けるとは。長兵衛殿に頼んだ甲斐があったというものです」
「お褒めに与りなによりです。藤枝様の仰る話を伺えば、どうやら時間をおいて材料の色や形、味が変わる食べ物などを混ぜるようでしたので、それらを使って試行錯誤してみました」
「私の拙い説明でそこまでご理解いただけたようで助かります」
現時点で”発酵”という言葉はこの国に存在していないが、長兵衛さんは俺の話から、この時代の日本にある、長期間熟成させる食品を次々に試したようだ。
味噌、醤油、酢などの調味料から、糠や納豆まで……って、糠や納豆を小麦粉に混ぜたのか。さすがに俺は怖くて試せないな。結果は残念な仕上がりだったそうだが、捨てるのは勿体ないからと、その後スタッフが美味しくいただいたそうです。(本当に美味しいかは不明)
「それで、これは何を種にしたのですか?」
「はい、これは酒種を使っております」
「酒種かぁ。そうか、その手があったか」
酒種とは、米と麹から作られ、日本酒を作る際の酵母となるものだ。
これは俺もすっかり記憶から抜け落ちていたが、日本人の口に合うようにと、イーストの代わりに酒種を使ったパンが明治期に生まれて、以来令和の世でも絶えることなく生産されていたじゃないか。
言われてみれば、長崎で教わったときにビールを種にしてパンを発酵させるという方法も教わっていた。お酒ってのは基本的に発酵させるものなんだから、たしかに日本酒でも作れないことはないよな。
なんとなく西洋っぽい雰囲気で作ろうと考え、向こうの物に似た材料や製法でやることに拘りすぎて、最初から選択肢に入れていなかった。長兵衛さんに任せて正解だったな。
「それと、これは余計なお世話かとも思いましたが、単にオランダの”ぱん”を真似るだけでは面白くないので、少々手を加えてみた物です。よろしければご賞味いただきたく」
「では折角なので……これは」
長兵衛さんに勧められて、変わり種という丸いパンを手にして少しちぎってみれば、中には餡がびっしりと詰まっていた。
「小豆餡にございますな」
「はい、饅頭で出来るのですから、ぱんでも難しくはございますまい」
それは見紛うことなく、未来の日本にも存在する伝統の菓子パン。
その名は……アンパンやーん! 新しい食べ物よ!
◆
<友情出演>バ〇コさん
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