史実通りにはさせない
「差し出がましいことを申しました」
漢方医たちを追い払った後、種姫様がそう言って頭を下げた。
「すまんな。種の仕込みなのだ」
「仕込み?」
「其方が山師呼ばわりされて、種が憤慨してな。自分が苦言を呈すから、その前に雷を落としてくれと」
姫様発案の北風と太陽作戦は、その思惑通り漢方医たちを黙らせた。
吉宗公や家基様を貶める発言を賢丸様に咎められたのを、姫様が宥めたことで、漢方医たちも沸騰していた頭が冷静になったのか、大人しく話を聞いていた。
その流れで、賢丸様が今後の活躍に期待するとして罪を問わないことにしたのだから、彼らにとっては命拾いだろうし、余程鈍い者でなければ、その活躍というのが何を意味するかは分かるはず。
「ただ、姫様に恨みが向かねば良いのですが」
「そこまで阿呆ではあるまい」
徳川の姫とはいえ、年端もいかぬ小娘にやり込められたのだから屈辱だったと思う。しかし、だからこそ今日のことを言いふらすことなんか出来ないだろうと賢丸様は言う。
口に出せば、それ即ち自分たちの愚を晒すに等しく、どこで我々の耳に入るかも分からないから、話を捻じ曲げて良いように解釈することも出来ない。そうお考えのようだ。
「種の言葉だからこそ意味があったのだ」
たしかにあの場で俺が同じことを言っても、火に油どころか硝石やニトログリセリンをぶち込むようなものだし、賢丸様が責め続ければ咎めるしかなかっただろう。
姫様が宥め諭すことでワンクッション置き、それによって賢丸様が温情をかける余地を作るという形は、穏便とは言い切れないが、モアベターな終わらせ方だったのかもしれない。
「本当は斬り捨てて
「物騒な……」
「しかし、結局悪しざまに言われるのは外記様ですから、ならば恩を売って良い方向へ仕向けようかと」
「お祖父様を馬鹿にされて黙っているわけにはいかぬからな。一芝居打った」
「そういうことでしたか。いや助かりました。さて、邪魔者もいなくなったところで講義を始めましょうか」
「……その前に一つ」
机を用意しようかと綾に声をかけたところで、神妙な面持ちで賢丸様が話があると仰る。
「何かございましたか」
「養子に行くことが決まりそうだ」
「養子……どちらへ」
「奥州白河」
「なんと……」
少なからず俺が歴史を変えてしまったような気がしていたが、白河藩に養子入りするのは歴史通りなんだ……
――白河藩久松松平家
その起源は戦国時代、松平家から離縁された徳川家康の母・於大の方が、尾張の国人領主だった久松俊勝の元へ嫁いで生まれた男子たちに端を発する。
後に徳川家の家臣となった俊勝の三人の息子は、家康の異父弟ということで松平の姓を授かり、それぞれ領地を与えられたのだが、中でも一番出世したのが四男定勝の家系で、賢丸様が養子入りする白河藩は、そのうち三男定綱の家だ。
最初は伊勢桑名十一万石に封じられたが、領地の統制を厳しくしすぎて騒動が勃発し、懲罰的な意味合いを込めて越後高田藩、そして白河藩とこの数十年で二度も領地替えとなった家。譜代ではあるが、少々難のある家とも言える。
ちなみに定勝の長男定行が封じられたのが伊予松山十五万石。久松の本家として親藩に列せられているこの家の跡継ぎは、賢丸様の同母兄であるあの辰丸様、今は元服して松平中務大輔定国様だ。
「辰丸様がご本家ですな」
「笑えない冗談だな」
「されど、この時期に養子入りですか」
「それについて善からぬ噂が……」
「噂?」
養子入りすることは珍しくもないが、どうしてこの時期なのかと尋ねてみれば、種姫様が不穏なことを仰る。
「ご老中が画策したのだとか」
「滅多なことを申すな」
「されど……」
どうやら今回の話は、史実に近い理由のようだ。
現藩主松平定邦公は子が娘一人のみで嗣子がおらず、家格を上げるため将軍の一門から養子を迎えたいと望んだとか。とはいえ将軍家には家基様しかいないし、清水は子すらおらず、一橋は昨年長男が生まれたばかり。そうなると賢丸様が年齢的にも適任となる。
……というか、現状で賢丸様しか候補はいないのだから、ピンポイントで狙われたような気がする。白河が養子を望んでいるのは本当なのだろうが、あまりにも話が上手過ぎませんかね? と思うのだ。
史実ではその才を恐れた田沼が将軍の後継候補から外したとか、一橋がライバルを蹴落とすために仕組んだとか、きな臭い事情がありそうな諸説が入り乱れていたようだし、実際、養子入りが決まった直後に治察様が亡くなり、賢丸様は田安の跡を継ぐことが出来ずに田沼を恨んだんだったよな。
この世界では治察様が跡を継ぎ、さらには嫡男寿麻呂様も誕生したので、史実より田安家に対するリスクは少ないと言えるが、賢丸様が将軍の後継候補から外れるところは変わらないわけで、噂が流れている時点で、この世界でも何らかの思惑が働いてこうなったと見るべきかもしれない。
「とはいえ上様の命ではな……」
「賢丸様はご老中に思うところがありそうですな」
「無いと言えば嘘になるが、こればかりはどうにもならん。我らは万が一のときの控えゆえ、その懸念が薄れたとなれば、養子入りもやぶさかではない」
「されど奥州ですか……」
史実通りであれば、後に起こる大飢饉で東北は大きな打撃を受ける。
その中で白河は被害を最小限に抑えた数少ない藩となり、それを主導した藩主定信は名君と謳われて後に老中就任の切っ掛けとなった。
実際には御三卿からの養子だから、幕府からかなりの援助はあったみたいなので、自助努力だけかと言うと違うようだけど、それでも相当に苦労することになるだろう。
「心配要らぬ。お主の救荒食があるではないか」
「あまり楽観視せぬほうがよろしいかと」
「厳しいか?」
「ええ。実際に見たわけではございませぬが、昨今の米の値上がりを見るに、相当に疲弊しており、救荒食を植える以前の問題となっている可能性があります」
俺は歴史でそれを知っているから言えるのだが、生まれてからずっと江戸に住む者は、実際の惨状を目にしていないので、飢饉の実態を把握しきれないと思う。
そしてそれは、各藩の若君、つまり次期藩主となる者たちに共通の課題だ。
幕府の政策により大名の妻子は江戸在住を義務付けられており、領地に下向するのは跡を継いだ大人になってからとなるため、生まれ故郷とはすなわち江戸を意味し、領地はあくまでも自身の収入を得るための土地でしかない。藩政は現地にいる家臣に任せるのが常で、故郷のために自分が一肌脱ぐみたいな気持ちにはなりにくいよな。
もちろん真摯に向き合う人物もいるけど、どちらかと言えば少数派だろう。
「そもそも白河の内情をよく知りませぬ。まずは領地、領民、そして家臣のことをよく熟知されるよう努めるべきかと」
「それはもちろん承知の上だ。のうのうと暮らす気は無いぞ」
「それでこそ賢丸様です。その上で救荒食の栽培を手がけるならば、いくらでもお力添えいたしましょう。先程の卵の話ではございませんが、有難いことに結果も出始めておりますし」
「堀田殿の領地だな」
既に佐倉藩堀田家の領地である出羽村山郡では、以前下総へ下向した際に知り合った、佐倉藩の家臣渋井太室殿に伝授したジャガイモの栽培が始まっている。
渋井殿には乳製品を手に入れるために白牛の飼育で世話になったので、そのお礼にと俺も喜んで栽培法を教えたところ、凶作への備えに四苦八苦していたようで、願ったり叶ったりといった感じで郡内のあちこちで栽培を始めると、上々の収穫があったようだ。
「白河でも栽培出来れば、近隣の藩も続くところは出てくるだろう」
「そうなればありがたい限り」
現状ジャガイモ栽培は村山郡だけで行われている。渋井殿には近隣の藩で興味のある者がいれば教えても構わないとは言ったが、今のところは特にそういった申し出は無いらしい。
もしかしたら、佐倉藩の秘匿情報ではないかと思って聞きづらいとか、よその藩に頭を下げるのが嫌とかいう変なプライドが邪魔をしてみたいな事情があるのかもしれないが、白河でも栽培出来るとなると話は変わってくる。
なにしろ賢丸様は御三卿の出身、他の藩から見たら格上と見られる。同格に頭を下げるのは嫌でも、上の者に教えを請うという形なら体面が傷付くことはないから、賢丸様に教えを請いに来る近隣の大名が現れるかもしれない。
「とすれば、賢丸様にも農学をみっちり仕込まねばなりませんな」
「お手柔らかに頼むぞ」
「大丈夫ですよ若様。殿は私ごときでも分かるように教えてくださいますから」
「綾、甘やかしてはいかんぞ」
「俺にだけ厳しくないか?」
「それは賢丸様の心の持ちようにございます」
賢丸様が白河藩に入る。つまり、いずれは松平定信を名乗ることになるという歴史の流れは変わらなかった。
だが、何もかもが変わらないのかといえば、そうではないぞという手応えも感じている。
これから来るであろう大飢饉。少しでも多くの人を救うためにも、賢丸様に色々と学んでいただくことになるだろうな。
◆ ◆ 人物解説 ◆ ◆
田安寿麻呂(1773-??)
史実では生まれなかった治察の嫡男。ちなみに寿麻呂は治察の幼名であり、息子にも同じ名前を付けたという設定です。
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