種姫のたまご

「今の話、もう一度言うてみよ」


 襖の向こうで話を聞いていた賢丸様。


 蘭学の存在自体を否定する者が現れるのは以前から話していたが、さすがに吉宗公を貶める発言をされては黙っているわけにもいかず、飛び込んできたようだ。


 その証拠に、目が血走ってるぜ……


「小僧、急に話に割り込むとは何事か!」

「ま、待たれよ」


 一人の男が賢丸様の顔を知らぬようで、しゃしゃり出てくるなと憤慨しているが、さすがに江戸城に詰める御典医はその正体に気付いたらしく、必死に同輩を宥めている。


「方々控えられよ。田安中納言様のご子息賢丸様とご息女種姫様の御前にござるぞ」


 俺が紹介するや、真っ赤になって憤慨していた男の顔色が真っ青に変わった。


 マジで信号機みたい。そういうのは漫画の世界だけと思っていたが、リアルでそういう光景を見ることになるとはな。


 ……ていうか、誰とは分からずとも、お祖父様という単語で違和感は感じることが出来たはずだし、ウチに出入りしている者が誰かは少し調べれば分かるはず。頭に血が上ったまま突撃してくるからこうなるんだよ。


「公の場ではないゆえ、畏まる必要は無いが……先程の話がどういう存念によるものかだけは聞かせてもらいたいものだな」

「い、いえ……お耳汚しの話にござれば……」

「そうだな。我がお祖父さまが何者かに誑かされているなどという妄言、たしかに耳が汚れるな。だが、先ほど外記に向かいそう喚き散らしたのはお前らであろう。事と次第によっては容赦はせぬぞ!」

「お兄様、そのような怖いお顔で責められては話せるものも話せなくなりますよ」


 賢丸様が憤怒の表情で詰る姿に、医師たちが恐れおののいていると、種姫様が宥めに入った。


「彼らには彼らの思いがあるのでしょう。お平らに」

「お前にそんな窘められ方をするとはな……」

「さて、皆様方。先ほど外記様と交わされていたお話、私どもも耳に入りまして、一つお聞きしたいことがございますが、よろしいかしら?」

「なんで……ございましょうか?」

「何をもって全ての面において、我が国の医術がオランダのものより優れていると豪語できるのか、私には理解できかねますの」

「……は?」


 強面の賢丸様の詰問に代わって温和な声色で種姫様が話しかけられ、医師たちの表情が一瞬緩みかけたが、瞬間、辺り一面が凍りつくかのような感覚に襲われる。


「質問の意図がお分かりにならないようなので、聞き方を変えましょう。刀と薙刀、どちらが武具として優れているとお考えかしら?」

「それは……刀には刀の、薙刀には薙刀の長所がございますれは、一概には……」

「そうでしょうね。どちらかが全てにおいて優位というわけではありません。敵を倒す武具という点では一緒ですが、戦う時と場所によりその優位性は変わりましょう。医術とて同じではありませんので?」


 日本の医術もオランダの医術も、等しく人の命を救う術であることに変わりはない。どちらかが全てにおいて優れているという話ではなく、両方の良いところを取り入れればよいのではないかという例え話だ。実に分かりやすいね。


「し、しかし、得体の知れぬオランダのものを……」

「あら、我が国の医術も、かつて大陸より伝わった知識や技術が由来のものは多いのではございませんこと?」

「そうだな。それを我が国の風土に合わせて形を変えて今に伝わっている。違うか?」


 日本には大陸渡来の文物をルーツとするものが数多くある。長い時間をかけて、それを日本人仕様にカスタマイズしたものが今に伝わっているわけで、医学に関しても、オランダのものを”蘭方”と言うのに対し”漢方”と名乗っているように、根底には中国医学の影響を大きく受けている。




「かつて、それが大陸から伝わったとき、我が国の人間はそうやって忌避したのだろうか。受け入れ、それを発展させたからこそ、其方たちがその技術を受け継ぎ、世のため人のために腕を振るうことが出来ているのではないのか」

「それは……」

「外記をはじめとした蘭学者たちがやっていることも、かつて我らの先達が全く無のところから漢方を学んだのと同じよ。いや、唐の言葉なら解す者も多かろうが、全く意味も分からぬオランダ語の訳文を作り上げたのであるから、その労苦はさらに大きいことだろう。故にまだまだ拙いかもしれぬが、これで病や傷に悩む者を一人でも多く救う可能性が増えるのであれば、賞賛されど非難される謂れは無いと思うが?」

「……仮に仰せの通りであるとして、既に出来上がった内容を我が国の言葉に直しただけでしょう。それほどの偉業とは思えませぬが」

「今、何と申した……?」


 賢丸様激怒→種姫様が宥める→落ち着いたところで賢丸様が優しく問いかけるの連携。アメとムチ、北風と太陽の如き、事前に仕込まれたのですか? と思うコンボで、ようやく場が落ち着いたかと思ったら、一人の医師が苦し紛れの負け惜しみか、余計な一言を言ったものだから、今度は種姫様がちょっと闇落ちしかけている。


 ……あの表情はその前触れだ(実体験による推測)。




「ふーん、蘭語和訳など誰でも出来るですか……ならば試してみましょう。綾、"たまご"をこれへ」

「畏まりました。をやるのですね」

「さすがは綾、物分かりが早いわね。外記様、よろしゅうございますかしら」

「ご随意に」


 しばらくすると、姫様に命じられた綾が皆の前に鶏卵を持って戻ってきた。姫様が仰った"たまご"とは、隠語でもなんでもなく、そのままの意味だ。


 何をするのかといえば、おそらくアレだろう。


「これは鶏の卵です。皆様は道具や支えなどを用いず、この卵を立てて置くことが出来ますかしら」


 医師たちはこれと蘭書和訳に何の関係が? と訝しがったが、姫に命じられては試さぬわけにもいかず、順に卵を台の上で立てようとしたものの、当然ながらコロコロと転がって立ったまま静止することはない。


「姫様、この形ですから立てて置くことは叶いませんぞ」

「あら、私などよりもずっと長きにわたり学を修めてこられた皆様にも方法が分かりませんので?」

「では姫様なら出来ると?」

「こうすればよいのです」


 姫が卵を手に取ると、片方の先端を台にコンコンと打ち付け、それを底面として見事に卵を立たせることに成功した。


「いかがですか。立ちましたでしょう」

「え……いや、その……それでよければ我らにも出来ますが……」

「……それは私がやり方を見せたから知っただけでございましょう。現にそれまでは誰も出来なかったようですが?」


 姫様が見せたのは、いわゆるコロンブスの卵というやつだ。実際はコロンブスではなく、イタリアの建築家の言葉という説もあるみたいだけど、なんでそれを知っているかといえば、俺が教えたからだな。



 ◆



「ああ、腹が立つ」

「何かありましたかな」


 解体新書が刊行されてすぐのこと。姫様が、「和文に訳すことくらい、誰だってやろうと思えば出来る」と、一部の知識人階級が評していることを聞き及んだらしい。


「だったら、何故貴方が先に成していないのですかと問い詰めたいです」

「そういった妬み嫉みは我が国に限ったことではないそうですよ」


 というところから、新大陸を発見したコロンブスの逸話として、卵の話をしたんだ。


「やり方が知れてからは、それくらいなら自分でも出来ると思うのは当たり前です。成功の方策が見えているのですからね」

「なるほど……」



 ◆



「蘭書和訳も同様でございます。江戸にオランダ語を解す者はなく、長崎通詞はカピタンの参府に同行するほんの僅かな間のみの逗留。その状況で外記様をはじめとする蘭学者たちは自力でオランダ語の解読を進めたのです。誰にやり方を教わったということもなしに、です」

「……」

「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うを以て志とすべし。わが身の利養を専ら志すべからず。という言葉をご存じかしら」


 おや、難しい言葉をよく知っている。「医療の根本は人を救おうとする志であり、自分の利益ばかりに熱心ではいかん」という、後世、医は算術などと揶揄されるどこかの医者に聞かせてやりたい言葉だ。


 俺的には故事成語に近いイメージだったけど、初出は今から六十年ほど前に貝原益軒という本草学者が記した『養生訓』という書物の一節らしい。


「皆様が漢方医学に誇りを持っていることは良く分かりました。されど、それは人を救うための術であり、相手を知りもせず貶めるために身に付けたものではないはず」

「……仰せの通りにございます」

「古くは大陸より渡来した医学も、長い年月の間に新たな知識が組み合わさって今日に至っているのでしょう。今これより後、そこにオランダの知識が加わったとして、何の不都合があると言うのですか。学び取りて有用なものがあればこれを入れ、不要なものがあれば捨て、誤りがあれば正せばいいだけのことです」

「その通りだな。今ここでそなたらの罪を問うてもよいのだが、あたら有為の人材を失うのも惜しい。今後の其方らの行動次第で、今日のことは不問としてやろうかと思うが、いかがじゃ?」

「多大なるご温情、感謝に堪えませぬ」

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