激おこぷんぷん賢丸

――解体新書の刊行


 これまで知り得ることの無かった蘭書の内容を和文に訳した書は、世間に驚きをもって迎えられた。西洋の学問を「蛮学」と蔑む者たちの大いなる反感、という副産物も同時に生み出して……




「殿、ご来客にございます」

「はて、今日はそのような予定は聞いておらぬが」

「御典医をはじめとした、漢方医たちが面会を希望しております」

「お出でなすったか……」


 刊行して間もなくのこと、多くの武家や漢方医が天真楼に押しかけてきた。


 彼らに共通するのは、蘭書和訳自体が神をも恐れぬ蛮行であると信じて疑わないこと。洋夷の学問を流布するとはどういう了見だと怒って抗議に来たんだ。


 初版は基本的に予約した人を優先しており、彼らがそれを手に入れたとは考えにくいし、仮に入手していたとしても議論できるほど内容を理解するには読み込む時間が少なすぎる。つまり、内容云々で議論に来たわけではなく、刊行した行為自体がけしからんと文句を言いに来ただけなのだ。


 俺は一応四千石の旗本だし、前野さんも中津藩の屋敷にいるから、外部の人間が容易に推参するということは難しい。よって、町民の診療も行っている天真楼に大挙して押しかけてきたという次第だ。


 聞けば聞くほど頭の悪い主張だなとしか思えないのだが、杉田さんはそんな彼らにも粘り強く応対してくれた。それでも食い下がる者には俺の名前を出すように言っておいたので、今のところ大きなトラブルにはなっていない様子である。


 俺が宗武公に蘭書和訳を託されたのは周知の事実だし、家基様にも蘭書和解の役目を仰せつかっている。藤枝外記の手が加わっていると言えば、文句を言いたければ御公儀か田安家、もしくは俺に直接言えと言っているに等しく、町医者や素浪人が手の出せる相手ではない。


 が……今日この屋敷に訪れたということは、それなりに議論が出来るくらいには理論武装してきたと考えるべきだろうか。


「しかし、先触れも無しに来るとは侮られたものだな」

「御典医が加わっていれば、私に直接文句を言うことも出来るくらいに考えているのでしょう。追い返しますか」

「いや、連中が何を言うか興味がある」

「では隣の部屋で控えていてくだされ」


 まったく……タイミングの悪いときにやって来たものだね。




「お待たせいたしましたな」


 綾に命じて客間に通し、四半時ほど放置してから顔を出した。


 来訪したのは典医を筆頭に、そのお仲間や同窓と思われる医者が全部で十名ほど。それだけの大人数で寄ってたかって俺を詰るつもりなのかと思うと、器の小さい連中だなと思ってしまうね。


「突然の訪問にて失礼いたす。ときに……藤枝のお家ではあのような幼子に来客の応対をさせておられるのですか」

「何か粗相でもございましたか?」

「いえ、何も……」

「先触れ無しのご来訪だったゆえ、家中の手が足りませんでな。あの娘はああ見えて私が学を授けておりますれば、皆様に粗相の無いようご対応できると思い命じたのですが……不服でございましたかな」

「い、いえ、そういうわけではございませぬが」


 本来ならば家中の男の中でそれなりの役に就いている者が対応するのが礼儀であり、女の、しかもどうみても年端もいかぬ綾に応対させたことを蔑ろにされたと思っているのだろう。


 だけどね……先に無礼をしたのは事前の連絡無しに押しかけてきた君たちだと言外に匂わせれば、向こうもそこは承知しているようで言葉に詰まっていた。


「さて、皆様もお忙しい身でしょうから、早速用向きをお伺いいたしましょう」

「されば、あの書物……解体新書のことにございます」

「左様でしたか。あれはまだまだ拙い訳文にて、皆様の知見をお伺いできるとあれば喜んで……」

「さにあらず、このような書を世に出した存念をお伺いしたい!」


 ……本当に真面目な議論をするために来た可能性を考慮して対応してみたが、予想通りの反応だったものだから、却ってリアクションに困る。


「はて? ちょっと何を仰っているのか分かりませぬ。読んでもおらぬのに文句を言いに来たような物言いですな」

「読むに値せぬわ!」

「そう思われたのであればそれで結構。捨て置けばよろしいではありませんか」


 そもそも刊行することは約図によって一年以上前から周知していた話であり、文句を言うタイミングはいくらでもあったはず。それを今になってギャースカ言い出してどうしたいと言うのか。全く理解出来ん。


「貴殿らは医者でござろう。医術の進歩により、これまで助からなかった者の命が少なからず救える可能性が増えるのです。何を怒ることがあるのでしょうか?」

「我らは古より連綿と伝わりし医術を受け継いでおる。洋夷の学問など不要じゃ!」

「はぁ……貴殿らはオランダのことを洋夷洋夷と蔑んでおるが、何を根拠に蔑んでおられるのか」

「洋夷は洋夷にござる! 我が国の医術が劣っているなどあり得ぬ!」

「貴殿らの印象のみで下された評価を聞いているわけではありませぬ。事実に基づき、何がどう劣っているのか、万人が分かるように論拠を示されよと申しておる」

「我らの医術の方が優れているに決まっている!」


 ダメだこりゃ……論戦に挑むなら、それこそ孫子の「敵を知り……」が大事だ。なのに相手のことも知らず、唯々自分たちの考えが正しいという一点張りで話し合いになるはずないことが分からないようだ。


 この時代の医者というのは国家資格があるわけではないけど、幕府や各藩に抱えられた典医であれば相応に学を修めているはず。


 言い換えれば、頭の造りが悪い者に務まる仕事ではないと考えていたが、勉強は出来ても……のタイプなのかな。人の話を聞かないってのは、それだけで他のプラスが全部消し飛ぶくらいのマイナス要素だと思う。


「知らぬものを知ろうともせず、確たる根拠も無く己の方が優れていると宣うのであれば、尚更捨て置けばよろしいではありませんか」

「そうは参らぬ」

「何故でしょう? ご自分たちが優れているものを持っているとお考えなら、結果でもって示して、オランダ医学など大したことないと胸を張って証明なされればよろしかろう」


 彼らは自分たちの方が優れていると確信しているのではなく、そう思い込まねば自身の立場やアイデンティティが失われるのではと、漠然ながら畏怖しているのだろう。攻撃的な物言いなのも、相手を知らない故に守勢に入れないからだと思う。


 だけど、それに付き合うほど俺もヒマじゃないのだ。


「申し訳ないが、某この後所用がございましてな。互いの知識を交わして議論するならば、また日を改めてと言いたいが、その必要は無さそうだ。そろそろお引き取り願いましょう」

「待たれよ! まだ話はおわっておらん」

「終わるも何も、これが話し合いだと仰せなら始まってもおらん。貴殿らの医学の方が優れていると伝えたいならそれでよろしいではありませんか」

「そのことと蘭書和訳は別だ!」


 さっさと帰れと言わんばかりに俺が立ち上がると、そうはさせじと頑固医者どもがまだ何かを言い募っている。こういうとき、都人なら「ぶぶ漬けでも……」と言うんだろう。実際はそんなこと言わないみたいだけど、言うとすればこういう状況なんじゃないかと思う。


「何を当たり前のことを仰せか。蘭書和訳は貴殿らの仕事を邪魔する意図など一切ない。元々は我が師、青木昆陽が吉宗公より承りし君命を受け継ぎ、更に言えば大納言様からも蘭書和訳のお役を仰せつかる身なれば、お役目を果たしたまでのこと。そなたらの医学や知識を貶める意図など何処にも有りはせぬ」

「それがそもそもの間違いよ! 吉宗公も大納言様もお主ら蘭学者に誑かされておるのだ!」


 ……ちょっと聞き捨てならないね。根拠もなく人をペテン師や山師のように言うのであれば、それこそ体面に関わる話。全面戦争も辞さない覚悟と見ていいのか。




――ドンッ!


 さすがの俺もどういうことだと言いかけたところで、隣の部屋と繋がる襖が勢い良く開いた。


「お主らは我がお祖父様が人に誑かされるような愚か者だと言いたいのか?」


 そこに姿を見せた一人の少年と一人の少女。


 言わずとも分かるであろう。蘭学の講義を受けていた途中で邪魔者に乱入され、何を話してくれるのかと隣の部屋で聞き耳を立てていた賢丸様と種姫様……いや、今は激おこぷんぷん丸様と激おこぷんぷん姫様だな。

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